白とピンクのかわいい建物。
それはまるで、女の子の理想を詰め込んだような造形だった。
あれから、来た道を戻りつつ坂を上って降りてを繰り返して。
なんとなく自分のいる場所を掴みつつも、視界は涙でぐしゃぐしゃで。
結局明確に居場所を特定することも叶わずに、されるがまま腕を引かれて素直についていったのだった。
そうして、今はあの男の子いわく"安全な場所"とやらに居座らせてもらっているのである。
多分ここは、彼の家。
カチカチと動く壁に掛けられた時計の針は、すっかり深夜を指していて。
ああ、終電終わってしまった、とぼんやりと思う私は、それでもしかし動けないでいる。
なんだかまだ混乱が続いていて。
これからどうすればいいのか、全く思い付かないのだ。
そんな、戸惑いを押さえきれない私の前に。
すっと、小振りのマグカップが差し出された。
「はい、ココア。飲める?」
「……のめる」
特徴的な花柄のマグカップ。
それを受け取りながら、高いブランドの奴だと思わず頭の隅っこで感想を抱く。
そんなにそういうブランドには詳しくないけど、それは有名だから何となく覚えていたのだ。
中に注がれているココアはとろりと深い色合いで、ゆらゆらと空気を白く燻らせている。
甘そう。
美味しそう。
そうは思うんだけど、頭のどこかで"飲んでしまって大丈夫?"と不安がる自分も居て。
暫くじっとカップを見ていたら、おもむろに目の前の彼が同じものを口に含んでみせた。
もしかしたら気を遣わせたのかもしれない。
そう思ったけれど、なんだかそれに安心もして。
その喉がこくりと動いたのを見送った後に、おずおずと真似して口に含んでみる。
──あまい。
「美味しい?」
「……おいしい」
ここは多分、リビング。
ピンク色の壁に、カラフルな壁飾り。
つるつるのひし形タイルの床と、白と水色の家具。
全体的に、女子が好きそうなレイアウト。
──このひと、男だよね?
あまりにも男性的な気配のない部屋に、そんな訝し気な感情が湧きあがってくる。
すん、と鼻を鳴らせば、涙の所為で少し鈍ってはいるものの、パウダー系の甘い匂いを感じ取れて。
それが更に、自分の中の男性と言う概念をあやふやにさせていく。
「ねえ、なにから知りたい?どこまで自分のこと知ってるの?」
「じ、自分のこと……?」
アイドルみたいに可愛い顔が、にこりと微笑んで。
そうして少し小首を傾げながら、そう問いかけてくる。
今の距離感は、大きなソファーに二人で腰かけている状態。
私と彼の間には、クッションがひとつ置かれている。
そしてこのクッションは、今の私にとっては防波堤に近い役割を持っていて。
ここまで手を引いて連れてきてもらった身分だけれど、どうかそれ以上近づいてくれるなと思う自分が確かにいるのだ。
助けてくれたのはわかってる。
でもまだ、心が追い付かない。
──知りたいこと、知っていること。
言われている意味が、わかるようでわからない。
知りたいことに含まれるのは、確実にあの猿のこと。
それに対して私が知っていることは、恐らく、皆無に近くて。
頭がうまく働かなくて、もどかしい。
それでも、ごちゃごちゃの思考のまま、言葉をひとつひとつまとめていく。
温かいココアを両手のひらで包みながら、どう話を切り出そうか考える。
ひとまずは、私が知りたいことは、あの猿のこと。
気になることをひとつづつ、潰していかなければ。
「……あの猿は、いったいなんですか?」
「え〜〜敬語やだー。普通にお喋りしようよ。じゃなきゃボク、教えてあげなーい」
探り探りに問いかけた言葉は、しかし予想外の言葉で打ち返されてしまった。
まさかそんな反応をされるとは思ってもみなかったから、ちょっとだけぽかんとしてしまう。
だけど、あれだ。
見た目からして年齢も近いし、もしかしたら堅苦しいのが嫌いなのかもしれない。
「え、ええと、じゃあ、突然出てきたあの猿はなに?人間みたいに服を着て、言葉を喋ってて」
──わたしを襲おうとしてきた。
とまで舌が滑りかけたけど、そこまでは、言わなくてもいいことだろう。
私の言葉に、彼は静かに笑って。
そうしてゆるりと瞳を細めた後に、そうっと唇を開いていく。
