Silencer
「サボ君って、いっつもナマエの話をしてるんだよ」
そう言ってにっこりと笑うコアラさんの言葉に、わたしは傾けかけていたマグカップを口から離した。
「サボくん…、どなたですか?」
「え、え、サボ君知らない…?」
同じくマグカップを手にする彼女は、そんなはずはないと言うような表情で顔を上げた。ぱちくりと目を見開かれて、わたしは慌てて自分の記憶とその名前を照らし合わせた。けれど、革命軍に入ってから知り合った人に、そんな名前はいない。名前を覚えるのは得意な方だ。特に、一緒に任務をこなしたメンバーの名前と顔は絶対に忘れない。
「知りません…どなたですか?」
わたしの話をコアラさんによくしてくれているというのに、その相手がわたしの頭に全く残ってないとしたら、物凄く失礼な話だ。恐る恐る尋ねると、彼女は落ち着くようにコーヒーをひと口飲んでから言った。
「サボ君。参謀総長のサボ君。知らない?……もしかして一方的に何かされてるとか」
「あ、総長」
知っている人で安心した。と同時に、そういえば名前を聞いたことがなかったことに気がついた。ここに入って二ヶ月以上経過したというのに、全然知らなかった。
「総長ならもちろん知っています。お名前は、今初めて知りましたが」
「あー、そうなんだ…。けっこういろいろすっ飛ばすからね、彼」
わたしと任務に出るのは二度目のコアラさんだが、普段は総長達と行動することが多いようで、何か心当たりがあるのかため息を吐きながら窓の外に目をやった。
「あ、そういえば船酔いするんだったよね。大丈夫?」
ぱっと顔をこちらへ向けて、彼女は心配そうに言った。飲み干したマグカップを机に置いて、わたしは大丈夫ですと頷いた。
「大分慣れましたので。……もしかしてそれも総長から」
「そうそう、聞いたの。中じゃなくて外に出てた方が良かった?今更だけど」
コーヒー飲もう、と誘ってくれたコアラさんと、今は船の作戦室の机についている。任務後の帰還途中の為、船全体の空気は穏やかだ。船酔いは本当に平気な為、優しい気遣いに頭を下げる。
「今日は平気です。ありがとうございます」
「そんなことまで知ってるから、けっこう話す仲なのかと思ってた」
「いえ、そうでもなくて…」
会話をした回数でいえば、コアラさんや他の皆の方がよほど多い。わたしの任務帰りに、なぜか同じ通路で待ち構えている彼とは「おかえり」「ただいま戻りました」をひたすら繰り返す関係だ。奇妙な関係だとは思う。けれどおかしいのは向こうの方だ。わたしは別に何もしていない。
「面白いね、ふたりとも」
それなのに、コアラさんはそう言って笑った。とても楽しそうだ。何とも言葉が返せずに、わたしは曖昧に笑いながら空のマグカップの取っ手を撫でた。
彼は今日もあそこにいるのだろうか。
「おかえり」
途中の悪天候の為、本部に到着したのは夜もすっかり更けた頃。闇に溶けるように彼はそこに立っていた。
「ただいま戻りました。……お休みになられないのですか」
「もう少ししたら休むよ。おれも今帰ってきたところだし」
この時間でも何人か動き回る人を見掛けたのは、そういうことらしい。けれど、ここに来る必要はないのではないかと思う。最近気がついたが、この辺りにあるのは、わたしの部屋と他数人のメンバーの部屋のみだ。彼の部屋はもっと別の場所にあるはずなのに。
「どうだった?任務」
「はい、滞りなく」
では、と通り過ぎようとして、ふとコアラさんの言葉を思い出した。彼の横で顔を上げる。ん?と彼はこちらに首を傾けた。
「そういえばお名前を、初めて伺いました」
「名前?」
「総長の」
「あぁ。え、おれ言ってなかった?」
「はい」
そこまで言ってから、だからなんだというのだろうと自分で気がついた。名前を知らなかったからなんだというのだ。そう呼ぶわけでもあるまいし。今のように総長で充分不自由しない。
「で、では、おやすみなさい」
早口でそう伝えて歩き出そうとした。考えずに言葉を漏らすなんて普段は絶対しないのに、わざわざ立ち止まって、いったい何を言っているんだ。今の短いやり取りになんだかどっと疲れを感じた。
「ナマエ」
歩き出すわたしの背に彼の声が届いた。夜の通路に落ちたその穏やかな声は、ゆっくりとわたしの鼓膜を揺らす。
「おやすみ」
言われて思わず振り返ってしまった。彼はもう背を向けていて、颯爽と歩いて行く。聞き間違いじゃない。彼がわたしの名前を呼んだのは、初めてのことだった。