STRAY SHEEP



喉奥から漏れた、声とは言えない吐瀉音とともに、アルコールが中途半端に分解された、甘ったるく饐えた臭いが立ち込める。
口から吐き出される水分はとめどなく、彼が自覚しうる量を超え、ひいては身体が干からびてしまうのではないかと思えるほどだった。
苦しくて、苦しくて、涙が出る。
それでも自分の意識とは関係なく、込み上げる嗚咽感にただただ彼は、個室の洋便器の前にひれ伏して、身体が良しとするまで、汚物を吐きつづけることしか出来なかった。

酒を飲むのは初めてでなく、今日だってそんなに無茶に飲んだ訳でもない。飲める歳になってからというもの、嗜みの為にも、とロマーリオに連れ出されては飲み、マフィアの御仁の社交の場にも慣れてきた頃だった。

しかし、今日に限ってこんな醜態を晒すこととなるとは…。先程まで胃の不快物を吐き出すことで精一杯だった身体はようやく、脳を僅かながら動かし始められるようになったらしい。悪酔いの寒気も少しおさまり、息を吐くと、体温が戻ってくるのを感じる。

手のひらで口元を拭うと、まず、ツンと鼻を刺す胃液の刺激臭がした。そして、唾液と鼻水の混じった透明の液体が、べっとりと指先に絡み付いた。

はあ、はあ、と、やっと正しい呼吸に慣れてきた頃、頭の数メートル後ろの方でバタンとドアの開く音がした。男子便所のドアの開く音。ディーノがいるのはそのいち個室だというのに、彼はどこか肩身の狭い重いで息を潜めた。

「ったくよぅ、冗談もホドホドにしてほしいぜ。今更、社交だ親睦だなんてはっきり言って反吐が出る。」

「仕方ないだろう。それがお偉方の遣り口なのさ。これからの若者には、自由はない。新進気鋭のカルテッラの頭でさえ、既に御仁方の手の内さ。」

入って来たのは、若い声色の二人の男だと言うことはわかった。声の調子からして、酔っているのか、個室の様子には気づいていないようだ。男の一人は南部の訛りが強く、もう一人は北部の生まれの男のように思えた。

「金を持とうが、武器を持とうが、変わりはねえってことかね。」
「それが秩序ってもんなのさ。この国がこの国たらしめるために、俺たちはいったいいくらの血を流したのか。」

彼らが何処のファミリーかは知らないが、少なからず現状に不満を持っているようだった。今この個室に居るのが自分ではなくて、彼らの関係者だったらどうするつもりなのかと、ディーノはまだぼんやりとした頭の中で考えた。

「そう言ゃあ聞こえはいいが、流れたのはふんぞり返った爺さん達の血だろう?俺達にゃあ関係ねぇ。」
「はは、そりゃ間違えねえ!」

北部出身の男が笑って、足音が少し遠退いた。用を済ませたのだろう。続いて蛇口の捻る音、勢いよく水が流れる音。ディーノはやっとここから出られる思いで、ほっと胸を撫で下ろす。

「ところでよぉ、」

キュッと蛇口の締まる音と共に、南部訛りの音が口を開いた。どこか含みのある声色に、ディーノは存在が勘づかれたかと思い、身を引き締める。

「お前、"ストレイシープ"って知ってるか?」
「…ストレイシープ?」

男の口から出た言葉は、ディーノにも全く聞き覚えのない言葉だった。聞かれた男の方も見当がつかないようで、少し考える間を空けつつも、言われた言葉を繰り返すのみだった。ディーノは、自分の存在を気づかれなかったことだけで、一先ずは安心というところだった。

「まあ、読んで字の如く、"迷える羊"さ。何処にあるかも不明だが、巷じゃ腹に逸物抱えた奴等が集まってるらしい。」
「はは、そりゃ面白そうだ。ツテがあるなら行ってみたい。でもその手の話は昔からあるのさ。誰もどんなところか知らないが、その場所は確かに存在する…。そう、何て言うか知ってるか?」
「やっぱり"都市伝説"かぁ。お前が知らないんじゃあ、そうなんだろう。」

南部訛りの男は残念そうに笑った。そして男達はディーノの存在に気づくことなく、便所を立ち去っていった。ディーノにとっては、本当に幸運なことだった。

何処かに有って、誰も知らない。けれどその場所では、秘密の"何か"が行われている。

秘密結社、選ばれし者だけが招かれる秘密の会合、闇の魔の饗宴。

その手の話は、いつどの時代でも語り継がれ、一定の人間の興味を惹いてきた。しかしながら、それらに本当に存在する確たる証拠はない。噂の尾ひれだけが人の外聞に触れ、より好奇心を擽るがそれ以上のことはない。

ディーノはもう子供ではない。けれど、耳に残る噂の尾ひれが、彼を僅かながらに惹起させた。そしてディーノは、その言葉を忘れぬように小さく呟いた。

「ストレイシープ」

と。


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