「んー。そうだなぁ。それについてまずボクからも質問なんだけど、キミはいつからあのサルが視える様になったの?」
「え、」
「なにか、"切っ掛け"があったでしょ?」
きっかけ。
切っ掛けと言われたら。
脳裏に過るのは、あの車しかなくて。
「……くるま、に。轢かれかけて」
「うんうん。救急車呼ばれてたもんね〜。あそこに居たんだ。じゃあその時死んじゃう! って強く思ったの?」
「……うん」
どっちかっていうと、死んじゃうというか、当たると思った。
当たったら死ぬとまでは、あの時は思っていなくて。
でも、ただ、純粋に、肝が冷えるどころではない、身体が凍り付くような恐怖感に心臓が止まるような錯覚を覚えたのは、確かで。
「気づいたら、倒れてて。そし、そしたら、さ、猿に、囲まれてて」
「周りが突然発情タイム突入〜〜って、感じ?」
「…………」
面白がるように呟かれた言葉に、少し顔を顰めてしまう。
しかし、だけど、その言葉は確かに的を得ていて。
"発情"──確かに、あれはそう表現するに最も相応しい光景なのだろう。
あの色めきだった猿たちの表情を思い出して、思わずぞっと身体が震えた。
その怯えを誤魔化すように、こくりと甘いココアを口に流し込む。
味がわかるのなら、多分まだ、大丈夫だ。
「じゃあ、あれだね。キミってほんと、起きたばっかなんだ」
「……?」
──起きた?
それっていったいどういうことかと思っていれば。
彼は手にしていたマグカップをソファーの直ぐ傍にあるリビングテーブルの上に置いて、そのまま大きめなメモ用紙とペンを手に取った。
そうして、私たちの間にあるクッションを机代わりに、その上でさらさらと何事かを描き始める。
「まずね、ビックリしちゃうと思うんだけど──この世界に存在する人間は、"人類"だけじゃないんだよ」
「え、?」
「あはは!まあ、そういう反応だよね」
伏せられていた瞳が、私を見上げてゆるりと細まる。
私なんかよりもたっぷりした量の長い睫毛は、目の下にくっきり影を作っていて。
影の所為で色の濃くなる瞳の色が、照明の光に照らされて、きらきらと輝いている。
本当に、作り物みたいに綺麗な瞳だ。
うっかりすれば見惚れてしまいそうなその瞳に、何故だかはっとして、思わず目を反らしてしまった。
変に、思われなかっただろうか。
なんだかもう、やっぱり、調子が元に戻らない。
「まずね、あのサル達。あれは"猿人"っていって、サルから進化した人間の姿なの」
「え、えんじん……」
「そう、猿人。猿に人って書いて、猿人。それに対して、ボクらは"斑類"っていうもうひとつ種族なんだ」
──まだらるい?
初めて聞く言葉に、うまく話しの内容が頭に入ってきてくれない。
なんだそれはと思いつつ、混乱する思考のまま彼の手元の紙を覗き見る。
すると彼は見やすいように、紙をこちら側に向けてくれた。
そこには、日光でお馴染みの見ザル聞かザル言わザルのイラストが──いや、イラストすごくうまいな。
「イラスト、すごく上手だね」
「でしょでしょ!」
思わず素直にそう褒めたら、同じく素直に誇らしげな声。
その余りに無邪気な声音に、自分の中のピリピリとした感情も落ち着いてくる。
というかあれだ。下手に謙遜されるよりも、そうやって受け止めて貰える方が、こっちの気分も気持ちいい。
軽い軽口に、どこかほっとした自分が居て。
少しだけ呼吸をし直して、いつの間にか温くなっていたココアを真似するようにテーブルの上に置いてみた。
──これで、もう少し見やすくなる。
「でねでね?猿は精神構造がすっごく排他的なんだぁ。自分たちにわからないものは、見ようとしないし聞こうとしないし言おうとしない。霊感とかあるでしょ?あれに近いかな。視えるヒトは信じるけど、視えないヒトは信じない」
「……え?いや、……いや、え、っ……あ、じゃあ日光のあの見ザル聞かザル言わザルって……?」
「あははっ作ったヒトは斑類だったのかもね!」
え、まって歴史的建造物に対してなんか違う感情を抱いてしまいそう。
ぐるぐる色んな方向性に考えを巡らせ始めようとする思考を押さえつける様に思わず頭に手を当てた。
つまり、なんだ。
私が視えていなかっただけで、今までもずっとあの猿たちは存在していた?
