日中の燃え上がる程の熱気を冷ますが如く降った夕立のおかげで、今は少し涼しくなった。風も出てきて空は晴れ、水分の満ちた空気は、むんとした熱気を孕んでいた時よりも、視界をクリアにしている。現在20時30分。待ちわびた約束の日に、意気揚々とスニーカーで裏山に乗り込んだ。わたしが家から持ってきた蚊取り線香の側に、京治と並んで座っている。夜露で服が濡れないように、これまたわたしが用意したビニールシートを敷いて。
「さそり座…」
赤く輝く一等星アンタレスをほぼ中心として、S字にたどるとさそり座だ。特長的な形のものは、やはり見つけやすい。わたしの呟きを聞いた京治が、横で目をこらしているのがなんとなく分かった。
「どのへん」
「えーとね、大三角があって、そこから斜めに降りたら…」
「あー、赤いの」
「うん、それがさそりの心臓みたいな」
京治の視界に入るように腕を伸ばして夜空をたどる。見つけられたのか京治は「さそり、ね」と頷いた。
「問題です。さそりに刺された狩人とは誰でしょう」
幼い頃よくしていたように京治に問うと、彼は顎に手を当てて考え始めた。昔も今も、彼はこうして律儀に考えてくれるのだ。
「ヘラクレス」
「あー、ヘラクレスはさそりとは戦ってないかな」
ヘラクレスの12の試練の中にさそりはなかったはずだ。ちょっと前のしし座の件で、彼がヘラクレスの名前を記憶しているのだと思ったらなんだかおかしくなる。
「正解はオリオン。オリオン座」
「あぁ。そういえば昔、志歩から聞いたかも」
わたしも言った気がしていた。その時京治が何と答えてくれたかは、さすがに覚えてないけれど。
「オリオン座は…冬?」
「そう。さそり座の出てこない時に、空に現れる」
屈強な狩人であるオリオンも、苦手なものは避けたいのだ。ただの女子大生であるわたしだってそう。苦手なものは避けたい。
ここ最近、違う学科の同級生の男の子が、しきりにわたしを誘うのだ。今日三駅先で行われている夏祭りにも、メッセージでしきりに誘われた。彼氏がいることは勿論伝えてあるが、全く怯むことなくアプローチを続けてくる為、わたしの頭を悩ませている。姿の見えない彼氏など弊害でも何でもない、という思いが滲み出ているのが余計に嫌だ。京治にもなんとなく言い出せずにいて、それもまた加えて悩みとなっている。
「光ってるよ」
ビニールシートに投げっぱなしにしていた携帯を指差して、京治が言う。おそらく例の彼だろう。夏祭りよりわたしは、星空の下でこの人といたいというのに。
とりあえず拾い上げてメッセージを開くと、友達と夏祭りに行っている旨が写真付きで示されていた。来週もどこかで祭りがあると、たった今追加で送られてきて、ため息が漏れる。画面が眩しいのもあいまって、自分の眉間にどんどんしわが寄るのが分かった。もういっそ非表示にしてしまおうかと本気で考えていると、覗き込む画面に陰がかかる。
「"今度こそ一緒にどうですか?"」
最後に表示されている文言を、そのままゆっくりと読んだその声に、わたしは慌てて顔を上げた。わたしが携帯に触れている時に、覗き込んできたことなど初めてだ。さっきまでのわたしの態度に何か感じるところがあったのだろうか。何と言えばいいのか分からず、両手で携帯を握って彼を見ていた。暗闇ではっきりと表情が見えず、余計に怖くなる。
「いや、そんな怯えなくても。怒ってないし」
「……だって」
いつもと変わらぬ平坦な声で、京治はそう言った。それでもなんだか安心できずに、わたしは自分を守るように身体を小さくしたまま口ごもった。
「一方的なんでしょ。それくらい分かるよ」
夜空に目を向けて、京治はそう言った。やはりなんと言っていいか分からずに、指先で携帯の縁を無意味になぞる。開きっぱなしのメッセージ画面では、なおも追加で文章が送られてきていた。
風が吹いて、蚊取り線香の煙がこちらに向かってくる。目を細めてそれに耐えていると、がさっとビニールシートの音がした。
「え、え、なに…?」
ビニールシートに手をついて、こちらに身体を寄せた京治は、わたしの手の中から携帯を取り上げてそのままそれを伏せて置いた。胡座をかいてこちらを見下ろす京治に戸惑いながら尋ねると、彼はやはり平坦な声で言った。
「祭り行く?来週」
「え?」
まさかそんな提案をされるとは思わなくて、わたしは驚いて彼を見上げた。人の多い場所に自ら進んで出ていくような彼ではないのを、わたしは知っている。
「まぁ、どこであるかは知らないけど」
視線をふいとそらしてそう続ける姿が、彼のわずかな照れ隠しなのだと気づいて、胸がぎゅっと締め付けられたような気がした。大人びた態度と言動で隠れてしまっている、彼の高校生らしい部分が見れたようで嬉しくなる。
「笑わなくていいから、返事は?」
無意識ににやけていたわたしをじろりと見て、京治は自分の携帯をいじり始める。きっと祭りの場所を調べてくれているのだろう。もうそれくらいは分かる。
「行く。一緒に行く」
尚も笑いながら言うと、京治にぺしりと頭を叩かれた。そのままぐじゃぐじゃとかき回されて、抗議の声を上げる間もなく押し黙る。その手はだんだんと優しく髪をすいていき、最後にゆっくりと離れていく。彼がごくたまにするこの行動に、わたしは弱い。
「二駅先か、近いね」
顔が火照るわたしをさらりと無視して祭りの場所を告げる彼は、きっとわざとやっている。やり返しのすべを持たないわたしは、せめてと携帯から離れた彼の手を握ってやった。それくらいでは動じない京治は、逆にわたしの手を深く握り込む。また一段階上がった顔の熱を冷ますように、夜風が流れていくのが気持ち良かった。
後であの男の子に返信をしておかければならない。"祭りは彼氏と行きます"と。
そうやってわたしが刺した毒が効いてそのままあの人が逃げ出してくれるよう、さそり座にお願いしておこうと思った。