淡く、若く、青く



「静矢くん、ちょっといいかな」

「わざわざ弓道場にまで来てなんだ」

幸い誰もいないからいいがとお小言と一緒に一言放つと、正座をするぼくの背中越しに制服の擦れる音と床が軋む音が小さく聞こえる。
はぁと溜息を吐いて体制を後ろに返し、再び正座をしてそいつを見ると優しく、少し目を細めてニコリと笑んで座する姿。
意外にもそれは美しく、ひどく様になっていて、思わず驚きを隠すことが出来ずに静かに息を呑む。
黙って姿勢良く座ってさえいれば、将来的に金に困りはしないだろうに。

「一緒に模擬捜査をした好としてぜひ聞いてよ、リーダー。最近、弁護士クラスから検事クラスの授業に特別聴講生の子が来てるのは知ってる?」

「……ああ、彼女か。たしか、進路を捜査官にしようか迷ってるとか言っていたな。それで検事クラスの授業も選択してみたとも聞いた」
「そういう生徒も珍しくはない。そいつがどうした」

「最近、弓彦くんとめちゃくちゃ仲がいいんだけどね、その子頭も良いから弓彦くんに見合ってて良いなっても思うんだけど」

「……」
「そんなことをぼくに言ってどうするんだ」

「うーん…ほらその子、とっても可愛いんだ。こう、胸もすごく大きいし、身長も小さくて仕草も可愛い。ぱっとしない私とはちょっと違うっていうか……んー、あー、華が…ある?」

「……はぁ、嫉妬か。ならもう告白しろ。奪われる前に自分の物にしろ」
「言っておくがその女はただの金持ちと素人が好きな寝取り女だ」

常になんとも余裕のあるやんわりとした笑みを浮かべ、それが儚げにも見えてしまうこの女はとんでもない男に恋をしている。
普段は何を考えてるか分からない、ぼんやりとした佇まいも、今では目をこれでもかというくらい見開いて驚いている。この女の表情をここまでコロコロ変えるのなんて奴以外にいない。逆に驚きだ。

「そんな人に弓彦くんが色々諸々アレされるのは嫌だなぁ……」

「そうだろう」
「まさか嫉妬でここに精神統一でもしに来たのか?その前にやることがあるだろう。田舎出身とは聞いてたがそこまでとはな」

「刺さるな〜」
「さようなら、私の初恋……私の一目惚れ……とかなんとか思ってたんだけどなあ、静矢くんは薄情だあ……」

「……アレが初恋で一目惚れか、それは強い幻覚を見てるだけだから今すぐ目覚めた方がいい」

「言い方酷くない?顔に出てるよ、こいつヤバイって」

「出しているんだ」

一柳。お前がとっとと告白でも何でもしないからお前を好いてるお前の意中の相手は、こんなどーしようもない思春期で悩んでいるんだぞ。ぼくはなんだ、今にも留年しそうで恋愛どころの話じゃないんだ。ふざけるな。
アレも大概クセのあるやつだが、目の前の女もだいぶクセが強い。何度かの合同授業を得て学んだがバカと天才は紙一重と、よく言ったものだ。
まず、この前までノートを拾ってもらっただけで好きになる意味がわからない云々言ってた女が何をそこまで気持ちをナイーブにするのか。
ただでさえ薄暗く静かな弓道場でしみったれた顔をするな。意中がああなんだ、もっとしゃきっとしろと言葉に出そうにも出てこない。

「別にね」
「付き合いたいわけじゃないし、どんな形でも近くで見守れるならそれでいいんだ」
「幸せなら…それでいいんだ。隣が私じゃなくても」

先程のしみったれた顔から一変。少し目を伏せ、今にも消えそうな、哀しそうにも笑う姿になんとも腹が立ってくる。慈悲の心が強すぎる、そんな感情を友人に向けてるのならお前は呪われている。
アレを幸せにしたいと言ったな。ハッキリ言って無理に近い。親がぼくの家も逆らえないほどの権力者なんだ。いつしか現実を知って壊れる。
命が惜しいなら諦めたほうが得策だと、言葉にしようにも、その表情を伺えば、またしても言葉が出てこなくなる。目の前の女は何を言っても、自分の気持ちを変える気はおそらくない。
だから、言葉が出てこない。それだけアレを想ってるのだろう、恐ろしく度し難い。

一柳。早く気づいてやってくれ。世界ではコイツのような人間をきっと、寂しい人と云うんだ。もっと貪欲になれば、最低限報われるものをお前のせいで同級生が死に様を晒そうとしてるんだぞ。

「欲がないな」
「しばらく付き合ってやる。後は好きにしろ」

だけど、自分の気持ちを抑制して、大事なものを犠牲にして、人に腹を立てられるほど、誰かを想っている。それは、きっと簡単にはできないかけがえのないものなのだ。
体の向きを元に戻し、目を瞑る。ありがとうと小さく聞こえたあと、息の音すら大きく響くほどに沈み込む、研ぎ澄まされた暗闇の世界。

ぼくもいつか、こんな馬鹿みたいな青い春に恋焦がれるほどの友という存在ができるのだろうか。

そう思えてしまうほど、滑稽にも彼女は暗闇の世界に入ったぼくの中に淡くも若く、それでも強い輝きを落としていった気がしたんだ。



昔、どこかで読んだんだか聞いたんだか、心が綺麗だと思った人間に、目や耳や鼻や脳の全てが一目惚れの衝撃を受けるんだとか。感情と感覚って酷ですね。