03

ふわりと満ちる、上品な香り。
その香りの部屋で、あの男はにこやかに幾つかの約束を与えてきた。

──その一。
食事は必ず手ずから一日に三度与えるべし。

無駄に凝ったボトルに収められたそれを、怪訝な手つきで説明書通りに入れていく。
ミルクを注いだ鍋に火をかけ、とろりと匙に絡まる状態にするのが好ましい──とかなんとか。

人並みに調理はするものの、基本レトルトなどのものの方が多い銃兎は、正直とろりってどのくらいだと曖昧な記述に少々苛立っていたりする。
強火か弱火かも書いていない、大体何分間火にかければいいのかも書いていない。
全く持って、値段に見合わなすぎる不親切な説明書だ。

「ええと、次は"人肌程度に冷めるまで待て"──いや熱したのに冷ますのかよ」

じゃあなぜ熱したのか。
そして人肌程度って大体何℃なのか。
ああ駄目だ、あまりにガサツ過ぎて耐えられない。

気を抜けば頭痛すら起きてしまいそうな程欲しい情報を何一つとして明確に明記していない説明書に。
これ以上見ても意味はないと銃兎はぐっと米神を指で押しながら、念のため箱の中に戻していく。
例え使えなくとも、一応説明書は取っておく質の人間なのだ。

そうして常温保存厳禁だというミルクをワインセラーの中に収納しながら、ちらりとリビングの方に置いてきた"人形"へと視線を送る。
キッチンカウンター式の銃兎のリビングは、キッチンの方からでもしっかりと部屋が見渡せるのだ。

そんな銃兎の視線の先で。
しかし件の"人形"は、その身体の小ささからソファーに隠れてしまって姿を確認することが出来ない。

──少し、家具の配置を変えるか。
そう思いつつ、カップに移し替えて時間を置いているミルクを、より冷ます為にスプーンでくるくるとかき混ぜて。
人肌程度って一体どのくらいだと、先程も思った疑問に頭を悩ませる。

人の平均体温は大体36℃だから、つまり触って温いと感じるくらいだろうか。
そんなことを考えつつ、なんとなくカップの中に沈めていたスプーンを口の中へと招いてみた。
──思った以上に、美味い。

いや、美味いな。
え、美味いなこれ。
なんだかもう、雷でも降ったような衝撃である。

ほんのり甘く、舌の上でとりろと蕩ける蜜のような質感。
けれど決して舌や喉に貼りつくことはなく、直ぐにミルクはその風味だけを残して口の中に浸透するように溶けていってしまう。

いうなれば、上等な和三盆を溶かした飲み物のような。
それでいて、和三盆よりも甘さはくどくなく、蜂蜜のように絡みつくこともなく、癖のない触感。
──なるほど、確かにこれは高級品だ。

取り合えず、人肌という基準程度の温度にはなっただろうと、カップを持ってリビングへと歩いていく。
そうしてやや伺うようにソファーを覗き込んでみれば。
そこには小さく寝息を立ててたまま、くてんと身体をソファーに預ける小さな姿。

…………

あの店でもみた、眠り姿。
けれどあそこよりも、その仕草は大分人間味があるのは、どうしてだろうか。
思えばあの店では瞳を閉ざしたまま、呼吸すらしていなかったけれど。
今はこうして、時折その小さな胸が上記する程度には、人らしい動きがあるのだ。
それはまるで、生きているような。

──魂が、吹き込まれた。
まさしくそう表現するに相応しい、その様子。
そんな"人形"の姿に、なぜだか感動に近い感覚を覚えながら、銃兎は恐る恐るといった様子で"人形"の横へと腰かけるのだ。

すると、今の今まで静かに眠り込んでいた"人形"が、ぱちりとその目蓋を持ち上げて。
そうしてそのまま銃兎の方を見たかと思ったら、その菫青石の瞳を、とろりと細めて笑いかけてくる。

……!」

それに思わず、なぜか、ぐっと胸が詰まって。
なんとなく呻きそうになりつつ、いややめろ不審者かと自分をいなして銃兎はなんとか表情を取り繕うのである。

……、み、ミルクを温めました。お腹は空いていますか?」

人形って、腹が空いたりするんだろうか。
なんて自問自答しながらも絞り出した自分の言葉に、なんだかもう、頭の中は取っ散らかっている。

どう接すればいいのかわからないという感情と、ひたすらこの邪気のない"人形"を眺め続けていたいという感情と、犬猫のように膝にでも乗っけて延々と時間を無駄にしてしまいたいという、謎の感情が交互に頭の中で主張を繰り返しているのだ。

どうした、一体どうしたんだ俺は。
そんなことを思いつつも、その視線はがっちりと目の前の"人形"にキープされていて。
目の前の"人形"は、そんな銃兎の視線にはにかむ様に笑って、その小さなふくふくとした柔らかそうな手のひらをカップの方へと伸ばしてい来る。

