ふと、えも言われぬ恐怖に背筋を舐められる瞬間がある。
それはたとえば、真っ暗な夜半にひとりで目覚めたときに。
ここはあの、ベッドと机しかない施設のがらんどうのような部屋で、今はそのときの、判然としないままに朝と夜を繰り返していた日々の、延長線なのではないかと錯覚してしまう瞬間が不意に訪れるのだ。
「ザック?」
薄くて固いベッドのマットレスを、這いつくばるようにして起き上がる。隣にある筈の彼の温もりに触れたくて名前を呼んだのに、応える声は返ってこなかった。
黒く塗り潰された視界が徐々に暗闇に慣れていくと、二人で寝泊まりするには狭い室内がぼんやりと輪郭を現す。
三歩も歩かないところに横たわる、日に焼けた布張りのソファ。その背もたれに、乱雑に掛けられた私の上着。
よかった。ここはあの、病的に整えられた施設ではない。そう安堵して、微かに黴臭い枕へ顔を沈めた。
今は何時だろう、と時計を探して、ベッド脇のサイドボードに手を這わせる。十ドルもしないようなチープな置時計は、零時を少しすぎた頃を指していた。
二度寝しようにも、覚めた目は冴えてしまってもう一度眠れそうにない。時計の隣のテーブルランプを点けて、室内に人の気配が無いことを再確認すると、私は床に脱ぎ捨てたブーツへ無造作に足を突っ込んだ。
× × ×
縁の欠けた洗面台で顔を洗って、着ていた褪せた白い寝間着で顔を拭く。我ながら、多少アウトローな生活に染まってきたなと唇を尖らせて、ザックはどこに行ったのだろうと考えた。
ザック――私の同居人で、いつか私を殺してくれると誓ってくれた唯一無二の殺人鬼。
彼はたまに、ふらりと夜の間、外に出ていることがある。いつも翌朝までには帰って来るので、どこに、何をしに行っているのかと問い詰めたことはなかったが、おおかた察しはついていた。
仕事もせずにお金を得られる手段など、限られているのだ。たまに私が経歴を偽って短期のアルバイトをしているものの、その程度の稼ぎでは食べるのがやっとで、衣住の確保を続けるのは難しい。――となれば。
(盗みか、違法な仕事か、或いは……)
もっとも彼の好みそうな手段を想像して嘆息した。人殺しは駄目だ、なんて今さら言えた身ではないし言うつもりもないが、ひとつ殺人事件が起きれば捜査の手が入り、その町には居づらくなる。
今だって、捜索の手が減っただけで、私もザックも追われる身だということに変わりはないのだから。
かつてそうしていくつもの町を転々としてきた結果が今だ。現に今のこの仮宿も、ほんの二週間ほど前にチェックインしたばかりだった。
排水溝が詰まりかけているのか、栓もしていないのに流した水が溜まっていく洗面台。
垢だらけで灰白色に曇った小さな鏡。
コックを捻っても水しか出ないので、到底夜には浴びられないシャワー。
お世辞にも快適とは言い難い安モーテル。それでも、施設を逃げ出したばかりの頃よりはいくらかマシというものだ。
あの頃は互いに着の身着のままで、おまけにザックは警察に追われる脱獄犯だった。
当然、モーテルに泊まれるお金もなければ、人前に出ることすら危うい逃避行。
スラム街の空き家や町から離れた廃屋で眠ることができればいい方で、ひどい時には建物の間の狭い隙間で野宿することもままあったのだから。
短ければ数日、長くてもひと月経つ前には棲家を移す。そうしてどれほどの夜を逃げ遂せてきたのか。
生活環境は底辺もいいところだ。けれど、後悔をしているかと問われれば答えは否だった。
あのビルの脱出劇を経てから入れられた施設で、死んだように生きていたときよりも、今の生活はよほど幸せだと思えるのだから。
事実、施設で眠れない日々を過ごしていたのが嘘のように、ザックと夜を越えるたび、眠りは緩やかに訪れるようになった。
(だから、彼が出ていったのにも気づかなかったのだけれど)
開けっ放しの洗面所から、固く閉ざされた扉を見つめる。不思議と置いていかれたという不安や恐怖はなかったけれど、代わりにまだ帰ってこない彼の面影を探すように小さな寂しさが募った。
また帰りは明け方だろうか。もしかしたら、返り血を浴びて帰ってくるかもしれない。なんでもいい。彼が無事に帰ってきてくれるのならば。
目覚めたらベッドの上で、ザックが警察に捕まったと聞かされたあのときの――ビルを脱出したばかりの頃の恐怖と絶望を、二度と味わいたくはなかった。
(ザックが奪うかもしれない誰かの命よりも、誰かに奪われるかもしれないザックの命を心配するなんて、酷い人間なのかな)
