世界はこんなに美しい7 [ 1/1 ]

夜の更けきったマリージョア。
ガラスの冷たさを感じながら、**は窓を押し開けた。

外から見て、一番右の窓。
「入って来て」のサイン。


【世界はこんなに美しい7】


「随分、辛気くせェ顔だな」

夜風と共に部屋に入ったクロコダイルは開口一番でそう言った。
ベッドに腰掛けていた**が立ち上がる。
その足が床を蹴る前に、乾いた右手が彼女の身体を抱き寄せた。

「クロコダイル!無事だったんですね!」
「おれに何かあると思うのか、馬鹿」
「だって、あんなことになって…」

縋りつきながら**が肩を震わせる。
閉じられた瞼をクロコダイルの指先がたどれば、それは僅かに湿り気を帯びた。
どんな処置をされているのかは知らないが、**の目からは涙が零れる。
目を開けて泣くのと同じように。

「泣くな。サカズキは夕方に来たんだろ?」
「はい、いつものように調子を聞かれて…その他には何も言わずに帰っていきました」
「おれのところにも誰も来なかった。あいつは上に報告しなかったようだな」
「そう、ですか。あんなに怒っていたのに、何故…」

クロコダイルの腕の中で**が首を傾げる。
あれほどわかりやすく想われているのに、本当にわかっていないらしい。
クロコダイルの好意も、口にするまで気づいていないようだった。
思い込みで、世界を美しくしようとしている弊害だ。

目を潰し、他人からの反応に鈍感になる。
それが**の選んだ道だった。
自分が政府の機密書類を目にしたことが原因でサカズキ達が苦悩する姿を、見ていたくなかったのだという。
悪いのは書類を目にしたと、内容も覚えていると、正直に言ってしまった自分。
**はそう考えているようだとクロコダイルは推察している。

クロコダイルの目から見れば、サカズキはえらく**のことを気にかけている。
円卓会議の最中でも何かあれば報告するようにと言ってあるようで、海兵が何か耳打ちしに来ることもしばしばだ。
そういう時、サカズキは迷わず席を立つ。
目配せだけでセンゴクに許可を取り、退室したまま戻ってこないこともあった。
あとから**に話を聞けば、うっかり指を切ったとか、先導した海兵が道を間違えて予定の時間に少し遅れたとか、そんな程度の小さな事件ばかりだ。
それなのに、あの真面目一徹の男が何を置いても真っ先に安否を確認しに行く。
**はそれを「自分の頭の中に機密があるからだ」と思っているようだが、クロコダイルの見解は違った。

あれは、**を愛しているが故の行動だ。
可愛い姪がどこにいて何をしているのか、気苦労はしていないか、寂しくはないのか。
サカズキはそんなことにまで心を砕いている。
異常なまでに監視しているように感じるのは、**が機密を知っているという事実が世間に漏れれば、彼女の身が危うくなると知っているから。
けして、漏洩を恐れているのではない。
そのあとに、彼女の自由が今以上に奪われることを、誰かに身柄や命を狙われることを、恐れている。

**は、それに気づいていない。
いや、気づこうとしていないのだ。
クロコダイルのことは些細な部分まで知りたがる。
しかし、他の人間に対して**がそこまでの洞察力を発揮している場面は見たことがなかった。
知ろうとしていない結果だと、クロコダイルは確信している。
自分がどう思われているのか、どう見られているのか、知るのが怖いのだ。
だから、自分の想像の中で、視力の失われた暗闇の中で、相手を都合の良いように解釈している。
サカズキに嫌われていると思い込むことで、彼女は自分に罰を科しているつもりなのかもしれない。
本当は、その想像よりもずっと強く温かに、周囲から想われているというのに。

何故こんなことを考えているのかと、クロコダイルは口元を歪めた。
彼にとっては、**がサカズキやスモーカーから距離をとっている現状は非常に都合が良い。
もし今以上に関係が近づけば、彼らの訪問の回数も増えるだろう。
それでは、逢瀬の時間が益々取りにくくなる。

都合の良い、状態のはずだ。
それなのに居心地が悪いのは何故なのか。
自分を睨んできたスモーカーの視線を思い出す度、クロコダイルの中で何かが巡っていった。

「…どうしたのですか?」

ベッドに腰掛けたきりぼうっとしていたクロコダイルに、**が心配そうな表情を向けてくる。
クロコダイルの雰囲気にはやけに敏感だ。
今も、溜め息さえ出していないというのに変化に気がついた。
そんな**に、クロコダイルは小さく笑いをこぼす。