つまり──わたしも、猿人だった?
「それで斑類だけど。人類を猿から進化した人間と称するなら、斑類は進化の過程で猿以外の動物の特徴を持ったままヒト型に進化した、動物のDNAが"斑覚醒"している人間ってことなんだけど、伝わる?」
「えっと待って、猿以外で、まだら……ああ、犬とか猫とか、色んな動物の人がいるから"まだら模様"の斑なの?」
「そうそう! いいねいいねっ理解はやーいっ!」
にこにこと、可愛らしい顔が嬉しそうに綻んでいる。
それに思わずへらりと笑い返すも、正直、頭の中はごちゃごちゃだ。
わかりはしたけど、理解はできない。
頭が、まだそれが現実だと信じようとしていない。
つまり私は今まで自分がサルだと気付かないで生きていて、だけど、事故に遭いかけて"目が醒めた"?
いや──ん?あれ、ちょっとまてよ。
「……なんで私、突然猿人がわかるようになったの?」
「……」
「今までわかんなかったってことは、私も猿人ってことだ。なのになんで、私、突然わかるようになったの?」
そうだ、なんかおかしくないか?
あの場所にいたのは猿人たちで、猿人という存在はサルから進化した人間で。
さっきの口振りからすると、猿人は斑類とは違って自分達がサルってこともわからないで生活してる。
そして猿人とは違って、斑類は、多分自分がなんの動物から進化した人間なのかわかるんだろう。
そうだ、多分そういうこと。
そこまでは、わかる。
わからないのはここからだ。
私もきっと、"サル"なのだ。
だから今まで自分が"サル"だって見えなかったし、聞こえなかったし、言えなかった。
わからないから、わかることができなかった。
だけど今の私は、あの場にいた人間が"サル"に見えて、聞こえて、言えたのだ。
まだ聞こえると言えるって意味はわかってないけど、猿人という存在を認知した時点でそれをすることはできるんだろう。
私はどうして、猿人なのに、猿人を知覚しているの?
「──それは、君が"特別"な子だからだよ」
そう、耳元から聴こえる声に。
ひくりと、身体が小さく跳ねた。
いつの間には目の前に、あの綺麗な顔があって。
あのきらきら輝く瞳が覗き込んでいて。
そのあまりの近さに、軽く息を飲んで仰け反ろうと──したのに。
なぜか仰け反るどころか、腕から力がカクリと抜けて、自ら彼の方へ縋るように倒れこんでしまう。
そしてぽすりと軽く受け止められて。
それと同時に、クッションの上にあったペンがソファーから転げ落ちていく。
そうしてそのまま、視界の端に、ラグに引っ掛かるのが見えて。
それを、見ることしか、できなく、て。
「ぁ、え、……?」
「斑類の中でも、特に"ボクら"はちょっと問題を抱えててさ」
頭が、くらくらする。
なんで、ココアになにか入れられた?
ふわりと鼻に、"甘い薫り"がこびりつく。
それは息をすればするほど肺のなかを満たしていって、息を吸えば吸うほど、頭が動かなくなっていって。
──身体が、あつく、なっていって?
