■ 金魚の寿命と幸福論

「え、おたくどちらさん?」

突然居間の床に座り込んでいた私を見たこの人が驚くのも無理はない。
正直私自身驚いている。さっきまで私はあそこに置いてある鉢の中で泳いでいたはずなのだ。


そう、私はほんの数分前まで金魚だった。



寿



「は?金魚?」

目の前の人はコクコクと頷く私をまるで怪しいものでも見るかのような目で私の全身を上から下まで眺めている。
いや、怪しいに違いない。この人が外出から戻ってみたら不法侵入者。そしてその女の正体は金魚だというのだから。

しかしどうしても言葉を発することができないのは私が人間になったばかりだからだろうか。
金魚であることだって、金魚鉢と自分を交互に指差し、手でパタパタと泳ぐようなジェスチャーをしてなんとか伝えたのだ。

「…流石にそれは無理があるでしょお嬢さんよ」

そんな訝しげな顔で言われても事実なのだ。仕方あるまい。
私が困り果てていると、玄関が開きもう1人ここの住人が帰ってきた。

「ただいまー…って銀ちゃんが女連れ込んでるネ!」
「ちげーよ。はぁ、実はな…」


銀ちゃんと呼ばれた人が事の次第を女の子に話し始めた。

「…ふんふんなるほど。これが金魚…」
「明らかにヤベー人だろ。追い出すぞ」
「ちょっと待つネ銀ちゃん!たぶんそれ本当のことヨ!」
「は?神楽お前何言ってんだ」

神楽という少女は私を見ると確信したように、銀ちゃんとやらに興奮気味に話し出す。

「これは私がこの前お祭りですくった金魚、名前ネ!着物の柄も金魚だった名前の模様と全く同じアル!それに金魚鉢には名前がいないし、なによりこの人びしょ濡れヨ。さっきまで金魚だったからアル!」

神楽は私の手を取ると銀ちゃんにホラ!と触るよう促した。

「濡れてんのは分かってんよ。…本当にお前名前か?」

名前、どうやらそれが私の名らしい。金魚だった時よくその名で語りかけられたものだ。きっと神楽がつけてくれたのだろう。

私が頷くと銀ちゃんはハァ、と深いため息をついた。

「仕方ねぇ。とりあえずまだ居てもいいが、気が済んだらすぐに帰ってくれよ」

銀ちゃんは私を家出少女か何かだと思っているのだろうか。相変わらず金魚だと信じていないらしい。
それとは裏腹に、神楽は私を見て目を輝かせている。

「名前こんなに美人だったんだネ!いや、美魚か!でも今は美人で当ってるアルな!」
「美ー美ーうっせぇんだよ。とりあえず茶でも出してやれ」

神楽は文句を言いながらも居間から出て行った。
ところで私は今後どうすればいいのだろうか。目の前で鼻をほじる銀ちゃんを見ながら私は途方にくれるしかなかった。


* * *


「名前が来て数ヶ月ネ。もうすっかり人間ヨ」
「最初から人間なんだから当たり前だろ」


なんだかんだで時間は過ぎていた。私は追い出されずにここに居させてもらっている。なんとか役に立とうと家事を覚えたのが良かったのかもしれない。銀ちゃんももう出て行けとは言わなくなっている。

しかし困ったことが増えた。一緒に過ごすうちに私は銀ちゃんに恋心を抱いてしまったのだ。
普段はぼーっとしているのに案外芯はしっかり通っているところ、分かりにくい優しさ、いざって時は誰からも頼りにされるその人間性、全てが私を夢中にさせた。



