カタリとも音のしない、滑らかな走行で滑り箱が進む。
馬車よりも、船よりも、遠い雪国で見た雪車(そり)よりも安全で正確な交通手段は、一度この場所を離れたからこそ快適だと実感しうるものだ。
車輌の両脇、向かい合うように一列に並んだ座席へ腰を落ち着けると、滑り箱はじわじわと速度を上げた。揺れがないので、そうとわかるのは窓から見える無機質な壁が通りすぎていく景色だけだ。
等間隔で並ぶガラス張りの車窓には、代わり映えのない景観が、途切れることなくどこまでも続いている。暗い通路に張り巡らされたエレキの動線だけが、ほんのりと色を帯びて輝いていた。
わたしの良く知る紫水晶の煌めきは、同じ輝きを持つ者の元へとわたしを運ぶ。この大きな筐体には、わたしひとり。さもありなん。本来ならば今の時間は、学校や会社や、国を形作るすべての機関が能動的に生きている時間なのだから。
この辺りの学生がこぞって通う学校に、直通のこの路線だ。わたしのような年頃の娘がこの時間、この滑り箱に乗っていること自体おかしなことだろう。
(あの頃は)
たったそれだけのことで、胸が高揚したかもしれない。
朝起きて、食事を摂って、身支度を整えて学校へ行き、人並みに勉強して、帰宅して、余暇を活字に埋める日々。その繰り返しの、凝り固まってしまったルーチンワークを淡々とこなしていた日々ならば。
いつもと違う非日常。そ知らぬ顔で、自分でも気づかない内に、わたしはそれを渇望していたのだから。
一年か、二年か、長い目で見ればほんの少し前の日々を思い出して、わたしは目を閉じた。あの頃、よくそうしていたように。
たとえば明日、空の国が地上に落ちてきたとしたら。
たとえば行方不明の両親がある日突然わたしのもとへ帰ってきたなら。
たとえば今ここは満員御礼すし詰め状態で、押して圧されて息苦しさに窒息死したら。
幾度となく、そんな突拍子もない妄想をしたものだ。
瞼を下ろせば、わたしはどんな境遇の、どんな人物にもなれたし、どんな場所にも行けたから。――その場所を、資料の通りに思い描けはしなかったけれど。
海も、空も、土も、風も。実物を知らなかったのだから当然だ。人は、知らないものを空想で補いきることはできない。
強固な壁が張り巡らされたこの国は、モンスターが入って来られないよう、ゲートで遮断された安穏の地で、雨も降らなければ雪もない。気温はエレキで調節されて、急な嵐で家や店が吹き飛ぶこともない。
鳥籠のようだ、と、いつだったか思った。あるいは、人工物に守られた、巨大な揺り篭。
絶対的な安全を手に入れた代わりに、この国の多くの人々は心の自由を失ったのだ。
そして、わたしも。
鬱屈した精神が、緩やかに色を失いつつあった日々。抑圧された凡庸な心は、未知の刺激を求めて録字されたエレキの中にささやかな快楽を見出だした。
知らないことを知ることは、植物が水を吸い上げるようにわたしの心の空虚を、ほんの少しだけ塞いでくれたから。
たとえそれが、空っぽの井戸に蓋をしただけの紛い物の満足でも。
滑り箱が、緩やかに曲がる。カーブを切る微かな揺れを、以前ほど違和として感じなくなったのは、きっと馬車に揺られる感覚が身に染み付きすぎたせいだろう。
「次はー、終点ー。ディベールテスマー。ディベールテスマー」
それまで無音だった筐内に、無機質な音声が流れだす。わたしの世界が弾けたあの日と、きっと何ひとつ変わらない響きで。
滑り箱が、発進したときと同じ緩やかさで動きを止める。微かな駆動音を上げて、ドアが開かれた。
どこも変わらない箱停の終着地点へ降り立つと、何故だろう。帰ってきた、という気がするのは。
