「正義感が強いところは好きだわ」
不意に、それまで沈黙に徹してイグニスの所作を眺めていたグレシアが呟いた。
剣の手入れをしていたイグニスは、あまりに唐突な少女の言に、手元へ落としていた視線を上げた。
「グレシア?」
「優しいところも好きよ。困っている人を放っておけないところも」
「話が見えないんだが……」
彼女の言わんとするところを掴めずに困惑するイグニスへ、グレシアは澄んだ冬空の瞳をぱちりと瞬かせる。
そこに浮かぶ彼女の感情は不明瞭で、少女もまた、自分自身よくわかっていないのだろうことが伺い知れた。
「私は、どうしてあなたを愛したのかしらって」
あんなにつらい運命だと知っていたのに、何故、と、語られぬ言葉が声音に滲む。イグニスの脳裏に、過日の大戦がちらついた。
本当ならば、こうして二人、穏やかに語り合える未来も、二人の間には無い筈だった。それを覆したのは、ひとえに二人の想いの強さと、彼らに力を貸してくれた不思議な旅人たちの存在だ。
長く続いた三国間の争いの宿命を打ち砕くこと。それは本来、イグニスとグレシア双方の命をもってこそ成し得た運命だった。
ところがどうだろう。三国間の危機に命を賭して挑んだ戦いは、二人を生かしたままに終焉を迎えた。決して触れ合うことが出来なかった筈の悲劇の恋人たちは、その身に宿した精霊の加護を代償に、運命の書の向こう側の未来へ至ったのだ。
戦の終結が誰からともなく告げられたその夜、敵同士であった氷の姫と炎の騎士は、手に手を取って国を出た。郷里ではお尋ね者となってしまった二人が帆船に乗り込んでから、まだ月日はそう経っていない。
今このときとて、どことも知れない宛てどない旅の途中だった。
「確かに私たちは、運命の書に従って生きていたわ。でも、気持ちまでその通りに従えるとは限らない。だって、私の気持ちは私だけのもので、あなたの気持ちだってそうだもの。それでも、悲しい結末が見えていても――見えていたからこそ、どうして私はあなたに恋をしたのかしらって、そう思ったの」
滔々と己の中に芽吹いた疑問を、グレシアは形にするように紡ぎ出す。手にした剣と布を膝に抱え直して、イグニスがふむ、とひとつ鼻を鳴らした。
小さなテーブルを挟んで対面するように座るグレシアは、まるで教師に教えを乞う生徒のように期待の眼でイグニスを見つめる。
重々しくもなく、極めて当たり前のことのように、彼は口を開いた。
「そうだな……俺は君の凛としてひたむきに歩く姿が好きだよ」
「えっ」
「どんな苦境にも逃げずに向き合う責任感も尊敬しているし、けれど、ふと気の緩んだときに心細そうにしている君は守りたくなる」
「ちょ、ちょっと待って、イグニス。話が段々ずれていっているわ!」
「だが」
どんな哲学じみた答えが返ってくるだろうと期待していたのか、脈絡もなくほめちぎられた少女は見る間に顔を赤らめて制止を訴える。
けれど重なるように反駁した青年は、苦笑をひとつこぼして肩を揺らした。「そういうことじゃないだろう?」そう告げる彼の口ぶりはひどく穏やかだ。
「ここが好きだからこの人を愛する、ここに憧れるからこの人が好きだ。……そういうことじゃ、括れないんじゃないか?」
「……ええ」
「どんなに憧れても恋にならないこともあるし、どんなに焦がれても愛にならないこともある。好きなところとか、その数だとか、そういったことではないと、俺は思う」
「そうね。だからどうしてかしらって思ったの。恋って不思議ね」
首を捻るグレシアは、未だ釈然としない調子で呟いた。雪を纏ったような青銀の髪が煌めいて揺れる。
その様子を、イグニスは眩しげに見つめた。彼女の髪が光を集めて細かに反射する。その様も、グレシアの好きなところのひとつだ。
彼にとって、それは確かに彼女の好きなところではあるけれど、同時にそれは“彼女の一部”でしかない。
“グレシアの好きなところ”に恋したのではなくて、彼は“グレシア”に恋をしたのだから。
「俺と君は惹かれ合った。それがすべてで、答えだよ」
イグニスの柔らかな微笑みに、熱の落ち着きかけた少女の頬へぽっと薄紅の火が灯る。その火に触れたくて、青年は遠慮がちに手を伸ばした。
今でもまだ、彼女に触れるのが恐ろしい、とイグニスは思う。触れた瞬間に、彼女が溶けて水になり、消えてしまうのではないかと思えて。
それは比喩ではなく、少し前まで確かな形で二人の間にあった隔たりだった。
幾度となく夢に見た熱に、今はもう、手が届く。それが何よりも嬉しくて、愛おしい。
壊れ物を扱うように触れる彼の指先に、グレシアもまた同じことを思ったのだろう。
微かに震えた目元の緊張を隠すように、それは幸せそうに笑って、頬へ触れる青年の手に冷たい手のひらをそっと重ねた。
end
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