■ 掴んではいけない手

※重い長い暗い



夜、何故だかどうしようもなく眠れなくて皆から離れブラブラ散歩してみた。今日は満月。雪面を明るく照らしている。誰の足跡もついていない辺り一面の雪はまるで自分のために用意されたステージかのようで少し足取りが軽くなる。わかっている、いつ野生のクマや他の危険な動物が襲ってきてもおかしくないということは。でも今の私にはそんなもの関係ない。こんなに楽しい夜をそんな恐怖に支配されたくない。

ああ、やっぱり私は1人でいる方が好きなんだ。1人で旅をしていた時が忘れられない。こうして複数人で旅をしていても無性に昔の生活に戻りたくなる時がある。私の肌は程よい運動のおかげでほんのりと紅く染まっている。もう戻らないといけないことは分かっているのに足が止まらない。このまま1人で遠くへ行ってしまいたい。

「名前」

そんな想いは背後から自分の名前を呼ぶ低い声によって打ち消された。
私は落胆しているのを察されないよう貼り付けたような笑顔で振り向いた。

「…尾形、心配しなくてもどこにもいかないよ」
「にしては随分遠くまできたもんだな」

彼はこの旅を共にしている人物だ。
他には杉元を筆頭に、白石やアシリパ、キロランケなどがいる。彼らは皆ある目的のもと動いている。そして私もその1人。膨大な量の金を求めているのだ。そのためには金を隠した人物、のっぺら坊と呼ばれる男がその在りかのヒントとして残したものを集めなければならない。それは囚人たちに刻まれた刺青。彼らから剥ぐことを前提として彫られた刺青人皮。

悲しいことに、私の身体にもそれが彫られている。私は囚人ではなく看守だった。特例中の特例の女性看守。のっぺら坊は女性特有の胸の膨らみを利用した暗号を混ぜたかったようで私に白羽の矢が立ったのだ。
そして持ちかけられた条件に私は負けてしまった。故郷の家族に多額の報酬を渡すからというものに。
そして私はめでたく暗号の刺青持ちとなった。のっぺら坊の指示通り、私は仕事を辞め北海道を旅していた。
その道中杉元たちと出会い、何故か白石に私が刺青持ちだとバレていたため今こうして仲間になったのだ。その時は殺されて皮膚を剥がれるのも嫌だったから。

しかしこれまた何故か、尾形は私が逃げ出すのではないかと疑っている。
家族にはもう報酬は支払われている。今更逃げ出す意味もないし、杉元達につくことで金が少しでも手に入る可能性があるなら願ったり叶ったりだ。何度もそう説明しているのに。


しかし彼は鋭い。全部嘘だと見抜いている。
私は血塗れの金などには興味がない。本当はもうこんな醜い争いからは退きたいのだ。いっそ自分の手でこの命を断ってもいいとまで思うほどに。
そうか、それを尾形に伝えればいいのか。簡単なことだったのだ。


「尾形、あなたが私を疑うのは正しかった。私は逃げてしまいた。この争いの全てから」
「…どういうことだ」
「私は金なんかに興味はない。今ここで私を殺して皮膚を剥いで。最早命も惜しくないわ」


尾形は飄々と言ってのける私に少し驚いたようだった。逃げて裏切ると思っていた女がそんなことを言い出したのだから仕方ないだろう。しかしこれが本心、彼もそれを見抜いたのかジッとこちらを見つめている。


「なんのつもりだ」
「もう疲れたの。私は家族に金が入ればそれだけでよかった。私の目的は果たされた。さ、煮るなり焼くなりお好きにどうぞ。刺青が損傷しない程度にね」


軽い冗談を言えるくらいには落ち着いていた。何も怖くない。ここで死ねるなら本望だ。

私がただ立っているのが不思議なのか、尾形は銃口をこちらに向ける。それでもなんとも思わない。そのまま殺してくれ。私は静かに目を閉じた。

「…何故泣く」

いつものように落ち着いていて、それでいてどこか妖しい声で尋ねられた。何故泣く?私が?
左手で目をこするとかすかに指が濡れた。ああ、確かに泣いている。

その時ブワッとたくさんの記憶が頭に浮かんだ。
アシリパが笑顔でリスの脳みそをくれたこととか、杉元が怪我をした私をおぶって山を越えてくれたこととか、白石が私の風呂を覗こうとしてキロランケに叱られていたくせにそのキロランケもちょっとそわそわしてこちらを見ていたこととか、


