べしゃり、と不自然に泥の跳ねる音がして、アイザック・フォスターは振り返った。
耳元ではザァザァとくぐもった雨音が響いている。ただでさえ天気の荒れた夜に月などあるはずもなく、木々に囲まれた視界はひどく不明瞭だ。
「おい、」
「ごめん、ザック。大丈夫」
声をかければ視線の先、背後の足元の方から少女のか細い声が聞こえて、その人が転んだのだと知った。
彼が何を言うよりも先に「大丈夫」と念を押した少女――レイチェルは、泥濘に足をとられながらふらりと立ち上がる。その様に苛立ちを覚えて、ザックは舌打ちした。
「お前の『大丈夫』は信用ならねぇって、何度言やわかんだよ」
「でも、今は大丈夫じゃないなんて言ってる場合じゃない」
「そうやって無理して死にかけてりゃ世話ねぇっつってんだ」
彼が吠えるように語気を荒らげると、少女は反論の言葉を呑み込んだ。
ザックがレイチェルと再会して数日。彼女の居た施設からレイチェルを連れ去る形で逃亡し、ろくに飲まず食わずのまま走り続けたふたりの体力は、振り絞るほども残っていないのが現状だ。
いい加減、どこかで身体を休めなくては。人並外れた体力と免疫力を持つザックでさえそう思っていた矢先の出来事であったから、レイチェルの足がもつれたのも仕方のないことだろう。
彼女が歩くたびに、ぺちゃぺちゃと力ない足音が響く。彼に追い付くまでに逡巡した少女は、短い呼気を撒き散らしながら呟いた。
「多分、正規の山道まで降りれば、山小屋がある。……人に遭遇する確率は上がるけど」
それは、一刻も早く遠くへ行かなければと逸る彼女のせめてもの妥協点だった。
「小屋を探せばいいんだな? なら行くぞ。おら、掴まれ」
言うが早いか、ザックはレイチェルの泥だらけの手を取って再び足を踏み出した。先ほどまで走っていた歩調は速度を落とした歩みに変わり、峠の緩い勾配を下って行く。
弱々しい歩みに反してしっかりと握り返された細い手は、包帯越しに彼女の命の力強さを伝えた。
× × ×
一時間か、二時間か、或いはそれ以上のあいだ山の中を彷徨って、やっと見つけた山小屋は、今にも崩れそうな古びた無人小屋だった。
お尋ね者ふたりというこの状況下においては、ある意味幸運だっただろう。水や食料は無いが、人に見つかる危険性はその分低くなる。
倒れるように転がり込んだ小屋の中は、小さな木台と棚のようなものがあるだけの殺風景な空間だった。
雨に奪われた体温を補おうとするように、レイチェルが這いずりながら小屋の隅に身を寄せる。それを目の端に捉えてドアを閉めたところで、ザックはずるずると壁に凭れるように踞った。
「ザック……!?」
「うるせー、窓から逃げる時に撃たれた傷が痛むだけだ。いちいち騒ぐな」
握っていた鎌が滑り落ち、重い叫びを上げて床に転がる。ずっと張り詰めていた気が、一応の安全地帯に逃げ込んだことで緩んだせいだった。
空っぽになった片手で、ザックは脇腹を押さえる。レイチェルの居た施設の窓から二人で飛び降りた瞬間、警察の発砲した銃弾が掠めたのだ。
致命傷になるほどの場所ではないものの、繁吹く程度には出血し、それなりの痛みを彼に与えた。それでも逃げる足を止めなかったのは、今度こそ約束を違えない為だ。
「ザックこそ、無茶しないで。……ごめんね、あの時みたいに縫ってあげられればいいんだけど、もう、針も糸も持ってないから」
元は白かったワンピースの裾をぎゅっと握って、レイチェルが項垂れた。その額を、アイザックは石のように重い腕を持ち上げて小突く。
「バカだろ、しょーもねぇことうじうじ謝ってんじゃねぇ。んなことより、少しでも寝てちったぁ体力取り戻せよ。いつまでもここに隠れてるワケにゃいかねぇんだからよ」
