ああ憂鬱だ。
俺の背中には憂鬱が住んでいる。
放課後、下校する生徒で騒がしい昇降口。
その普段どおりの風景のなか、唯一桃色に染まった空間があった。
紺の正統派セーラー。
ささやかに膨らんだ胸元にひらめくスカーフ。
顔を林檎のように赤く染め、恥じらいに濡れたその瞳。
「あのっ……好きです!」
「えっ」
「って伝えてもらえませんか、お兄さんに!」
俺に向けてまっすぐ差し出されたまっしろな封筒。
それを配達するのが俺、新垣シユミの役目である。
「わかりました」
「ありがとう!きゃああ、渡しちゃった……っ」
とんでもなく浮かれた叫びをあげて走り去っていく少女の背中とラブレターを見やって、深い溜め息をつく。
(ああ、憂鬱だ……)
「ゆーびんやさんっ、今日もお疲れさまですう!」
「せっかく手紙を書いたのにどうして自分で渡さないんだろう?もったいない」
教室に戻ると、ゲラゲラ笑って敬礼するジローさんと、いかにも不可解ですと眉を寄せるイッサに迎えられて苦笑する。
郵便専用に用意したファイルのなかには、すでに3枚もラブレターが入っていた。
「断らないの?」
イッサが手元のスマホに高速で指先を滑らせながらぽつりと呟く。
聞こえるか聞こえないかくらいの声量がイッサの普通。
ジローさんとイッサ。
クラスメイトであり、俺の数少ない友達といえる仲間。
ジローさんは妖精のように小さくて丸眼鏡で地味でもさい。
イッサは縦にひょろ長くていつも眠たそうで地味でもさい。
そして俺は天パで普通で地味でもさい。
容姿の地味さも冴えない雰囲気も内向的な趣味もすべてが似たり寄ったりで、俺たちの間にはおなじ空気が充満している。
「んー、断ってた時期もあったし、実際断れないわけではないんだけど。でもあの勇気振り絞った姿見てたらね、自分でもよくわかんない使命感みたいなのが湧いてきたっていうか……」
「ま、可哀相だけどある意味仕方がない部分もあるよな、シユミの場合。兄貴があの人だもん」
「シユミ!」
そのとき、耳障りのいい柔らかなテノールが俺の名を高らかに呼んだ。
それが誰かを認識した途端、ずしっと俺の背中の憂鬱が子泣きじじいがごとく重量を増した。
「ゼンニイ」
俺は憂鬱に潰されそうになりながらゆっくりと振り返り目を細める。
いつものことながら眩しい。
ゼンニイの周りにだけ光の粉が舞っているみたいだ。
イケメンパウダーは存在する!
もちろん幻覚なわけだが、確認したところ大抵の人間には新垣ゼンヤは発光体に見えるらしい。
その危険極まりない容姿に加えて、秀才でスポーツ万能で品行方正でエトセトラ。
新垣ゼンヤは不可能を知らない。
才能と名のつくものすべてを詰めこみ、こねて固めて美しく形成したのが新垣ゼンヤなのだ。
ファンに言わせると、彼の存在は人類に向けた神からのプレゼントらしい。
「いま帰りか?」
「うん。ゼンニイも?」
「いや俺は生徒会の仕事があるから今日は遅くなる。夕飯はナルと食べるって母さんに伝えてくれる?」
「わかった」
他愛ない会話をしているだけなのに、周囲の視線が痛い。
そりゃ本来俺みたいな地味で冴えない一般人が容易く会話していいような相手じゃない。
でも、こればかりは俺にだってどうしようもないのだ。
だって俺と新垣ゼンヤは、義理とはいえ本当の兄弟なんだから。
『しゆみ、今日からお父さんとお兄ちゃんができるよ!』
小学5年生のある日。
突然できた、お父さんとお兄ちゃん。
驚きとか戸惑いだとかは一切なくて、俺はただただ嬉しかった。
当時の友達の影響で、クリスマスプレゼントのリクエストにお兄ちゃんと書くくらい兄がほしかったのだ。
もし両親がなかよく健在だったならば俺の願いは絶対に叶わなかったが、母がシングルマザーだったことが幸いし、俺は念願のお兄ちゃんを手に入れた。
しかも並のお兄ちゃんではない。
神様がありったけの愛を注ぎながら丹精こめてつくりあげた、スーパーでミラクルなお兄ちゃんだった。
