■ それは暑い日のことでした

彼はいつも、私を見てはいなかった。

「名前!任務に行ってくるぞ!」
「どうかお気をつけて。ご武運を」
「うむ!」

許嫁という立場ってだけでこうして彼のお屋敷に住み、彼を見送ることができる。
彼の気持ちはもうこの時には任務にばかりむいていて、少しでも早く出発したいとその目が言っていた。

鬼狩りである以上その心意気は立派なことであるし、柱である杏寿郎さまは実際多くの命を救っている。いち早く現場に駆けつけるべきお人なのだ。

でも、私としてはもう少しこの時間を大切にして欲しかった。

命をかけて戦うのだから、考えてはいけないことだけれど会えるのはこれが最後になるかもしれない。
親から決められた許嫁とはいえ心から杏寿郎さまを慕っている私にはそんなの耐えられないのだ。

「なんて、私の勝手なわがままよね」

杏寿郎さまはおそらく私を好いてはいない。
もちろん嫌ってもいないだろうが…いや、あの人が私をどう思っているかなんてわかるわけない。

必要以上の会話はないし、触れられた記憶もないのだから。

私は去っていく金色の髪を見つめながらふと悲しくなった。

「本当にこのまま結婚してもいいのかしら」
「名前さん、兄上のことがお嫌いですか…?」
「え!あ、千寿郎さん…」
「すみません、僕も兄上を見送ろうと思って…」
「こちらこそすみません。大変失礼なことを呟いてしまいました」

私は杏寿郎さまの弟である千寿郎さんに頭を下げて謝罪した。

それにしても、千寿郎さんの誤解は解いておきたい。

「千寿郎さん、私は杏寿郎さまのことを心より想っております。ただ、杏寿郎さまはお忙しく私などに時間を割く暇はない。それに杏寿郎さまには私よりもっと素敵なお人がいるのではないかと…」

千寿郎さんは驚いたような顔をして私の手をとる。

「何を言っているんですか!兄上の妻になるのは名前さんしかいません!それに兄上は…」
「?」
「あ、いや…なんでもありません。僕父上から呼ばれているんでした。失礼しますね」

千寿郎さんはそそくさと家の中に入ってしまった。
いったい何を言いかけたのだろうか。

いや、考えても仕方がない。夕飯の支度をしなければ。

「(杏寿郎さま…どうかご無事で)」

夜に近付くために沈んでいく夕日を見ながら、私は静かにそう祈った。


* * *


翌日、かすかな物音に目を覚ますと目の前に杏寿郎さまがいた。

「杏寿郎さまおかえりなさい。ご無事でなによりです。起こしてくださればよかったのに」
「いや、気持ち良さそうに寝ていたからな。ただいま名前」
「お怪我は?」
「ない!」
「ふふ、なによりです。お風呂の準備しますね」
「ああ、ありがとう」

いってらっしゃいとおかえりなさい。そう伝えるときだけ自然と会話ができる。

そして悲しいことに私はたったこれだけの会話で心臓が痛いほどに高鳴る。
ありがとう、そう言われただけで彼のためになれたと喜んでしまうのだ。

なんて重い女…自分ってこうだったかしらと若干の嫌気がさす。

杏寿郎さまがお風呂に入っている間に朝食の準備をしていると千寿郎さんが起きてきた。

「名前さんおはようございます、お早いですね」
「おはよう。杏寿郎さまが先ほどお戻りになりました。お怪我もなかったようです。入浴されている間にお食事の準備をしようと思って。少しうるさかったですか?」
「いえ、いい香りがしたもので目が覚めたんです。兄上帰ってきたんですね!ちょっと僕お背中流しにいってきます!」
「え、ええ…」

あんなにはりきってどうしたんだろう。
それより背中流すっていいなあ…いやいや何を考えているんだ私は。

自分に気合を入れ直し杏寿郎さまの好物であるさつまいものお味噌汁を作る。

全てを作り終わったとき、ちょうど杏寿郎さまが上がってきた。
ずいぶんと長風呂だったようだ。兄弟水入らずでお話も盛り上がったのかな。

「名前さん、お食事の準備ありがとうございます!配膳は僕がするので名前さんは兄上と座敷でゆっくりしていてください」
「え、いやそんなわけには…」
「大丈夫です!」
「そ、それじゃあよろしくお願いします」