──ん゛っっ!!!!
謎の胸の詰まり、第二弾である。
というかもう、なんかもう、なんだもう。
叫びたいような悶えたいような謎の感覚に、しかしポーカーフェイスだけは立派に鋼鉄なものだから、銃兎はその小さな手に涼し気な様子でカップを渡してやるのである。
いやもう、内心は感情が誤爆し続けているのだが。
そんでもってカップを落とさないか、とても心配だ。

"少女"は、小さな手の中に抱えたミルクを、大事そうに眺めて。
そうして、淡く色づくこれまた小さな唇をそっと開いたかと思ったら、恐る恐るといった様子でほんの少しだけ口付けた。
──そして、そこからが、劇的だったのだ。

ミルクが唇に吸い込まれて、こくりと喉が小さく動いたら。
その菫青石色の瞳が、ぱっと星を纏ったように輝き出して。
じわじわと色づく頬のまま、小さい唇で、それでも必死に一生懸命ミルクを飲み始めたのである。
それこそまるで、小さな小動物の食事にように。

銃兎は紅茶よりも珈琲派の人間だったから、この家にはティーカップなんてものはなく。
だから今回も、銃兎がミルクを入れたカップは珈琲用の大きく厚く、底の深いもの。
そこに控え目に入れたとしても、それはどうやら、この"人形"には些か大きすぎたようで。

んく、んく、と効果音が聴こえてきそうな程、一生懸命に"人形"は喉を動かしていく。
時折休憩して、そしてまた動いて、どんどんどんどん、カップを持ち上げていって。
下手をすればそのまま後ろに倒れ込んでしまうんじゃないかと不安になってしまうほど、──美味しそうに、"人形"は飲んでいて。

…………

いやもう、無言である。
というかもう、角膜に焼き付ける勢いでガン見している。

──なんだこれ。
そう思う銃兎は、しかし無表情で一生懸命に"生きて"いる"人形"を眺め続けている。
いうなれば、拾った子猫が、初めて目の前で食事しているのを目撃してしまった時のような庇護欲──いや、それよりも大分暴力的な感情が、胸の中を満たしているのだ。

一部の人間はその感情を尊い、、だとか呼んだりもするが──そんなことを銃兎が知るわけもなく。
ただ自分から込み上げる得体のしれない感情に思考を埋め尽くされながら、"人形"がミルクを飲み終わるのを静かに待ち続けているのである。

そうして恐らく、最後の一滴まで口の含んだようで。
こくり、と小さく喉を鳴らしてカップを降ろした"人形"は、はふ、と息を溢しながら、恍惚ともいえる表情で頬を綻ばせるのである。

……っ、」

それはまさに、極上の笑顔。
純真無垢の星が弾けるようなその欲のない綻びに、銃兎の胸は、本日第三回目の胸の詰まりを覚えてしまった。

いやというか、わかってる。
いやもう──めっっっちゃくちゃ、癒される……

なんだろうか、なんというか、凄く沁みる、、、のだ。
日頃汚いものを見続け、そしてそれを処理し続ける毎日のせいか、ここまで邪気を一切感じさせない生き物と言うのは中々お目にかかれないというか希少というか。
悪事をする人間と言うのは、そして権力を握る人間と言うものは、どうしたってその眼が濁るもので。
だからこそ、ここまで澄み切った美しさを纏う存在なんて、もうここ何年も見ることが叶っていなかった。
だってそんなの、赤ん坊くらいしかいないわけであるし。

だからこそ、ああそうだ、だからこそ。
この"人形"の在り様は、銃兎の心に深くヒットしたのだ。
美しく、穢れなく、儚く、甘やかでいて──自分にだけ、愛を向けるという生き物。多分生き物。

……そりゃあ、金持ちも欲しくもなる」

ふにゃふにゃの微笑みのまま不思議そうに銃兎を眺めている"人形"からカップを取り上げえて、それはサイドテーブルの上に。
そしてそのまま"人形"へと腕を伸ばし、その軽い身体を持ち上げて抱え込む。

すると人形は、一瞬だけ吃驚するように瞬いたけれど。
その次の瞬間には、嬉しそうにぴとりと銃兎に寄り添ってくるのだからもう、堪らない。

──あ゛ぁ〜〜〜〜っ、めちゃくちゃ癒される゛ッッ!
すりすりと頬ずりしてくる柔らかい生き物──多分生き物の感触を感じながら。
空いた手で眼鏡の下から目を覆って、銃兎が天井を見上げた。
なんかもう、沁みすぎて涙が出てきてしまいそうである。
なんだこれ。つらい。しんどい。

