世界はこんなに美しい3 [ 1/1 ]

「最近、機嫌が良いようじゃなァ」

早朝に訪問してきたサカズキはそう言った。
探るような雰囲気を感じて、**は少し居心地が悪くなる。

「伯父様の不利益になるようなことは、していませんよ」

緩く笑ってそう告げると、小さな溜め息が聞こえてくる。
**はそれを、安堵の溜め息ととった。

今日は、あの人に会える日。
誰が来るのかを教えれば、目の前にいる厳格な伯父はどんな顔をするのだろう。

閉じられた瞳では、知りようもないのだけれど。


【世界はこんなに美しい3】


聖地マリージョアに、夕刻を告げる鐘が響く。
それを聞きながら、**は部屋の鍵をかけた。
普段世話をしてくれている人間達もこの時間にはもう居ない。
伯父のサカズキも、友人のスモーカーも、こんな時間には訪ねて来ない。
それでも、用心しておくに越したことはないと**は思っていた。

何故なら、あの人は海賊だから。
政府と協定を結んでいるとはいえ、サカズキは彼を敵視している様子だった。
会っていると知れれば、彼に迷惑をかける。

この部屋には家具を置いたスペースの他に、キッチンとバスルームが併設されている。
小さなキッチンでコーヒーと茶請けの準備をしていると、窓の揺れる音がした。
手で壁を探りながら部屋に戻れば、微かに葉巻の香りを感じる。
スモーカーとは銘柄の違うそれで**は彼の来訪を知った。

「お待ちしていました」
「元気そうだな」
「ええ、変わりありません。クロコダイル様は?」
「いつも通りだ」

短い答えに**が笑顔を返すと、クロコダイルが手を差し出してくる。
乾いた右手に自分のそれを重ねると、緩く握られた。
椅子まで導こうとしたその仕草を、**は慌てて引き止める。

「何だ?」
「あの、飲み物の準備が…」
「要らねェつってんだろ」
「でも、いつも全て飲んでいかれますでしょう?」
「お前が出すからだ」

呆れたようなクロコダイルの溜め息に、ケトルの音が重なる。
**がキッチンに戻ろうとすると、大きな右手がそれを制した。

「座ってろ」
「でも…」
「お前がやるのを見てると、こっちがハラハラするんだよ」
「火傷なんてしたことはありません」
「おれの気分の問題だ。ちゃんとおれの分も入れてやるから、座ってろ」

そう言うと、クロコダイルは**の脇を通り抜けてキッチンに入っていく。
大柄な姿がそこに立つ様子を想像し、**の口元を緩ませた。

クロコダイルはいつも、優しく美しい世界を**に与える。
始めて会った時からそうだった。
その表情を思う度に、やはり世界は美しいのだと**は実感する。
たとえそれが、自分の頭の中だけであったのだとしても。
そう思うことで、自分は見えない世界を愛しているのだ。
クロコダイルも知っている。
知っていながら、それを「妄想」だとは言わない。
その優しさがまた、**の世界に色を添えるのだった。

椅子に座ってしばらくすると、コーヒーの香りが漂ってくる。
**は元々、紅茶を好んで飲んでいた。
しかし、クロコダイルがコーヒー派だと知って、それも置くようにしたのだ。
スモーカーもコーヒーの方が好きだと言っていたのを口実に、世話人に購入を頼んだ。
この間訪問を受けた時に初めて出して、少し驚かれたのを**は思い出していた。

食器の擦れる音が近づいてくる。
気配の方向に顔を向ければ、小さな嘆息が降ってきた。

「ほらよ」

ぶっきらぼうに言いながら、クロコダイルがトレーを机に置いた。
響いた音で、確かに2人分のカップがあることを**は知る。
それに笑みを深めれば、正面に座ったクロコダイルが僅かに嘆息するのを感じることができた。

「ちゃんと2人分あるだろ」
「わかっていますよ」
「…そうかよ」

クロコダイルが**の方にカップを差し出す。
温かいそれを両手で包むと、クロコダイルの方もカップを手に取った。
啜る音が響く。
普通の人間には僅かな音でも、**にははっきりと聞こえていた。

「今日の会議はどうでしたか?」
「いつも通りだ」
「そうですか」
「お前は何してた?」
「いつも通りです」

言葉を真似て返答すると、クロコダイルが小さく笑った。
きっと、少し皮肉っぽい笑みなのだろうと**は想像する。
茶請けにと出しておいた菓子に手をつけた様子のあと、クロコダイルの視線が**に向いた。

「お互い、得る物はなかったわけだな」
「今日に関してはそうですね」
「その前は何かあったのか」
「ええ」
「何だ?」
「昨日はスモーカーが来ました」
「…あいつの話ならいい」

声に苦々しい響きが宿る。
スモーカーの名前を出すと、いつもこうだと**は笑みを抑えきれなかった。
どうやらクロコダイルはスモーカーを快く思っていないらしい。
海軍に対しては全員そうだと口では言っていたが、スモーカーに対しての敵意はまた種類の違うもののように思えていた。