「おかえりー」
「あれ?今日休みだっけ?」
「そうだよ。それでね、折角カツヤさんも休みだから、夜は外出するかもしれない」
母、シホは看護師をしており、ゼンニイの父、カツヤさんは母さんの勤めている病院に緊急搬送されてきた患者だった。
バイクに撥ねられて骨折した骨を癒やすうちに、母さんにも癒されたみたいで、カツヤさんから猛烈に口説き落としたんだって。
加えてカツヤさんもバツイチ子持ちで意気投合。
あっというまに結婚に至った。
そんなふたりは再婚から6年経った今でも10代の恋人のようにラブラブである。
「ね、こっちのピンクと水色、どっちがいいかな」
「ピンク。あとこれ履けば?あ、そういえばゼンニイが今日は夕飯外で食べてくるって」
「え?そうなの?そうするとシユミがひとりご飯になっちゃうね……大丈夫?」
大丈夫大丈夫と返しながら母さんに白いスカートを渡す。
こうやって母さんのデート服を選んであげるのもよくあることだ。
歳の離れた姉でも出来た気分である。
幸せそうな母を見てるとなんだか温かい気持ちになると同時に、絶対あのことを知られるわけにいかないと思う。
あのことだけは絶対に。
「いってらっしゃい。楽しんできてよ」
「ありがとう。なにか困ったことがあればすぐに連絡して」
「うん」
玄関で母を見送ったあと、俺は何度か深呼吸して階段へと足を向けた。
3階には俺たち兄弟それぞれの部屋がある。
今日は両親もいないし、ゼンニイも帰りが遅い。
久しぶりに確認できる絶好の機会なのだ。
にいの部屋の前で立ち止まる。
そして意を決してドアノブをひねった。
整理整頓された部屋。
ゼンニイの好きな青系でまとめられた落ち着いた室内。
一見簡素に見えるシックな家具はおしゃれだし、脱ぎ捨てられた衣服もだしっぱなしの本もない。
ゼンニイは綺麗好きで几帳面だから、いつも自分の部屋の掃除は自分でやってきた。
だから誰も知らない。
俺以外、誰も気がついていないのだ。
俺はちらりとベッドに目を向けた。
ベッドの下の隙間に収納ケースが入っている。
それを引き出してふたを開け、なかを覗きこむ。
なかにはたくさんのアルバム。
ここだけではなく、あのクローゼットのなかにもおなじようなアルバムが山ほど隠されている。
(……ああ)
予想どおりのものが目につき、背中の憂鬱がまたいちだんと重量を増した。
食い込むようにのしかかる重圧にたえながら、俺は震える手でそのなかの1冊を手にとった。
「……まだ、やめてない」
アルバムのなかの多種多様な写真たち。
写真の横に律儀に書き込まれた日付けはごく最近のものだった。
びっしりと納められた写真は、場所や時間は違えどもひとつだけ共通しているところがある。
それは、写真の焦点がすべてひとりの人物にあてられているということ。
みごとに俺だらけ。
なにを隠そう、この俺だ。
家族なわけだし、弟の写真を持ってるのはおかしくない。
だけどそれは写真のなかの俺がカメラ目線でピースでもしているときに限った話だ。
残念ながら写真に写るすべての俺はあさっての方向を向き、カメラを向けられていることに気付きもしていない。
部屋で寛ぐ姿、登校中の姿。
ジローさんたちと談笑する姿。
体育のときのジャージ姿。
どうやって撮ったんだと首をかしげたくなるあらゆる俺の姿が激写されているが、確実なのはそれらがまるっと無断で行われているということ。
つまり、隠し撮りである。
《4月10日、ソファでうたた寝する俺のかわいいシユミ》
たまたまポケットに収められていなかった写真を手にとると、裏にそう書き込まれていた。
表にはリビングのソファのうえですやすやと無防備に寝入る俺の姿。
俺のかわいいシユミ。
ゼンニイのお手本のように歪みひとつなく整った字を見た瞬間、もはやたえられなかった。
とうとう重い重い憂鬱に押し潰されて、俺はその場に前のめりに倒れ込んだ。
(もうだめだ……まじもう無理です勘弁してください!)