そして、そんな時に。
あの店員の無駄に晴れやかな笑顔と共に、あの言葉が蘇ってきたのである。

──その二。
必ず名前をつけるべし。

……名前か」

そういえば確かに、この"人形"は"人形"ではあるけれど、生き人形、、、、で。
仮初の命と言えど、生きているのであれば、そりゃ、固有名詞は必要なもの。
──が、人形の名前って、一体どんなものをつければいいんだ。

あれだろうか。
メアリーだとか、エリザベスだとか、マリアンヌだとかそういう感じなんだろうか。
見た目は本気で美しい人間の幼女だが、身に纏っている服の系統からしてもビクトール人形に近しいものであるし。
ならば、ゴリゴリの日本名よりも、バリバリの英名なんかの方がいいのかとは、思うけれど。

──なんか、癪なんだよなあ。
ここは日本で、自分も日本人で。
それだというのに、わざわざ外国風の名前を付けるだとか、なんなんだ外国かぶれか。
日本人であるならば、そしてあの商人の口ぶりからして国産っぽいのであるならば──別に、和名であっても違和感はないんじゃなかろうか。

そう思って、銃兎はじっと腕の中の"人形"に視線を向ける。
銃兎の膝にお行儀よく座ったままの"人形"は、そんな銃兎の視線に気づいてこてりと首を傾げた。
あざとい。そして可愛い。

ふわふわなのに艶々するするの髪の毛に指を通しても、嫌がらない。
まるで"お好きにどうぞ"とでも言いたげに全身を銃兎に差し出す様は、これ以上ない支配的な感情すら呼び起こしてくる。
自分しか必要としない生き物──それのなんて、甘美な響きなことか。

肌は柔らかく、滑らかだ。
瑞々しいその感触は、まさしく幼く健康的な子供のそれそのもの。
──いや、それよりも丹念に手入れされた極上の肌触りで。

ぼんやりと"人形"を見詰めながら、頭の中ではどんどんと和名の候補を弾き出していく。
なにが今どきでなにが古風かなんてのも、ぶっちゃけて言えば銃兎は知らないし、今後も知る予定すらなかった。
だからもう、その作業は頭の中に蓄積している言葉の組み合わせ大会といっても過言ではない。

響き、漢字──いや平仮名でもいい。
なんならカタカナでも、漢字ならば大事な想いを込めればいい。
画数少ない平仮名やカタカナならば、臨機応変にその意味合いを変えていけばいい。

そうだ。
他の誰でもない、この子の名前は、己だけのものなのだ。
自分だけがその意味を知り、自分だけがその形を知る。
他の誰だって知らなくていい。
自分だけのもの。
自分だけの、ものなのだ。

「──"瑠璃"」

だから気付けは。
確かにそう、口にしていた。

菫青石のきらきら輝く瞳が、銃兎を見上げる。
不思議な瞳だ。
月が昇る前の空のようにも見えるし、風に凪ぐ海のようにも見える色。
光の加減によっては、紫が滲んで見える、美しい碧眼。

その色を確かめる様に、目蓋を頬を撫でながら親指の腹で優しくなぞってみれば。
"瑠璃"は、うっとりと微笑んで自ら望む様に、自らの小さな手を銃兎の手に重ねるのだ。
それはまるで、言葉なくとも愛を囁くようで。

……貴方の名前は、今日から"瑠璃"です」

小さな命。
命の振りをした、仮初の魂。
"愛"だなんていう証明せしめない覚束ないものだけを糧に息をする、永遠の少女。
それのなんと甘美で、なんと憐れなものなのか。

「私の名前は銃兎。拳銃のじゅう、、、に、兎のと書いて、銃兎。……物騒な動物でしょう?」

ほんの少しだけお道化るようにそう囁いてみれば。
腕の中の"瑠璃"は、楽しそうに鈴の鳴るような声で唇を弛めて笑っている。
この腕の中で、なんの疑いもなく、甘やかに。

──胸が、詰まる。
本日四度目、なんて。
無粋なことは、もう言わない。

なによりもどこまでも、純粋なものが今、この手の中にある。
醜い汚物に塗れた世界では決して触れることの叶わない命が、この手の中にあるのだ。
それのなんて。
それの、なんて。

……これから、よろしくお願いしますね」

気付けば、うんと優しい声が喉からこぼれていた。
よく吐き出す脅し声でも、猫なで声でも、相手を馬鹿にする声でもない。
どこまでも小さくか弱い生き物に向ける、甘やかなもの。

──こんなもの、自分から出せたのか、なんて。
思いはするものの、悪い気はしない。

日はとっくに、昇り切っている。
これから風呂に入って、仮眠を取って──あとは、この子の、瑠璃の為の買い物でもしようか。
まずはあんな武骨なマグカップなどではなくて、華奢で小柄なティーカップを買わなければ。
なぜなら、美しいものには美しいものが、相応しいのだから。

窓の外から、白い日差しが差し込んでいる。
その光をぼんやりと見詰めながら、まるで久方ぶりの呼吸をするように、この身はゆっくりと息を吐いた。



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