「そのお菓子も、スモーカーが持ってきてくれたのですよ」

茶請けを口に運ぶ気配を感じながらそう言えば、クロコダイルは息を詰まらせる。
少し意地悪だったかと思いながらも、**は楽しげに笑った。
その笑顔を見たクロコダイルが仕方なさそうに溜め息をつく。

「お前、おれの反応楽しんでやがるな?」
「はい」
「…素直に頷きやがって」
「質の悪い女だと思っていますか?」
「当たり前だ」

即座に返ってきた答えは素っ気ない。
しかし、その声色にはどこか楽しげな響きが含まれていた。
クロコダイルは、**が笑顔をみせると雰囲気を和らげる。
それは自分の想像だけのものではないと、**は感じるようになっていた。
今の返答にしてもそうだ。
こういうやり取りを**が楽しんでいるとわかりながら、それを許容している。

「それより、何か思い出したか?」

向けられたいつもの問いに、**は首を横に振った。
クロコダイルは「そうか」とだけ呟き、またコーヒーを口にする。

クロコダイルが言っているのは、**が知る政府の機密だ。
**自身、その機密がどういう意味を持つのかを知らないし、知ったのは既に10年近くも前のことである。
時の経過によって、肝心な部分のことは忘れてしまっていた。
しかし、サカズキや政府の関係者は**が「もう忘れた」と口にしても、それを信用しようとはしない。
それ故に**は未だここに、マリージョアの中枢に設けられたこの部屋に住んでいる。
幽閉されていると言ってもいい。
だが、**はそれ自体は悲しいと思っていなかった。
それよりも、周囲に信用されないことの方が何倍も悲しい。

最初にこの状況を望んだのは、**自身だった。
機密を知った彼女をどうしたものかと、サカズキが随分悩んでいる様子だったからだ。
あの時の姿は、未だに脳裏に焼きついている。
苦悩する表情を、もう見たくなかった。
だから、だから、自分は…。

頬に暖かさを感じて、**ははっと思考を現在に引き戻した。
乾いた右手はクロコダイルのものだ。
出会って数ヶ月、既に覚えてしまった体温に**は肩の力を抜く。
自分のものよりも太い指が、左目の瞼を撫でた。

「どうかしましたか?」
「…いや。何か思い出したら、最初におれに教えろ」
「もう無理だと思いますが」
「決断を伴う記憶ってのはそう簡単に消えるモンじゃねェ。思い出せねェのなら、お前が思い出したくないと思ってるだけだ」

クロコダイルの手が頬から離れていく。
名残惜しさを感じながらも、**はそれを追わなかった。

言われた言葉を反芻する。
確かに、知ったその秘密によって、**は今の状況に置かれることを決めた。
サカズキにそう進言した時の記憶は今も鮮明だ。
あの、少しのことでは動揺しない伯父がみせた、これ以上ない驚愕の表情。
それは**にとって忘れ難いものだ。
政府の機密についても、この部屋に入った頃は簡単に思い出せた。
しかし、時を追う毎にその輪郭がぼやけていくのを感じたのだ。
それがクロコダイルの言うように「思い出したくない」と願うが故のことならば、彼は何故、思い出させようとしているのだろうか。

コーヒーを飲み終えたのか、クロコダイルが葉巻を取り出した気配がする。
立ち上がった身体に向かって手を伸ばすと、金属の感触が指先に当たった。
彼が左手の義手を差し出してきたのだ。
かぎ爪に肌を引っかけないよう注意しながら、その義手を頼りに**も立ち上がる。

本当は、この部屋の中ならば1人で歩ける。
世話人はそれを知っているから、**が1人で何かをすることに口出しはしない。
しかし、クロコダイルは許さなかった。
先ほどのコーヒーの件もそうだが、**が何かしようとすると必ず手を添えてくる。
本人曰く「見ていられない」のだそうだが、そんなに危なっかしい動きをしているのだろうかと**は不思議に思っていた。

窓辺に移動したクロコダイルが、途中までしか開かないそれを押し下げる。
その窓は、逃亡防止のために僅かしか開かないようになっていた。
クロコダイルは葉巻に火をつけると、窓から手を出して煙も外に吐き出す。
部屋に匂いが残らないようにしてくれているのだ。
**としては、クロコダイルの訪問の名残を感じられないために少し残念でもある。
しかし、葉巻の香りが残っていては、彼の訪問が露見してしまう。
そうなれば、サカズキは黙っていないだろう。
**にとっても歓迎すべきことではない。
この行動からして、クロコダイルもそう思っているのではと**は考えていた。