10歳のとき、ある日突然出来たスーパーミラクル素敵なお兄ちゃん。
神の創りたもう最高傑作と名高い新垣ゼンヤ。
俺だってはじめは嬉しかった。
俺の前でのゼンニイはかっこよくて頭がよくて運動神経抜群でやさしくて穏やかで、まさに理想の兄だった。
でもそれが、その完璧という分厚い表皮を1枚剥がした本当のゼンニイを知ってしまった中学3年生の冬。
神様が人類に与えたプレゼントは。
俺のストーカーだった。
***
兄の奇行に気付いてしまったのは、中3の冬。
俺とゼンニイは仲のいい兄弟だったけれど、了解もなしにお互いの部屋に入ったことは一度もなかった。
だからあの日ゼンニイの留守中に部屋に忍び込んだのは初めてのことで。
いくら兄弟といえども他人のプライバシーに触れるのは気が引けたが、どうしてもそうしなきゃいけない理由が俺にはあった。
ことの発端はその日の前日に遡る。
中学生のときにはすでに俺の郵便屋の仕事は始まっていて、学校で預かった手紙やプレゼントをゼンニイに渡していた。
しかしある日、俺が誠心誠意ラブを込めて書きあげた同じクラスのユイカちゃん宛てのラブレターを、なんてことかゼンニイに渡す手紙のなかに入れてしまうという大失態を犯した。
ゼンニイに贈られるラブレターはいかんせん数が多い。
だからきっとまだ読まれてはないと思うけれど、俺の超傑作ポエム入りのラブレターをゼンニイに読まれでもしたら……恥ずかしくて失血死する。
なんとしてもゼンニイに見られる前に取り返すため、俺は学校を午前中に早退してゼンニイの部屋に忍び込んだというわけだった。
(……どこだろ、きっとどっかにまとめて保管してるはず)
ゼンニイはとてもやさしくて聖人君主のような慈愛に満ちた人なので、もらった手紙をきっと無下に捨てたりはしない。
そう思って、触ったことがばれないように慎重に引き出しや戸棚をあけた。
しかし机のなかには教科書やノートくらいしか見つからない。
そこで俺はクローゼットに目をつけた。
ゆっくりとひらいてみると、なかも秩序正しく整頓されており、四角い箱がいくつか積み重なっていた。
そのうちのひとつを取り出すと結構重みがあり、ひょっとして手紙やプレゼントが入っているのでは?と期待してその箱のふたをひらいた。
しかし、開けてはいけなかった。
それは決して触れてはいけないパンドラの箱だった。
いま思い出しても背筋がスッと寒くなる。
アルバムに何百枚と貼られた俺、俺、俺、俺。
俺の日々の動向が事細かに書かれた《しゆみ日記》。
袋に入れられた俺の使い捨てた年月日入りの割り箸。
歯ブラシ、ティッシュ、小学生のころの縦笛。
それ以上思い出そうとすると記憶が規制をかけてくる。
「ゼンヤはまた全国模試1位だったんだって?すごいね!」
「頑張ったなぁ」
「そんなこと……今回はたまたまやまがあたったから」
家族で和気藹々と食卓を囲みながら両親に謙虚に微笑むこの爽やかな好青年が、裏で義理の弟の髪の毛を収集しているなんて一体誰が想像出来るだろうか?
中学3年の冬、あの箱をあけさえしなければ俺だって死ぬまで気付かなかった。
気付きたくなかった。
知らなければ俺は最高の兄を持つ幸福な弟でいられたのに。
いまのこの家族団欒に心から笑えたのに。
背中に憂鬱なんて住みつかなかったのに。
「シユミ箸止まってるよ、あんまり腹減ってないの?」
「えっ!?あー、卵かけごはんにしようかどうか悩んでて……ゼンニイも卵かける?」
「うん。頂戴」
ゼンニイに指摘されて慌てて笑顔を取り繕って、卵をとりに席を立った。
危ない危ない。
ゼンニイのストーキングに俺が気付いているなんてばれでもしたら一大事だ。
怪しまれるような不審な行動は絶対しちゃいけない。
努めて普段どおりに振る舞わなくてはならない。
ゼンニイの秘密を知ってしまったとき、そう決めたのだ。
***
知ってしまった当初は、とにかく動揺して1週間寝こんだ。
そのくらいショックだった。
(どうすればいいんだろ……)
熱に浮かされ意識朦朧のなか必死に考えたが、俺にはどうすることも出来ないという結論にいたった。
だって相手は神の申し子新垣ゼンヤだ。
まず誰に話したところで信じてもらえるとも思えない。
信じてくれたとしても、それでどうなる?