昨日、この国に帰ってきたときもこの町を通ったのだし、なんなら、ここに来たのはまだ片手で数えるくらいだと言うのに。
「唯一ここは、わたしの空虚を暴き、掻き立て、浮き彫りにする場所だからだろうか。……今ではずいぶんと小さくなった、その虚を」
鞄を背負い直して、わたしは癖のように頭の中で綴っていた文章を声に乗せた。
囁くような小さな疑問は、解石口の外から聞こえてくる歓声に掻き消された。
◇ ◆ ◇
「退屈な日々を酔いで紛らわせてみませんか? 酔わせ屋、本日スペシャルコースをご用意しておりまーす」
「安心、安全な運命の出逢いの演出は偽恋屋まで!」
「快適な安眠も身の毛もよだつ悪夢も、すべてはあなたのご要望次第! 睡眠屋はこちらでーす」
客寄せの声が、引きも切らず飛び交っている。方々から聞こえる猥雑な呼び掛けには、負けず劣らず様々な野次が混じっていた。
通りの向こうでは、今日も元気に事件屋の少女が叫ぶ。「事件よー! 誘拐事件が起きたのよー!」――その九割九分九厘が、演じられた安全な事件だということも知っていた。
もしも残りの一厘に遭遇したならば、それこそ彼女の兄妹総出の大事件になることだろう。
(普段の彼らの仕事と、さして変わりはないのだが、と)
わたしは目に痛い娯楽街の隅に避けて、手荷物から町の地図を取り出した。今日の彼との待ち合わせ場所である、スリル・フードへの道を指でなぞる。指で描いた線上を辿るように歩きだした。
見上げれば、空の代わりに覆う天井。波のように押し寄せる看板群は、紫の間にピンクのネオン。
薄暗くはないはずなのにピカピカとうるさい視界は、やはりまだ慣れない。
広場を抜けて飲食街へ。スリル・フードはとんでもなく不味いものを出すと評判で、この辺りでは有名な店だと彼も言っていた。
“君の満たされない穴を埋めてあげよう”
ふと、いつかの彼の言葉が耳の奥でフラッシュバックする。
“蓋をしたその穴を、僕が優しく暴いてあげる”
(ああ、そうだわ。あなたはその言葉通り、わたしも気づかなかったわたしの虚を、丸ごと暴いてしまったのよね)
カサリ。返事をするように、手元の地図が乾いた音を立てた。
(あのときは、ただそれだけだと思っていたのだけれど)
思い返せばあの言葉は、わたしを通して、彼が、自分に言っていたもののようにも思えた。
何よりそう思えば、あのとき聞いた彼の呟きの片鱗が、とてもしっくりと馴染むのだ。
“うん。君なら、そう言うと思ったよ。……少し、残念だけどね”
わたしが酔わせ屋に興味を示したときも。
“君は僕と似ている。安穏を享受しながら、本当は、退屈から逃れられるのならたとえ……、”
わたしの中に人知れず潜んでいた刺激を歓喜する感情を指摘したときも。
彼の言う通り、わたしたちはとても似ているのだ。似ているからこそ、彼はわたしを通して新鮮味の欠けたアクシデントを堪能しようとしたのだろう。
わたしが多くの資料の中に、刺激を求めたように。
角を曲がる。人混みをすいすいと避けて歩く。以前は人にぶつかって歩いたこの道も、今は難なく歩くことができる。
そんな自慢にもならない些細な変化が嬉しかった。
あれこれと思いを巡らせながら歩けば、目的地まではすぐだった。でかでかと掲げられたスリル・フードの看板と地図を見比べて、店先に並ぶテラス席に目を細める。
ちらほら見える客に混じって、この国に縁の薄いものを持つ男の姿を見つけた。
ぺらり。長い足を組んで書物のページを繰る彼は、本の世界に没頭しているようだ。こちらに気づいたふうもなく、いつからそこにあるのかもわからないクール・ウォーターはグラスに汗を滴らせている。