クロコダイルが葉巻をふかす横で、**は近づいてくる夜の静けさに耳を澄ます。
窓辺に移動した際に義手に添えた手は、未だにそのままだった。

「前から、お聞きしたかったのですが」
「何だ?」
「どうして、思い出させようとするのですか?」

口にされた疑問に、クロコダイルは沈黙した。
そんなに言いにくいことなのだろうか。
クロコダイルにとって、政府の機密というのは知っておきたい事項だろう。
政府の弱みを握れば、それだけ彼の立場も強くなる。
しかし、出会ってから数ヶ月、**は忘れてしまったことの片鱗さえ掴めないのだ。
いくらクロコダイルが辛抱強いとは言っても、そろそろ諦めていい頃なのではと感じていた。

「政府の機密なら、私の知っていること以外にもあるはずです。他の情報を探そうとは思わないのですか?」
「考えたこともねェな」
「このまま私が思い出すのを待っていても、時間の無駄に思えます。そんなに固執するほどの理由があるのですか?」
「なきゃ来ねェよ」
「それは何ですか?教えて下さい」

金属の義手を掴む手に力を込めると、クロコダイルが溜め息をついた。
それが落胆の思いを含むように感じられて、**は慌てて別の意味にとろうと努めた。
しかし、一度察してしまった以上、上手くいくわけもない。

「…お前、本当にわかってねェのか?」
「え?」

溜め息の意味に気をとられていた**は、クロコダイルの小さな呟きを聞き逃した。
反射的に聞き返すと、義手が**の手から離される。

拒絶、された。

そう思った**の心に、失望の色が広がる。
クロコダイルは、何故手を払ったのだろうか。
自分はそんなに気に障るようなことを聞いたのだろうか。
教えてほしい、何がいけなかったのか。

美しい世界が、崩れてゆく気配。
目の奥が熱くなるのを**は感じた。
塞がれた瞼から、涙は零れるのだろうか。

そんなことを考えていた**の腰に、何か硬い感触があった。
それがクロコダイルの義手だとわかったのは、大きな身体に引き寄せられたと知ったのとほぼ同時だった。
右手のある方向で、さらりと何かが流れる音。
クロコダイルが葉巻を砂に変えたらしい。
香りを残す手が、**の顎をとる。

「お前に会うための口実に決まってんだろうが」

発された言葉の意味を**が理解する前に、その唇に温かい何かが触れる。
指先ではない、もっと柔らかいもの。
ぬるりとした感触に歯列を割り開かれて、**はようやく口づけられていることを理解した。
葉巻の香りと、独特の味が咥内を満たす。

**が息苦しさを覚えてきたところで、クロコダイルの唇が離れた。
しかし、顔はまだ近くにある。
羞恥を感じて腕を突いたが、引き寄せる力に敵うわけもなかった。

「わかったか?」

問うてくる声音は何やら楽しそうな雰囲気を含んでいた。
そのことに、**は混乱する。
さっきの溜め息には、落胆の色があったのに。
今は何故、楽しそうなのだろう。

「あの…さっき、溜め息をついたのは…」
「それくらい、いつもしてんだろうが」
「でも、何か…落胆したような…」
「あァ、そういやァしたかもな」
「それとこの状況が結びつかないのですが…」
「好きな女に「何で自分のところに来るのか」と言われて、落胆しねェ男がいるなら見てみたいモンだ」
「す、好きな、女…?」

**が聞き返したのは半ば無意識だった。
言葉は理解できている。
だが、せめぎ合う感情を整理できず、対処することができないのだ。
それをどう表現していいのかも、**にはわからない。

その意図がクロコダイルに伝わるわけもない。
楽しげだった空気にぴしりとひびが入り、代わりに怒りの気配が頭を出してきた。

「お前…いい加減にしろよ」

唸るような低い声音は、やはり怒っているようだ。
そう察した**は、慌てて言葉を探す。

「あ、あの…申し訳ありません。わかっては、いるのですが…その…」
「本当か?」
「本当です。あの…頭が、ついていかないだけで…」

途切れ途切れに紡ぐ最中、**は顔に熱が集まっていくのを感じた。
何だろうか、頬や耳が異様に熱い。
身体の方は何ともないのに、首筋からは汗が出てきそうだ。

ちぐはぐな感覚に戸惑っていると、クロコダイルの口元から息が漏れた。
それは、小さな笑いだった。

「本当みたいだな」

笑いを含んだ言葉は、**には理解できない。
一体、何を見てそう思ったのだろうか。
乾いた指先が頬を撫でる。
普段は自分より体温の高いそれが、今は何故かひんやりと感じる気がした。
首を傾げると、クロコダイルの笑みが深まる気配が**に伝わってくる。

「真っ赤だぞ」
「え?そ、そうなのですか?」
「あァ」

クロコダイルが壁に背を預ける。
それにつられて、**もクロコダイルの身体に寄りかかるような姿勢になった。

自分の鼓動が早いのが、遠いことのように感じる。
クロコダイルは今、どんな顔をしているのだろうか。
それを自らの目で見られないことが、**はとても残念だった。


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公開:2013年3月5日

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