もし両親に言ったら、母さんもカツヤさんも悲しむだろう。
自慢の息子の裏の顔にショックを受けて、親子の絆がずたずたになるかもしれない。
最悪、俺に気をつかって別居……夫婦仲に亀裂が入って離婚なんてことにもなりかねない。
そこまで悪化しなくとも、二度とこんな温かな団欒は迎えられないだろう。
それは絶対に避けたい。
避けなきゃならない。
母さんがようやくつかんだ幸せ。
カツヤさんも俺を実の子のようにかわいがってくれる素敵な父さんだ。
両親を傷付けたくない。
だからゼンニイに直接対決を挑むのもなしだ。
それによってゼンニイと俺の仲が気まずくなったら、両親に心配をかけてしまう。
しかも自分の奇行がばれてしまった恥ずかしさや絶望で、ゼンニイが自暴自棄になって盗んだバイクで走りだすような人になったら困る。
ゼンニイにはこれからも完全無欠な新垣ゼンヤでいてほしい。
(黙っていよう)
ゼンニイの奇行にはまったく気付いてないふりをして、素知らぬ顔でいい弟を演じよう。
ことを荒立てたって何も得はない。
別に俺の知らないところでゼンニイがこそこそなにかをしていても、気持ち悪いだけで実害はない。
きっとゼンニイもヘチマの観察日記でもつけている気分で俺の観察をしているだけだ。
ほうっておけばそのうち飽きる。
それに大学生くらいになればゼンニイも俺も一人暮らしをはじめるかもしれないし、ゼンニイくらいのモテモテ大王であれば結婚も早そうだし。
あと数年の我慢。
大丈夫、気付かないふりなんて簡単だ。
そう思っていた。
***
「おはよ。シユミくん」
「お、おはよう!」
着席するなり隣の席のユイカちゃんが輝くような笑顔で挨拶してくる。
ユイカちゃんは中学1年のときからずっとおなじクラスで、初めて出来た女の子の友達だ。
軽やかなショートボブに、黒目がちの瞳を覆う細いフレームの眼鏡。
派手な容姿ではないが、俺には世界で一番かわいく見える女の子。
彼女への片想いは3年目に突入した。
3年ものあいだずっと告白出来なかったのには理由がある。
「あ、この前のこと、一応訊いてみたんだ。それでえっと、その日はバスケ部のヘルプに行く約束をしてるみたいで……」
「えっ、訊いてくれたんだ!ありがと。ううん、そっか……残念だな。でも予定があるなら仕方ないね」
俺の片想いが3年のように、ユイカちゃんの片想いも3年。
相手は幸か不幸か、神様のお気に入り新垣ゼンヤさま。
そんな一途なユイカちゃんを見てたら、あんなポエム入りのラブレターは渡せなかった。
「いろいろ手伝わせちゃってごめんね。おかげですこしすっきりしたよ」
「お、俺が勝手にユイカちゃんの力になりたいんだ」
何年好きでいたとしても、きっと俺の気持ちが報われることはないだろう。
だけど、だからといってユイカちゃんの不幸を願うことはできなかった。
「シユミくん、どうしてそこまで言ってくれるの?それに、お、お兄さんのことだし……私、本当は凄く迷惑かけてるんじゃないかって。シユミくんのやさしさにあまえて、自分のことばっかり……」
「え!?そんなことない!そんなことは絶対にないからっ!俺はただユイカちゃんの役に立ちたいなって、そう思ってるだけで……本当だよ」
そこまで言い切って、俺は無意識にユイカちゃんとの距離を縮めてしまっていたことに気がついて慌てて離れた。
ユイカちゃんは俺のあまりの力説に気圧されたのかキョトンとした表情で固まっている。
そしてすぐに我にかえると、小さく微笑んでありがとうと言った。
大好きな笑顔。
やっぱり告白はしなくてよかったと安堵しながら俺も笑った。
「だからさ、遠慮なんかしないで俺を頼って。ほかになにかゼンニイについて気になることとかはある?」
「ええ……?そうだなぁ、ええと。あ、そういえばいまさらだけど、ゼンヤ先輩って気になってる人とか好きな人とかっているのかな」
(好きな人?ゼンニイの気になってるひと?)
俺はまっさきにゼンニイのストーカー行為を思い出してしまった。
俺の使用済みをこそこそと拾い集めたり、俺の日々の姿をカメラにおさめて日記をつけるなどの異常行動。
いや、でもストーキングイコール恋愛感情とは必ずしも結びつかないはずである。
ゼンニイは昔から凝り性なところがあって、一度はじめたことはとことんつき詰めないと気がすまないたちなのだ。
だからきっと俺へのストーキングもちょっと弟の生態が気になってなんとはなしにやりはじめたら収集家としての血が滾ってしまったに違いない。
人間観察や収集癖といったゼンニイの趣味が悪いほうにこじれてあんな変態のようなありさまになっただけで、別に俺が好きだからつけまわしてるわけじゃないのだ。
現に俺をストーキングしながら何人も彼女を取っ替え引っ替えしている。
最近の話だと半年前くらいから佐保子さんという6つ歳上の大手企業に勤めるOLさんと付き合っていたが、2ヶ月ほどまえ別れてしまった。
過去の付き合いを見ても似たり寄ったりで、ゼンニイの恋愛はどうやらあまり長続きしないようである。
(……改めて考えるとつくづく疑問だが、あの人なんだって俺なんかをストーキングしてんだろ?)