私がどうしようもなく苦しい時黙っていつも私の側にいてくれた尾形のこととか。


そっか、今日だってそうだよね。私が1人で苦しんでたの見抜いてたんだね。逃げ出すと思ってたんじゃないんだ。知ってたんだ、私が死にたがってるのを。
あなたは、私を殺しに来てくれたんだね。


「尾形、私を殺して。できれば頭を一発で撃ち抜いてほしい。私の記憶を全てあなたの手で打ち消して」

尾形は表情も変えずこちらを見ている。一体何を考えているの。私の考えは筒抜けだというのに。

「俺は女子供でも殺せるが、例外もある。それがお前だ」

予想外すぎる答えに驚いた。すぐに殺してくれると思っていたのに。例外って、どうして私がそうなの?

「お前は俺の母親になんとなく雰囲気が似ている。そうは言っても俺は自分の手で母を殺した。…心のどこかで後悔しているのかもしれないな」

やめて、バカなこと言わないでよ。人のことを勝手に罪滅ぼしの道具に使わないで。そう言いたいのに何故か涙が止まらず声は出ない。

「だから俺はお前を殺さない。安心しろ、俺の心の迷いが消えた時はすぐ殺してやる。お前が他の奴らの手に渡りそうな時もだ。だが今はまだ俺のそばで生きろ」


なんて自己中心的な考えの持ち主なのだろうか。なのに、なのに私はこの人のそばで生きていたいと思ってしまった。この強いくせに本当は沢山の弱さを抱えた人のそばで。


ううん、尾形は見抜いていたんだ。死にたい私は本当の本当は生を望んでいるのだということを。
ただ身体が穢れてしまったようで耐えられないだけなのだ。今の自分には生きている価値もないと思えるほどに。


全部、全部全部全部お見通しなのか。


「尾形、私どうしたらいいのかな。生きたいし死にたいよ」
「だからちょうどいいんだろ。俺は今はまだ生かすと言ってるだけだ。気が向いたら殺す。お互いの利害が一致してるだろ。お前の命は俺が握る。俺の好きな時に死ね」


なんて自分勝手なんだろう。こんな滅茶苦茶なことを淡々と言ってのけるなんて。まあ私も自分勝手なのに変わりはない。
そしてもうだめだ、私はこんな変な奴に惹かれている。この人に命を握られるならいいと思ってしまうほどに。

「私が死んだらアシリパ達が悲しむかな」
「どうだっていいだろ。その時はお前は知りようもないんだから」
「…確かにそうだね」


尾形は黙って毛布を渡してきた。私のためにと持ってきていたのだろう。冷たい言葉とは裏腹に時々こういったことをする男なのだ。
やめて、余計混乱してしまうでしょう。

それを受け取らずにいたら、無理やり身体に巻かれてしまった。とてもあたたかい。そして尾形の香りがする。火薬と汗と、なんとも言えない男らしい香り。私はこの香りが嫌いではない。

「戻るぞ」

ぶっきらぼうに差し出された右手は寒さでかすかに震えている。
私は今日も死ねなかったし今日も生きていられた。それは他でもないこの男のおかげ。私のごちゃごちゃした頭の中を見抜いてくれた尾形のおかげ。


その手を掴むと折れてしまうんじゃないかってくらい荒く握り締められ、そのまま身体ごと引き寄せられた。


抱きしめられた私は抗うこともできないまま急に唇を奪われる。重ねられたのはあたたかみを感じない冷たい唇だった。
ほら、月明かりが私たちを照らして雪面に2人の影がうつっている。さっきまで独り占めしていたステージは今や2人のもの。きっと主役は私じゃなく尾形。

私たちはそれから何も話すこともなくそのステージを足跡で荒らし皆の元へ戻った。


朝になればまた演じよう。誇り高き女看守。家族を守るため犠牲になった尊い女看守。
本当は生きたいのか死にたいのか自分がわからない情けない女。さあ演じよう。恋焦がれるような心になどまるで興味ない女を。さあ演じなければならないのだ。ずっと自分を見つめる善意なのか悪意なのかわからない視線になど気付かないバカな女を。


さあ、明日もまた白銀のステージで。