「…しかし相変わらず喋らねーのな」


私が困ったように笑うと神楽がそれに答えてくれた。

「金魚だからネ。話せるわけないヨ」
「金魚はこんなうめぇ飯作れねぇだろ」

銀ちゃんが私の作った朝食の味噌汁を飲みながらそう言う。でも確かにそうだ。何故人間と変わらない生活が出来るのに言葉だけ発することができないのだろう。

「あ、そよちゃんと遊びに行くんだった!名前、嫌かもしれないけど銀ちゃんとお留守番しててネ!」

私が頷くと神楽はルンルンと鼻歌を歌いながら出かけていった。
私は空になった食器をまとめそれを台所まで持っていく。すると珍しく銀ちゃんが私のあとを追って来た。

「名前、そろそろ本当のこと話してくれてもいいんじゃねぇか?俺はもう真実がどうであれお前のこと…」

そう切り出されるのも時間の問題だと思っていた。でも本当のことは既に伝えている。私には説明のしようもない。

この場をどう切り抜けようか、そう考えていた時突然目の前が真っ白になった。足に力が入らない。私を呼ぶ銀ちゃんの声がぼんやりと聞こえた気がした。



* * *


「…お、起きたか。一体どうしちまったんだよ」


私は寝室の布団に寝かされていた。銀ちゃんがここまで連れてきてくれたのだろう。部屋は暗い。もうすっかり日も暮れてしまったようだ。


そして私はすべてを思い出していた。


「おい、どこ行くんだよ」

立ち上がった私を銀ちゃんが止めようとしたが、首を横に振った私を見て出て行くわけではないと察した銀ちゃんは布団の横にまた座り直した。

「お前それ…」

私は居間に紙とペンを取りに行っただけだ。手に持っているそれを見て銀ちゃんがハッとした。

「もっと早く気付きゃよかったな」

私は密かに文字を学んでいた。いつか自分の気持ちを告げることができるように。
ようやくその時が来たのだ。


『信じられないと思いますが私は本当に金魚なんです』
「…なあ名前、俺はどんな真実だろうともう追い出さねぇよ。だから本当のこと言ってくれ。俺はお前のことが知りてぇだけだ」
『本当なんです』

私が真剣な目でその文字を見せると、銀ちゃんは黙ってしまった。
それでも伝えなければいけない。私は長い文章を時間をかけながらもなるべく読みやすい字で紙に書いて銀ちゃんに見せた。


『私は金魚鉢から貴方達をずっと見ていました。話しかけてくれたり、餌をくれたり、ステキな人たちだなと思っていました。そして銀ちゃん、貴方は特に私に話しかけてくれましたよね。何気ない日常のこと、ちょっとした愚痴、色んなことを聞いているうちに私は貴方のことが好きになってしまったのです』


銀ちゃんは眉間に皺を寄せてその文章を読んでいる。


『でも私は金魚。その想いは叶うはずはなかったのです。…ある日、流星群が降りそそぐ夜がありました。私はなんとはなしにそれらの星に願ったのです。

「私を人間にしてください」

星達は言いました。それなら引き換えに私の"声"と"恋した記憶"、"人間になった理由の記憶"を頂いていくと。私は了承しました。記憶を奪われたとしても、きっと私はまた貴方を好きになるとわかっていたから』

そしてその次の日、私は人間になっていたのだ。
声と記憶を失った状態で。

体の力が完全に入らなくなった。
私はまた横になり、もう握れなくなったペンを床に置いた。

「名前!」

銀ちゃんが心配そうに私をみている。

そんな顔、しないで。


「銀、ちゃん…」
「お、お前声が…!」


ああもうその時が来てしまった。


「ようやく言える…私はやっぱりまた貴方の事を好きになれた…」
「やめろ、もう喋んじゃねえ!今医者に連れてってやる!」
「銀ちゃん…星達はこうも言ったの…死に際に"声"と"記憶"を返すと…」


銀ちゃんはあぐらをかき私をその上に座らせ、自分の身体にもたれかけさせた。お陰で今、大好きな人に後ろから抱きしめられている。


「人間になっても寿命は金魚のままだったんだね…金魚すくいのおじさん、金魚の管理下手だったのかな…?私元々弱ってたみたい…」


段々と意識が遠のいていく。


「でもよかった…人間として銀ちゃんに関われた…私を追い出さないでくれてありがとう」
「何…言ってんだ…お前だけが好きだなんて思ってんじゃねーよ」


銀ちゃんが後ろからぎゅっときつく抱きしめてきた。あたたかい。これが人の体温。


「俺もとっくにお前のことが好きだった。くそっ、もっと早く言っときゃよかったな」
「はは…ホントに…?そんな幸せなことってあるのか、な」


銀ちゃんは私の唇に優しく自分の唇を重ねた。
それだけで私のすべてが報われた。私は世界一幸せな人生、ううん、魚生だった。ほら、もうこんな冗談が言えちゃうくらい心は落ち着いてる。


「名前…やっぱり嘘でしたーって言ってくれよ…」
「ごめんね銀ちゃん…ごめん…本当にありがとう」


私の頬にあたたかい何かがつたった。
私の目からでたものか、銀ちゃんのものか、それはわからなかったけど最後に感じた幸せな温もりだった。


私は本当に幸せ、愛する人の腕の中で一生を終える魚なんていないよ。
だけどあとほんの少しだけ、金魚の寿命が長かったならな、なんて思うのは私のわがままなんだろうな。



寿

さよならは言わないでおくね