よりにもよってこの俺。
普通を具現化して、天パと地味顔を加えたら出来上がる新垣シユミ。
ゼンニイを惹きつける魅力など皆無といって過言ではないはず。
しかも男だ。
妹萌えというジャンルもあるから俺が妹だったならまだわかるけれど、残念ながら弟。
俺をストーキングしたところで、なにひとつ面白いこともなければ目覚ましい発見もないと思うんだけど。
(ゼンニイひますぎてつらいの?それとも生まれてこのかたずっと完璧をとおしてきたことにいい加減ストレスが溜まって、カッとなってやったみたいないまどきの若者的理由……?)
「いまは多分付き合ってるひととかはいないと思うけど……それとなく今夜探りを入れてみるよ」
「ありがとう」
再びの笑顔に胸を高鳴らせながら、俺はすこし緊張していた。
今夜ゼンニイに問う内容は、俺にとっても重要な意味を持っている気がしたからだ。
それに、ここ最近は俺が避けていたのでゼンニイと長く話をする機会もなかった。
久しぶりにする兄弟の会話が恋愛話なのは気恥ずかしいが、もしかするとそこからまた昔のような関係に戻れるのではないかという淡い期待も沸いてくる。
俺はとても久しぶりにうきうきとした心地で帰宅への道を急いだ。
***
「シユミ、お皿とって」
「これでいい?」
「ありがとう」
ゼンニイに丸い大きめの皿を2枚わたしてから、俺は味噌汁をよそるためにお碗などを用意する。
今日もまた両親はデートの日だった。
ふたりとも多忙だから、休日がかぶると必ずデートに出かけていく。
新婚気分を忘れないというより付き合いたてのカップルみたいな初々しさ。
夫婦円満。
毎日いきいきと楽しげな母さんの顔を見られるのはなによりだが、両親がデートにいくたびに夕飯がゼンニイとふたりきりになるのがつらい。
いつも以上に普段どおりを意識しなきゃならない。
「はい出来た。食べようか」
「わーうまそう!ありがとゼンニイ」
両親が不在のときはいつもゼンニイが夕飯をつくってくれる。
ゼンニイは初めて包丁を持ったそのときから長年修行を積んだ料理人のような料理スキルを発揮した。
あのときは本気でゼンニイは宇宙人なんじゃないかと思った。
「ほらちゃんとピーマン食べろ。大きくなれないよ」
「ちょっと、俺もう16だよ?子供扱いしすぎだって」
「16歳なんてまだ子供だよ」
「いやいや!ひとつしか違わないじゃんっ」
こうやって他愛ない会話をして穏やかに笑いあったりなどしていると、つい忘れそうになる。
いま向かい合っているこの人が、俺のストーカーだということを。
味噌汁を飲みながら、こっそりとゼンニイを盗み見る。
相変わらずどこからどう見ても麗しい顔面だ。
箸の使い方も食べ方も姿勢もすべてが洗練されていて、思わず見惚れそうになる。
ゼンニイがストーカーだと知ったとき、にわかには信じられなかった。
誰かに脅迫されて泣く泣くやらされているんじゃないかとさえ思った。
しかし、あるときゼンニイが自らの意志でストーキングしていると確信する出来事があったのだ。
ある日の晩、俺は睡眠に対しては絶対的な自信を持っていて、一度眠るとなにがあっても起きない。
必ず日付けが変わると同時に布団にもぐり、3秒後には熟睡している。
だけどその日はなぜか夜中に目が覚めた。
怖い夢を見たわけでも尿意があったわけでもない。
ふっと脳が覚醒して、うっすらと目を開けかけた。
そのときカーテンの隙間から注ぐわずかな月明かりに照らされて、ゼンニイが俺を見下ろしていたのだ。
俺はヒッと息をのんで驚くほどナチュラルな演技で寝返りをうち、ゼンニイに背を向けた。
悲鳴をあげたり飛び起きたりしなかった自分を心から称賛したい。
そしてそのまま懸命に寝たふりをつづけたが、月明かりしか頼りがない暗闇のなかでゼンニイが俺が目覚めていたことに気付いたかはわからない。
だがそのときの俺はパジャマがぐっしょり濡れるほどの冷や汗を掻いた。
だって、だってゼンニイは笑っていたのだ。
健やかに眠る俺を見て笑っていた。
その笑みは幼子を見守る父兄のような温かなものではなく、得体の知れない薄気味悪さがあった。
そのとき確信した。
この人は正真正銘俺のストーカーなんだって。
「シユミ、うまい?」
「うん、このムニエルめっちゃおいしい」
「隠し味きかせたからな。そういや明日は母さん夜勤だっけ、なにが食べたい?」
「明日は和食がいいなぁ」
あんな恐怖体験をしたあともこんなふうにゼンニイとごく普通に接することが出来る俺……なんてたくましい。
はじめのうちは気を張って背後を気にしたり夜中も緊張して眠りが浅かったりしたのだが、だんだんと疲れるし眠いしめんどくさいしと感じるようになって、いまじゃすっかり気を抜いている。