「ちょっと考えことだ」
「何について?昼間のことですか?」
「まァ、それに関連したことだな」
「教えて下さい」
「駄目だ」
「どうして?」
「おれの口から言っても、無駄だからだ」

そう、クロコダイルが伝えたとしても、**に変化は起きないのだ。
「そうやって機嫌をとろうとしている」と笑うに違いない。
実際にそういう思いがないわけでもないから、否定するつもりもなかった。
当人達の問題。
**とクロコダイルの間では、する必要のない話だ。

ふと、**の表情に今までにない感情が浮かんだ。
憂いというには深いそれに、今度はクロコダイルが首を傾げる番だった。

「どうした?考えことか?」
「…はい。何だか、思い出せそうな気がしたんです」
「何をだ?」
「機密のことを…」

口にされた言葉に、クロコダイルは目を見開く。

「どうしてだ?今まで何もなかっただろう?」
「はい、そのはずだったんですが。昼間、スモーカーを傷つけたのではと思った時に、昔のことが頭をちらついて…その…伯父様の、顔とかが」

白い手が膝の上で握られた。
少し顔色が悪くなってきている。
脳裏で、その時の記憶を呼び起こそうとしているのか。

「無理をするな。おれはもうそれに興味はねェと言ったろ」
「そ、そうなんですが…何かが外れたように次々に思い出してきて…」
「おい、大丈夫か?」
「す、すみません、何だか…身体が…」

会話の最中から、**の声が震え出す。
それは瞬時に全身へと広がっていった。
細い腕が自分の身体を抱き締める。
クロコダイルは咄嗟に肩を抱き寄せ、その顔を覗き込んだ。
閉じられた瞼の下で眼球が動いている。
何かを、たどるように。

「何を思い出してる?」
「止まらないんです…映像が…、昔のことから順番に、無理矢理、再生されているようで…」
「落ち着け。無理に収めようとするな」

蒼白になった顔が怯えの色を深くする。
クロコダイルは溜め息をつき、義手を添えて震える身体を持ち上げた。
膝に乗せると**はすぐにぎゅっと縋りついてくる。
乱れてきた呼吸を気にしながら右手で背中をさすれば、白い喉がこくりと鳴った。

「怖い…」
「大丈夫だ。おれが居るだろ」
「…はい」

小さな呟きに導かれるように、クロコダイルは口づけを落とす。
熱を受け止めた**のそれは乾いていたが、表情には少し余裕が戻った。
細い身体を温めるように抱き締めてやってようやく、彼女はほっと息をつく。

しばらくして、震えが小さくなる。
収まってきたかとクロコダイルが安心した矢先に、**が言葉を紡いだ。

「P…L、U…」
「あァ?」
「何か…文字が…。PLUT…プ、ル…トン?」
「っ!!お前、どこでそれを!」

思わず声を荒げたクロコダイルに、**がはっと顔を上げる。
向けられた戸惑いの表情は、クロコダイルの動揺を瞬時に静めた。
意識して深く息をつき、熱の上がった思考を冷やす。

まさか、**の口からその単語が出てくるとは思わなかった。
クロコダイルの求めるもの。
そのために今、国盗りの策略を巡らせているのだ。

「まさかお前が見たのは政府の機密は、プルトンに関する何かか?」
「わ…わかりません。それは、何なのですか?」
「古代兵器だ」
「兵器!?いえ…そんなものだとは知りませんでした。私が見たのは…アルファベットと…数字だけです」
「数字?」
「えっと…すみません、それ以上はまだよくわからなくて…」

白い手がクロコダイルの腕に縋りつく。
色の戻らない顔が俯き、呼吸を整えようと肩が忙しなく上下する。
その様子に、クロコダイルはまた急いてしまった自分を自覚して溜め息をついた。
**の肩がびくりと揺れる。
緊張した気配から、クロコダイルはその心の内を推し量った。

「今のは、お前に落胆したんじゃねェよ」
「本当ですか?」
「声でわかるだろ」
「…はい」
「ただな、焦った自分に気づいただけだ」

自嘲の笑いを漏らすと、**は表情を和らげた。
胸に頭を預けてくる仕草に、自然と右手が動いて髪を梳く。

「プルトンという文字を見たのは、間違いないんだな?」
「はい。PLUTON、確かにそう書いてありました」
「そうか…」
「貴方は何故、プルトンについて知っているのですか?古代兵器は災厄を招くと聞いたことがありますが…」