「斑類にはね、種類があるの。特権階級と、それ以下。上に上がれば上がるほど出来ることは増えるのに、"あるコト"だけ難しくなっちゃう」
ぞわぞわ、する。
身体が、なんだか変な感じ。
奥底から燻るような、じわじわと熱く茹だっていくような、変な感覚。
それは熱を出した時と少し似ていて、でも全然違くて。
跳ねるように身体を震わしながら、どんどん力が抜けて、身体をもて余してしまう。
「"ソレ"がサルは得意だからさ、ぽんぽん孕んで孕ませて、どんどん人口増やしちゃって今みたいになっててさ。笑っちゃうよね?猿人の人口70%に対して、ボクらはたったの30%ぽっちなんだから」
さっきまでの話し方と、どこか違う喋り口調。
それを疑問に思う余裕すらなく、服の下に潜り込む手のひらの冷たさに、ひくりと喉が勝手に震える。
「だからボクらにとって、君はとっても貴重で何よりもプレミアムな──"雌"なんだ」
甘い、こえ。
肌の感触を確かめるように下からゆっくりと這い上がる手のひらが、遊ぶように下着の縁をそっと指でなぞった。
そうしてそのまま、実に簡単に、なんの迷いも躊躇いもなく、引っ掻くようにホックを外してしまう。
締め付けが弛む感触に、思わず息を震わせれば。
まるでそれを笑うようにさらけ出された場所を我が物顔でなぞられていく。
それに確かに、だめだって、思うのに。
身体は上手く動かなくて、むしろ肌を指先が滑る度に、ぞくぞくと腹の奥から痺れる錯覚に陥ってしまって、止まらなくて。
まって、まって。
へん、おかしい。
なんでわたし、触られてるの?
「ゃ──や、っ、らっ」
「んー?だぁいじょうぶ、痛くしないよぉ。むしろすっごく気持ちよくしてあげる」
必死に絞り出した声は、けれど相手にもされていない。
むしろこんな華奢な身体のどこに、と思う力でぐっと身体を抱き起こされて、そのままパーカーも、中に着込んでいたTシャツもブラジャーごと剥ぎ取られてしまう。
「も〜〜ダメだよ、もっとかわいい服着なきゃ!プレミアムはプレミアムに相応しい服を着て、着飾らなきゃメっだよ。仕方ないからボクが上から下まで全部ぜぇんぶ選んであげちゃう。うんうん。だからこっちも、ポイしちゃおうね」
「ん、ひっ、やぁ、っ」
今度は背中から倒れるように仰向けに転がされて、蛇の脱皮みたいに簡単にボトムをずるりと脱がされて。
これだけはと、なぜか力の入らない指先で下着を守ろうとするのに。
その手さえ、簡単に振り払われて、奪われてしまう。
「ゃ、やだ、っ、ぁ、だめっやっ」
「うんうん寒いねー。でも大丈夫、すぐ熱くなっちゃうよ」
ぷつんぷつんと丁寧に、私の目の前でボタンが外されていく。
見せつけるように、焦らすみたいに、それは私の時よりもゆっくりと脱いでいて。
経験がなくたってわかってしまう状況に、細くなる息でそれでも抵抗を試みる。
だって、だめだ。
こんな、名前も知らない人と、こんな。
これじゃ──あのサルたちと、なんにも変わんない。
そう、思うのに。
そう、思っているのに。
「ぁ、あ、……、っ」
喉からこぼれる息は上がって。
今は触られてもいないのに、ぞわぞわと、這うような痺れが止まらなくて。
こんな──だめな、はずなのに。
衣服が、落ちる音。
ギシリと、ソファーの軋む音がする。
くらくらする頭で、私に跨がる彼を、ただ、縋るように見詰めて。
呼吸すら重なるほど近くで、ゆっくりと瞳と瞳が交わりあう。
熱を秘めた瞳が私を写して、まるで誘惑するように微笑んだ。
そうして額に被さる髪を、その細い指先で優しく払われる。
ふわりと先程よりも強くなった香りに──もう、頭の中から蕩けてしまいそうだと、ぼんやり、思って。
「ボクと、気持ちいいコト、しちゃおっか」
──だめだって、思うのに。
それすら言えず、私の言葉は飲み込まれて、消えていくのだ。