だってゼンニイとは一緒に住んでるわけで、そんな朝から晩まで気など張っていられない。
まあ別に夜中に俺を見つめていようが隠れて写真を撮りまくっていようが俺が気付かない限りたいしたダメージはない。
ゼンニイは徹底的に隠密なストーキングをしてくれるので、俺からしたら毎日が普段どおり。
だから最近は気持ち悪いなーとは思いつつも、あまり気にしないようにしていた。
慣れとは恐ろしいものだ。
「あ、そうだ」
「ん?」
「いまって好きなひととかいる?」
「……なに突然」
ゼンニイは一瞬ぴたりと箸をとめて俺をちらりと一瞥したが、それからまた普通の顔で食事を再開した。
なんともないふうを装って口にしてみたが、やはりこういう話題は無性に照れくさい気分になってしまう。
「いや、あの、特に深い意味はないんだけど、佐保子さんと別れてから結構経つから、まだ好きなひとはできないのかなって……」
「シユミ」
そのとき、ゼンニイがしばし考えるように黙りこくってからおもむろに箸を置いた。
そして俺に真剣な眼差しを向ける。
なにか重大な告白でもはじまりそうな雰囲気を感じとり、上下に振っていたドレッシングを机に置いた。
俺もついついゼンニイにつられて姿勢をただす。
そして。
「いるよ。好きなひと」
「……そ、そっか!そうなんだ」
あまりに真剣な顔でゼンニイが切りだしたその告白に、驚くよりも先に安堵の息が漏れた。
ふたりきりのいま、そんな顔して白状されることと言ったら『俺じつはおまえのストーカーなんだ』くらいしかないと思ってちびりそうになっていた。
(あーよかった……!まったくびびらせないでくれゼンニイ、好きなひとがいるくらいでなにをそんな……って好きなひとぉ!?)
「え、ゼンニイ好きなひといんの!?」
「うん。いままでいろんな人と付き合ってそのひとのこと忘れようと努力したけど無理だった」
照れくさそうに目を伏せるゼンニイ。
(ゼンニイに、好きなひと)
ふわりと脳裏にユイカちゃんの笑顔が浮かんでくる。
いやいや待てよ俺、まだ期待を持つには早すぎる。
もうすこし深く情報を探って確信を得てからじゃないと……!
まんがいちあやふやな情報を渡してユイカちゃんを悲しませたら俺は死んでも死に切れない。
それにしても、と思う。
(これは驚きの事態だぞ……いまの話から察するに、これはゼンニイの片想いっぽくないか?)
あの、指先をちょいちょい軽く動かして招き寄せるだけでどんな女の子も我を忘れて飛びついてくるゼンニイが……ゼンニイだったら全財産を捧げても構わないと億万長者からナンパされたゼンニイがまるで普通のひとみたいに。
「か、片想いなの…?」
「うん、残念ながら全然振り向いてくれそうにないんだ」
(そ、そんなばかな!?あるのかそんなことっ?)
一部のひとには神様の贈りものとすら言わしめたゼンニイが片想い?
「どんなひと?」
「んー…詳しくは言えないけど、とってもとってもかわいいひと、かな」
「へ、へえ」
いままでかずかずの美女と浮名を流したゼンニイがとってもとってもかわいいと評するほどの相手。
間違いなく美少女に違いない!
「シユミ、こんなことおまえに訊くのは恥ずかしいけど、俺どうしたらいいんだろう。最近想い続けているだけなのがくるしくてたまらないんだ」
「ゼンニイ……」
こんふうに眉を下げ悄然と肩を落とすゼンニイなんていままで見たことがなかった。
悩みなんてどんな微小なものすらないと思っていたのに、まさか普通のひとみたいに恋に悩んでいるなんて。
俺は当初の目的も忘れて真剣にゼンニイの恋路について考えることにした。
「告白はしたの?」
「……まだ。勇気でなくてさ」
「しなよ、してみなよ告白!」
まさかゼンニイがそんな歳相応の恥じらいと臆病な気持ちを持っていたなんて衝撃だけど、しかしいまので確信した。
多分ゼンニイの想いびとは、ゼンニイの気持ちに気付いていない。
「きっと気持ちに気付いてないだけなんだよ。すくなくとも好意を寄せられて怒るひとなんか絶対いない!それに、ゼンニイは俺の自慢の兄貴だよ!もっと自信を持って!それともなんか告白できない理由でもあるの?」
「……いや」
「ならきっとうまくいく!ゼンニイが攻めたら一発だよ、俺が保障する!ゼンニイほどかっこいいひとなんて俺知らないもん!」
思わず立ち上がって、拳を握り締めて力説する。
だからゼンニイ、告白しようよ。
俺みたいに好きなひとに好きなひとがいて告白できないならともかく、自信がなくて告白できないなんてもったいないよ!