私は、どこか壊れているのかもしれない。
世間一般の言う倫理観というものは知っていれど、それそのものの重要性をまるで理解していないのだから。
いびつな生き物だ。私がかつてそう直した、継ぎ接ぎの“私のものたち”のような――いいや、彼らはそのとき既に“生き物”ではなかったけれど。
それでもいいとは、私の中の僅かに残った正常性が言わせてくれない。自分が世間にとっての異常で、異物であることを知っているからこそ、私はこのまま生きていてはいけないのだという意思は変わらない。
だから今も、ザックに殺されることをこうして日々望んでいるというのに、ザックときたらまるで私を殺そうとするそぶりも見せてくれないのだ。
日々鏡を見ながら笑顔の練習をしてみても、殺してやるにはまだ足りないと彼は言う。
『もっとだ、もっと。今を楽しめ。そんな用意したような笑顔じゃ、俺の本能を刺激しねぇんだよ』
つい最近返ってきたのは、そんな言葉だったか。
「今を楽しめ、か」
確か、そんな意味の有名な言葉があったような。何だったか。ええと――。
考えを巡らせながらユニットバスルームを一歩、踏み出す。その瞬間、水を打ったように静まり返っていた夜気を引き裂く足音が聞こえた。
闇に隠れるように騒がしさを抑え込んだ、けれど殺しきれない殺気立った忍び足。あぁ、やっぱり。予感は的中したようだ。それも、悪い方の。
ガチャガチャと鍵が差し込まれる金属音が響いて、無遠慮な扉の開く音が冷えた空気に熱を灯した。
「あ? お前起きてたのか」
「お帰りなさい、ザック」
帰ってきたというのに電気もつけようとしない彼の真意を汲み取って、彼が何かを言う前に寝間着の上から上着を羽織った。冷えた空気に染まりきった布が、寝起きの体温を更に下げていく。
夜目に私の行動を追ったザックは、その意味を理解しているようだった。ドア口で突っ立ったまま、それ以上部屋へ入ってこないのがその証拠だ。
「わりーな、レイ。緊急事態だ。今夜中にここからてっしゅーすんぞ」
「ビンゴ」
「あァ? んだそれ」
「ううん、こっちの話。また殺しちゃったの?」
怪訝さを滲ませる彼の声が控えめに響いて、見えているかも定かではないが首を振った。
少ない荷物をまとめる片手間にわかりきっている問いを投げると、ザックの、喉の奥で笑う声が微かに聞こえた。
「言ったろ、我慢できりゃ今頃こんなことにゃなってねぇってよ」
「そうだね」
ザックも、私も。そう付け足して、黒いポシェットに代わるダークグレーのリュックを背負う。私の胴よりも小さなその中には、少ない着替えとわずかな汚れたお金、それから携帯用の裁縫セットが詰まっていた。
ここに来る前に持っていた銃は、弾が切れたので棄ててしまった。その内どこかで調達しなければ。
「準備できたか?」
自分の得物だけを片手に握って、他には何の荷物も持たないザックが言う。
「うん」
「ならとっととずらかるぞ」
いっそここで殺してくれれば、彼も身軽になるだろうに。
警官に追われるたび、彼は「俺が無事に逃げきる為に、今はお前のアタマが必要なんだよ」と言って私の手を引くのだ。
今日もまた、夜闇に紛れて包帯に覆われた手が私の腕を掴む。こうしてほんの短い間、彼に手を引かれるごとに心が沸き立つのだと言ったら、人は不謹慎だと私をなじるだろうか。
(楽しんでない、わけじゃないよ)
先ほど思い返したザックの言葉に異を唱えるように、彼の背中を見つめながらひた走った。本当ならば、願うべきではない想いが頭の端を掠める。
もう少し。あと少しだけ。こうしてザックと共に、世界のあらゆるしがらみから逃げていたいと。
この、ギリギリのスリルをいなす逃亡劇に、身を浸していたいと。
そんな、益体もないことが。
(大丈夫。死にたいと、そう願う心は、今も忘れてないわ)
それでも、今振り返ってくれれば、きっと多少は殺したくなるような顔をしているのに――そう思えるほどに足取りは軽く、私の心は場違いにも高揚していた。
次の角を右へ。その先の細い路地を真っ直ぐ。
次々と私の出す指示に、彼はもう抗わない。同じように、私も強く引っ張られる腕の力に身を委ねた。
彼の服に染み込んだ血腥さが、罪深いこの身にこびりついた感覚を呼び覚ます。
月は半ばを越えた頃。ふたりの狂気は沈まない。
夜明けまでは、まだ遠かった。
end
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