自分たちは顔を突き合わせれば何かしらから逃げているな、と、彼が乾いた笑みを浮かべた時だ。
「だったら、ザック。ここで誓いを果たそう」
――私を殺して。
幾月も前に、散々聞かされた彼女の言葉が狭い室内に染み入った。
ハ、と乾いた息を吐き出したザックは、笑みを引っ込めて真剣な双眸をレイチェルへ向ける。
彼女は、笑っていた。記憶の中のどれよりも、確かに人間らしい表情で。
けれどまだ――まだ、足りない。その瞳があまりに穏やかに笑うので、
「今はその時じゃねぇよ」
躊躇いもなく彼は断じた。
「どうして……! だって私が居なければ、ザックはもっと身軽に……」
「レイ」
見る間に絶望へ染まっていく少女の表情。今にも取り乱しそうな彼女の焦燥を遮って、ザックは不敵な笑みを口元に浮かべる。
「お前の笑顔ってのは、そんなもんじゃねぇだろ?」
彼は、見たい、と思ってしまったのだ。もっと深くから、沸き上がるような彼女の“幸福な笑顔”を。
その時こそ、きっと誓いを果たせる最高のタイミングだとも。
「わぁったらさっさと休め。安心しろ。俺は逃げも隠れもしねぇし、約束も破らねぇよ。知ってんだろ? 嘘は嫌いなんだ」
「ん、うん」
渋るようにか、レイチェルの返事には多少の惑いがあった。疑いというよりも、彼の意図を考えあぐねているようだ。
それでも彼の真っ直ぐと口にした「約束は破らない」という誓いに、彼女もいくらか気が抜けたようだった。
「ったく、また変なツラしやがってよぉ」
「ザックには言われたくな……っくしゅ」
壁に身を預けた少女の肩が、寒さを思い出したようにぶるりと震える。髪も服も濡れそぼったままなのだから無理もない。
加えて、建物の二階から飛び降りたレイチェルの裸足は泥と切り傷から滲む血にまみれていた。大人しく目を閉じて寝息を立て始めた少女の爪先に触れると、氷とまごうほどに冷えきっている。いくら冬を越したとは言え、まだ春先の夜は寒い。
ザックはいくらか迷った後で、自分の着ていたパーカーを脱ぐと、それを絞ってできる限り水気を払ってからレイチェルの肩に掛けた。
(弱っちぃな)
規則的な呼吸を繰り返す少女を見つめて、彼は前にも抱いた感慨を反芻する。
痛みにも、寒さにも、飢えにも、恐れにも、一般的な人間と同じか、それ以上に弱い、一見するとただの少女だ。これが同じ殺人鬼だというのだから、世の中なにがあるかわからないものである。
(一体どっからあんな根性が出てくんだか)
思い出すのはあの日、地下から地上を目指したビルの、ほんの出口付近の大階段でのこと。
炎に包まれた瓦礫の中で、足が竦んで動けなくなったザックを奮い立たせるように、行く手を阻む鉄骨を必死に壊そうと足掻いた彼女の背中。それが頭に焼き付いて、今も尚はなれない。
確かにザックは、あの背中に衝き動かされて、彼女を地上まで抱え走ったのだ。
この、まだ幼い存在を手に掛けて壊すことに臆したわけじゃない。けれど今、この場でレイチェルを殺さなかったのは――。
(ほんのただの、気まぐれだ)
今は閉ざされた瞼の裏に、まだザックの知らない“いい表情”が隠されている。そんな気がして――それを見たいと思って――たまらなくなった。
彼が彼であるゆえに。己の望みに忠実な、至極ザックらしい理由だ。
彼女が身動ぎもせずに眠りに落ちるのを見届けて、ザックも深く息を吐き出す。
微かな肌寒さを、彼女と肩を寄せあうことで凌いで、仄かな温もりがその隙間に生まれる頃。
彼もまた、束の間のささやかな眠りに落ちた。
end
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