それで、その長年想いつづけた彼女と晴れて結ばれて幸せになるんだ。
「応援してくれるの?」
「もちろん。いくらでも応援する。俺に出来ることならなんだって協力する!」
ユイカちゃんに言ったのとは違う気持ちから出た言葉だけど、ゼンニイは大切な家族なのだ。
家族の幸せを願わない人間がどこにいる!
ゼンニイは俺をじっと見つめて、形のいい双眸を柔らかく細めた。
そして心から嬉しそうに笑った。
「ありがとう。俺頑張ってみるよ、攻めてみる」
「うん、がんばれゼンニイ!」
俺は浮かれていた。
ゼンニイに好きな人がいたと知って、俺の憂鬱の解決の糸口が見付かった気がして。
出口のない暗闇に、ようやくひとすじの光明が差しこむかもしれない。
その可能性に浮かれていた。
そのときだった。
ゼンニイが小さく、うっかり取り落としてしまったかのような声でぽつりと呟いたのは。
「……本当にかわいいなぁ、シユミは」
「え?」
「あー、ごめんな急にこんな話して。ごはんの続き食べよ」
「……うん」
「もう冷めちゃったかな」
「……うん」
(あ、あれ?ちょっと待て、待ってくれ)
どうしたんだろ、なんなんだこの掻きむしりたくなるような胸騒ぎは。
落ち着きをなくした鼓動は。
その不安の正体は、俺の記憶が速やかに検索して見つけだしてくれた。
俺はゼンニイの部屋にある大量のアルバムや日記を細部までじっくり読み込んだことはない。
ぱらぱらと目をとおすだけにとどめている。
なにが書いてあるのか気にはなるが、しかし怖い。
100パーセント怖いことが書いてある。
絶対そう。
だから極力見ないようにしていた。
でも、ついこのあいだ思わず読んでしまったことがあった。
《4月10日、ソファでうたた寝する俺のかわいいシユミ》
俺のかわいいシユミ……俺の。
『とってもとってもかわいいひと、かな』
ピッシャァァンと、脳天に落雷が落ちた。
本当に落ちた。
俺には見えた。
いや違う、絶対違う。
俺がいまうっかり見付けてしまった可能性は、ただの俺の妄想だ。
そんな恐ろしい展開、ホラー映画じゃあるまいしありえない。
あるわけがない。
(ゼンニイの好きな人って俺じゃないよな)
人生最大の過ちを犯したかもしれない。
***
「えっ、ほんと?ゼンヤ先輩、好きなひとがいたんだ」
翌日、早速昨夜得た情報を伝えると、ユイカちゃんは口を手で覆ったまま驚いた。
「ユイカちゃん、あの……」
「ふふ、あーあ、ゼンヤ先輩の好きな人かぁ。そういうひと初めてじゃない?」
「……そうかも」
謝罪を口に仕掛けた俺の言葉を遮って、ユイカちゃんは拗ねたような表情をつくってはにかんだ。
本当はすごく哀しんでるんだって、俺にもわかる。
それでも。
「どんなひとなのかなー」
「えっと、とってもとってもかわいいひとって言ってたよ」
「とってもとっても?きっとすっごい美人さんなんだろうねぇ」
「俺もそう思う。きっと美女とか美魔女とか、とりあえず美生物に決まってる」
なにそれ、とくすくす笑うすっかりいつもどおりのようなユイカちゃんの笑顔に釣られて、俺も笑顔で頷いた。
(どんなにつらくて報われなくても、それでも)
ユイカちゃんはゼンニイが好きだし、俺はユイカちゃんが好きなのだ。
***
「シユミ?」
「なにー」
ゼンニイの衝撃的な告白から数日後。
軽いノックのあと、扉がひらいた。
時刻はそろそろ明日に差し掛かるころで、こんな遅い時間にゼンニイが俺の部屋に訪ねてくるのは初めてのことだ。
「どしたの?」
「あー、そろそろ寝る?」
「うん。いまちょうど布団入ろうと思ってたところ」
もう歯磨きも終えてトイレも済まして寝る準備は万端だ。
基本的に今日が終わって明日になるころには眠りにつくのが習慣だった。
ゼンニイももう寝巻きのようだし、一体なんの用だろう。
「夜遅くに悪いな。ちょっと部屋の片付けしてたらこれ見付けてさ、シユミに見せたくて」
