底の見えない深海に石を投げ込むような、滑らかな液体の音が聞こえる。
とろとろと深い緑色に濁った薬湯を、瓶に注ぎ込む音だった。
薬鉢を傾けるのは白く繊細な指先で、流れる液体が立てる音のイメージは、そのまま手の持ち主である彼の印象へと直結している。
とても軽く、それでいて、どこまでの深みを懐に抱え込んでいるのか知れない天使。薬の知識を人へ与える責務を負いながら、普段はその責務から体よく逃げ回っている怠惰者だ。
「アマスラス、そのお薬は?」
テーブルを挟んだ対向で一連の作業を見ていたロゼットは、彼の名を呼びながら封をされた薬の正体を問うた。
「ん? 媚薬」
「またそんな適当なことを」
さらりと笑顔で返されたとんでもない答えに、少女はじとりと疑わしげな目つきで一蹴する。彼がへらへらと笑う時は、大抵ロゼットをあしらおうとしている時なのだ。
ちぇっ、と騙されてくれなかったロゼットに、アマスラスは小さく舌打ちする。どう見ても使役される者の態度ではなかったが、主であるロゼット自身も使役者として敬ってほしいわけではないので、見なかったふりで流した。
「傷薬だよ。これを塗って包帯を巻けば、小さな傷なら一日で塞がる。飲めば鎮静薬にもなるよ」
「へぇ、ちょっと便利かも」
「誰かさんがいっつも生傷付けて帰ってくるからねぇ」
青年の揶揄を含んだ視線と声音は、明らかにロゼットを槍玉に挙げている。確かに、妙齢の女が傷ばかり作ってくるのも如何なものかと思うのだが、こればかりは仕事なのだから仕方ない。
唇を尖らせて抗議の声を上げようとしたロゼットだったが、彼の方へ身を乗り出した時、不意に鼻の奥を慣れない香りが刺激した。
ほんのりとしめやかに香る、甘い花の香りだ。それはよく注意しないとわからない程度の芳香だったが、ロゼットにはすぐにわかってしまった。
少女は思わず目をぱちくりと瞬かせた。
「どうかした?」
きょとんとしたアマスラスも、彼女の反応にまばたきを見せる。
ロゼットはくん、ともう一度鼻をひくつかせてアマスラスへ顔を寄せた。
「いつもと違う薬草……花を使ったの?」
「あれ、わかる?」
「いつもは苦い薬草の匂いがするから」
それは彼のそばを通る度、香るほどに。
普段はえぐみと渋みが混じった緑の香気をまとっているから、いつしかそれが彼の香りとして馴染んでいたのだ。
アマスラスを前にしながら、ほんの束の間、彼が彼ではないような錯覚に陥った。
「たまには趣向を変えてみようと思って。だって君、僕とすれ違う度、微妙な顔をしてるでしょ。そんなに薬草の匂いが嫌いなのかなー、とね。悲しくなっちゃったわけさ」
「え、や、あれは……」
彼の指摘したことには、少なからずの心当たりがあった。
アマスラスのそばを通るたび、時折鼻にかかる苦い薬草の匂いは、彼が珍しく真面目に自分の本分を遂行している証だ。常に逃げ回るか遊び呆けている彼が、調薬に没頭している姿など滅多にお目にかかれない。
だからこそ、彼から薬草が香る時、『久しぶりに仕事をしたんだな』とか、『できればもう少し勤勉になってくれると助かるんだけど』とか、思わず考えてしまうのだ。
そんな微妙な心境が、つい顔に出ていたのだろう。
どこで誤解が生じたか、ロゼットが薬草の匂いを敬遠しているものだと勘違いした彼は、こうして珍しく花の香りの調合材を用いたようだ。
ほら、と伸ばされた掌が、誘うように指先で招いた。動かされる指先から、ほんのりと絡む甘い香りが立ち上る。
「いい匂いでしょ。君のための香りだよ」
「すぐそういうことを言う」
「本当のことだもん」
くすくすと笑うアマスラスに、ロゼットは視線をさまよわせた。いつもと同じ調子の彼だが、いつもと違う香りにはいたたまれない。
「アマスラスから甘い香りがするのは……なんて言うか、落ち着かない」
「どうして?」
「苦い匂いに慣れてるから……かな」
「……そうだったの?」
てっきり嫌っている匂いだろうと思われていたからか、ロゼットの答えに、アマスラスは意外そうな顔をする。
けれどすぐに忍び笑いを一つ浮かべて、彼は席を立ち上がりながら指先を頬に滑らせた。
細いが骨張った指先は、少女を擽るように肌を撫で、その小さな顎を捉える。ほんの一瞬の出来事に、ロゼットは反応する間もなく、彼の手に顔を縫い止められた。
「じゃあ、僕が君と居ると落ち着かなくなるのも、そのせいかな?」
「――まさか」
冗談のように一笑しようとしたけれど、唇は声を紡ぐに留めてそれっきり動かなかった。
僅かな隙をついたアマスラスが、薄い笑みを浮かべてロゼットの耳元に顔を寄せる。
耳朶に吐息がかかるほど近付いた唇が、甘い囁きを耳に直接吹き込んだ。
「だってロゼットは、いつも甘い匂いを振りまいてるから」
「っ……!」
じんと脳髄に痺れが回る。
彼の言葉が肌をぞわりと撫でていき、全身が小さく震えた。
甘美な花の香気は、重なった頬から伝って溢れ出す。彼の匂いが一番強く香った時、アマスラスは衣擦れの音を一つ立てて身を離した。
「花の匂いとは違うんだけどね。何だろう。お菓子みたいな、つい一口かじってみたくなる匂い」
今にも舌なめずりをしそうな青年に、少女は自由になった身を奮い立たせて席を立った。
後退りしながら壁際に張り付くロゼットの反応を、彼は楽しんでいるようだ。
「一口舐めたら、君はやっぱり甘いのかな?」
「し、知らない!!」
そこが彼女の限界点だった。
短く叫んだロゼットは、たちまちきびすを返して一目散に駆け出す。背後でアマスラスの笑いをこらえる声が聞こえたけれど、なりふり構っていられなかった。
息の掛かった耳が熱い。
頭の奥で、今も一段低い囁き声が残っている。
鼻孔を擽る甘い香りを振り切ろうとしたけれど、花の匂いは少女の髪にまとわりついて離れない。――否、放さない。
彼が与えた残り香が消えないから、代わりにロゼットは、固く固く目を閉じた。
end
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