グラスに沈んだ指先ほどのエレキは、氷と違って溶けてしまわないけれど、だからこそ永続的な冷却装置についつい時間を忘れがちになるのだ。彼も多分に漏れず、油断して、活字の波に没頭しているのだろう。
ふいに、その宝石のような瞳をこちらへ向かせてみたくなった。
「ディー」
席ひとつ分空いたところまで近づいて、彼の名前を呼ぶ。彼は、弾かれたようにビクリと身体を震わせた。
その姿が、あの日、エレメント依存症の症状に倒れた彼と一瞬だけ重なった。
心臓がドキリと跳ねる。けれど、それも一瞬。今のディーが、そう簡単に発作を発症しないことを知っている。
思った通り、彼はなに食わぬ顔で視線を上げて、紫水晶の瞳にわたしを映した。
「やあ、久しぶり」
とても久しぶりとは思えないほど軽い調子で、彼が挨拶を寄越す。それに、わたしはやっと地面に縫い付けられた足を踏み出して、彼の向かいの席についた。
「待った?」
「待ったけど、待ってないよ。暇潰しがあるからね」
閉じられた分厚い革表紙を、彼の繊細な指先がなぞる。まるで今日の用事はそちらが本命だとでも言いたげに。
「じゃあ、あと一、二時間遅れて来た方がよかった?」
「そういう意地悪を言うんだ。ひどいなぁ、カルセは」
以前、毒のようだと感じた甘い声が、それとわかるからかいを含んで笑った。あの頃より毒気の抜けた表情は、けれど、変わらない儚さと蠱惑性を孕んでいる。
少しだけ年を経て、世界に触れた大人びた顔つきは、初めて見たときに垣間見た不安定さを薄れさせていた。
「冗談だよ。わたしも注文いい?」
「ご自由にどうぞ。ああ、でも、ここでの食事はお勧めしないかな。外の国の美味しい刺激を知ってしまった今の僕たちには、ここの食事は歓迎されざる衝撃だろうから」
「今の説明でお腹いっぱい」
「賢明だね」
わたしも彼と同じものを注文して、グラスが運ばれてくる間に鞄を膝へ乗せる。ふたつのグラスが並んだテーブルの上は、次の瞬間、互いが広げたもので埋め尽くされた。
写真、メモ帳、古びた紙束。浜辺で集めた貝殻に、見たこともない植物の押し花。人工物で溢れたこの場所には似つかわしくない、それはわたしたちが、自分の手で集めた自然物の欠片だった。
「前に常夏の国に言ったって話したとき、まだ行ったことがないって言ってたでしょう? かき氷は溶けちゃうから無理だけど、海で拾った貝殻を持ってきたのよ」
「うわ、すごいね。何これ、捻れているように見えるけど、中はどうなってるの?」
「螺旋状の空洞になっててね――」
わたしが説明する一言一言に、ディーは目を輝かせてメモを取る。人を惑わす人間性も、この時――定期的に互いの旅した国の話を持ち寄って情報交換をする時――に限っては、すっかり成を潜めるようだ。
代わりに子どものような顔をして次の話をせがむので、わたしはとっておきの情報を次から次へと語って聞かせるのだ。
きっと彼の話を聞く時のわたしも、同じような顔をしているに違いない。
その証拠に、ちらちらと彼の持ってきた押し花を気にするわたしへ、ディーも気づいたようだった。
「これ、気になる?」
「……気になる! だってそんな花、王国でだって見たことないわ」
「いいよ。じゃあ、今度は僕の番だ。これはね――」
柔らかな声音が、わたしの知らない冒険を紡ぐ。紛い物の安全が溢れる街角に、本物の好奇心が花開く。
今はもう、刺激を追い掛けようなどとは思わない。
瞼を開けばいつだって、想像もできない驚きがそこかしこに満ちているのだから。
end
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