落ち着きを取り戻した**の思考が回り始める。
それを感じて、クロコダイルは思案した。

**が見たという政府の機密書類は、プルトンに関するものだったらしい。
確かに、1人の少女が知るには大きすぎる事柄だ。
プルトンに関する何が書いてあったのかは知らないが、政府がインペルダウンへの投獄を考えたことも加味すると、相当重要な何かに違いない。

先刻まで、**の知っている機密にもう興味はなかった。
しかし、それがプルトンのことだと知った今、クロコダイルははっきりとそう言える自信がない。
**はすぐにそのことを察するだろう。
また無理に思い出そうとするかもしれない。
その頭の中にあるのがもしプルトンの在処だとするなら、クロコダイルはアラバスタを手中に収めなくともそれを手に入れることが可能になる。

一国を敵に回す策略と、**とを、比べている自分が居た。
脳裏に浮かんだ天秤が不規則に傾き方を変える。

「…知りたいか?」
「何か、大切な話なのですね」
「あァ。話せば、お前を危険に晒す。そして、お前はおれの本性を知ることになる」
「本性?それならもう知っていますよ」
「わかってねェな」

クロコダイルの口元が歪む。
どこか楽しげな含み笑いに疑念を煽られたのか、**は怪訝な様子で眉を寄せた。

「お前が知ってんのは、「七武海」のおれだ。おれにはもう1つ、別の本性がある」
「やっぱり、知っていますよ」
「何だと思う?」
「…海賊」

**の唇が発した言葉は、クロコダイルの意図するそれだった。
歪んだ口元が更につり上がる。

天秤はもう、一方を示していた。
アラバスタという国と、**。
どちらをとるかなど、愚問だ。

「もう、思い出さなくて良い」
「え?」
「機密のことだ。そんな必要はどこにもねェ。そのまま頭の底に沈めとけ」
「ど、どうして…?」
「プルトンは、おれが手に入れるからだ」

**の表情に驚きの色が広がる。
それを間近で見ながら、クロコダイルは自らの策略について語り始めた。

古代兵器の在処を示すポーネグリフ。
それを持つアラバスタという国。
情報を手に入れるために、国民を騙し、国そのものを乗っ取るという計画。
そのあとのプルトン探索により、軍事国家を築く野望。

1つ1つの言葉を、**は放心したような表情で受け止めていた。
途方もない絵空事のように思っているのかもしれない。
そもそも、アラバスタやポーネグリフなどは馴染みのない単語だろう。
10年間、マリージョアのみで生活をしてきた**には、海の水ですら遠い記憶のはずだ。

全てを話し終えたクロコダイルは改めて**を見た。
表情が見えているはずなどないのに、彼が眉を上げた仕草には戸惑いの反応が返ってくる。

「どうだ?理解できたか?」
「…はい、何とか」
「どう思った?」
「信じられない話です。貴方が…そんなことを考えているなんて」
「本性、見えただろ?」
「はい。でも…」

白い手が、添えたままになっていた腕の服を掴んだ。
**の顔に迷いはない。

「貴方を愛していることに、変わりはありません」
「変な女だな。おれは、他人の国を絶望に陥れようとしてんだぞ?」
「わかっています。でも、気持ちは変わりません。他人にとってどんなに酷い人であっても、貴方は私には誠実で優しい。私にとってはそれが真実です」

滑らかな動きで、手指が腕を遡る。
クロコダイルの肩や顎を通り過ぎたそれは、頬の位置で止まった。
**の背中から離れた乾いた右手が、その手を握る。

「なら、おれを信じていろ」
「え?」
「お前の知った機密が具体的にどんなものかは知らねェ。だが何であるにしろ、おれがプルトンを手に入れてそれを公にすれば、お前の頭の中の情報は無価値になる」
「それは、つまり…」
「お前をここから解放できるってことだ」

細い身体に、今までとは違う種類の緊張が走る。
その表情は何とも言えない変化を見せ、そのあとに**は俯いた。
何かを堪えているような様子だった。

「本当に…本当にそんなことができるのですか?私の見たものが、不要になるなんて…」
「あァ、可能だ。おれの計画が全て上手くいけばな」
「もう…苦しまなくて、いいの?私、伯父様や…父や母に、辛い思いをさせて…それなのに…」

白い頬を雫がつたった。
震える瞼から、直接衣服に落ちるものもある。

「それなのに…貴方と幸せになれるなんて、思ってもいいのでしょうか?」

耐えきれないといったように、**の手がその顔を覆った。
喉から嗚咽が漏れる。

クロコダイルは、何も言わずに**の身を抱き締める。
それが、彼女の問いに対する答えになった。


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公開:2013年4月2日

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