やけに強引な千寿郎さんに戸惑いながらも、私は杏寿郎さまと座敷へむかった。
心なしか杏寿郎さまの落ち着きがないように思える。

「…なにかありましたか?」
「む!あ、いや!なにもないぞ!」
「そうですか…」

杏寿郎さまってこんなにわかりやすいお人だったっけ?
いかにもなにか隠してますっていう感じだ。

やがて座敷につき2人で向かい合い座る。
なにを話せばいいかわからなくて沈黙の時間が続いた。

「名前」
「は、はい!」

突然名を呼ばれたことに驚き杏寿郎さまを見るととっても優しい顔でこちらを見ていた。

「俺はダメな男だな。弟に言われて初めて気付くなんて、とんでもないことだ」
「杏寿郎さま…?」
「名前、隣へおいで」

よくわからないながらも呼び寄せられたのが嬉しくて私はそれに従う。

「名前、君は俺のことが好きか?」
「え!?あ、えっと…!」
「俺は許嫁という関係に甘えていたかもしれない。自分の気持ちも伝えず君をそばに置いていたなんてな」
「どういうことでしょうか…?」
「千寿郎に言われたよ。名前は不安がっていると」

さっきお風呂に行ったのはそれを伝えるためだったのか…。
照れくさいような、なんだかよくわからない気持ちになる。

「しかし、俺のほうこそ不安だった。君が望まない結婚を強いられているのではないかと」
「そんな!私は杏寿郎さまのこと!」
「うむ」
「あの…だから…私は、その」
「はは、顔が真っ赤だぞ」

杏寿郎さまの手が私の頬に触れた。
優しく触れられたはずなのに、電気が走ったかのように身体中が痺れる。
恥ずかしさのあまり杏寿郎さまを見ることができない。

「これは…お外が暑いから火照ってしまって…」
「ほう」
「…」
「すまない、意地悪がすぎたな」

頬から手が離れる。
まだ触れていて、と叫んでしまいそうだった。

「名前、君の気持ちは今ので伝わったよ。俺も自分の気持ちを伝えなければな」

杏寿郎さまはずずいっと私の目の前に顔を近づける。

「名前、俺は君のことを愛しているよ。君がいるから俺は無事任務を終えたいと強く思うことができる。君が、ここで待っていてくれるから」
「杏寿郎さま…」
「俺はこういうことを伝えるのが苦手なんだ。しかし、俺は心から…」

言葉を聞き終わる前に私は杏寿郎さまに抱きついていた。
こんなことするなんてはしたないのかもしれない。でも、気持ちを押し殺すことができなかった。

「杏寿郎さま、私は幸せです。貴方の妻になれるなんてこの世で最も恵まれた女です」
「む…!?それは言い過ぎなのでは…」
「いいえ、心からそう思います」

杏寿郎さまは照れたように私の身体をぎゅっと抱きしめた。

「名前、こういうことを婚前にするのはよくないのかもしれないが」

大きな瞳に見つめられ、彼が今なにを考えているのかわかってしまった。

「私以外誰もいません。2人だけの秘密にしておきましょう」
「…案外積極的だったんだな」
「もう隠しておく必要もないかと思いまして」
「ああ、それもそうだ」

杏寿郎さまはふんわりと微笑み、私の唇を軽く啄んだ。
見つめ合い、少し照れくさく笑い、そして今度は深く深く唇を重ねる。

「名前、君は本当に美しいよ」
「杏寿郎さま…」
「今が夜じゃないのが惜しいくらいだ」
「そ、それは変な意味に捉えてしまいます」
「問題ない」
「そんなこと言って、お顔が真っ赤ですよ」
「夏だからな!」

ガタガタッと何かを落としたような音がする。
千寿郎さんが来るのを忘れていた。彼とてここまで私たちが進展するとは思っていなかったはずだ。

2人だけの秘密じゃなくなってしまったことを残念に思いながら、杏寿郎さまと私はどう言い訳をしようかと笑い合った。