「それって」
ゼンニイが手に持っていたのは大判のアルバム。
最近アルバムにはろくな思い出がないが、そのアルバムはゼンニイご用達の例のあれではなくて、表紙に熊が描かれた年期の入った懐かしいものだった。
「わあ、それって子供のころのやつ?」
「そう。アルバムって全部倉庫に閉まってあるけど、1冊だけ俺の部屋に紛れてたんだよ」
ゼンニイを部屋に招き入れてから、ベッドに腰掛けて、ぱらぱらとページをめくる。
ゼンニイも椅子に座って上から覗き込んで、しばしふたりで思い出に浸った。
俺が10歳、ゼンニイが11歳のころ。
母さんがまとめたアルバムで、なかには俺とゼンニイの屈託ない笑顔であふれていた。
まだ出会ってまもない、でもゼンニイのことが大好きだったころ。
「懐かしー。これ。初めての家族旅行」
「覚えてる?このとき砂の城つくったよな」
覚えてる。
幼いころ、俺はゼンニイが大好きで背中を追い掛けてばかりいた。
数え切れないくらいふたりで遊んだ。
あの当時は血の繋がった兄弟よりも遥かに仲がよかったと思う。
ゼンニイとの思い出は全部がキラキラとひかり輝いて、すべてが特別だった。
忘れられるはずがない。
しばらくアルバムを見ながら昔話に花を咲かせていたが、ふと眠気を感じて時計を見ると1時をまわっていた。
「あっ、もう1時過ぎてるよ。ゼンニイ、そろそろ寝ない?」
普段ならとっくに寝ている時間だ。
思わず欠伸がでそうになって、口許を手で覆う。
ゼンニイも時計に目を向けてから、そうだな、と椅子から立ち上がった。
思えばこんなにリラックスした気持ちでゼンニイと長話をしたのは久しぶりだった。
中学高校と進級するにつれ昔ほどべったり甘えなくなったし、ゼンニイのあれを知って以来更に距離をとるようになって、最近はこういう機会もめっきり減っていた。
「アルバム見せてくれてありがと。楽しかった」
昔の、ゼンニイに全幅の信頼を寄せてあどけなく笑う自分を見て改めて思うことがあった。
確かにゼンニイはストーカーだけど、このひとが俺の兄貴だということはこれから先も変わらない。
俺たちはあのアルバムに収まりきらないくらいかず多くの思い出を共有してきたのだ。
あのころの楽しかった記憶に嘘偽りはない。
だからゼンニイがどんなに気持ち悪くても嫌いになったりしちゃいけない。
せっかく出来たたったふたりだけの兄弟なんだから。
「シユミ、あのさ」
「なに?」
これからは出来る限りまえみたいにゼンニイと仲良くしていこう、なんて新たな決意をしていたら、不意にゼンニイがドアノブに手を掛けたところで振り返った。
(まだなにかあるのかな?)
そのときだ。
俺の新たな決意は即刻揺らぐこととなる。
「一緒に寝ないか?」
「……ヘ?」
一緒に寝ないか?
えーと、一緒に?誰と誰が?
俺とゼンニイが?一緒に?
寝る……!?
ええええなに言ってんのこのひとぉ!?
「えええなんで!?なんで一緒に寝るの!?」
ショッキングすぎて普通だったら一瞬で理解できる言葉の解読に1分ほどかかって、ようやく理解するなりざあっと顔から血の気が引いた。
ちょっとなんかとんでもないこと言い始めたよこのひと!
「昔話してたら懐かしくなってさ。昔はよく一緒に寝ただろ?」
「そりゃ昔は寝たけど…っ、でも俺らもういい歳だし!高校生だしね!」
なにやら照れくさそうなゼンニイに真っ青な顔でぶんぶん手を振る。
ここは父さんの実家を再婚の際に新しく建て直した家で、幼いころからゼンニイも俺も一人部屋が与えられていた。
でもまだ小学生のころの俺は夜寂しくなるとゼンニイの部屋に訪ねていって一緒に寝てもらっていたのだ。
でも昔は昔いまはいま!!
「高校生でも構わないだろ。たまにはさ」
「構うよーさすがに!ベッドも俺らふたりじゃ狭いしっ」
「大丈夫だって。くっついて寝れば」
くっつくの!?
ていうかこんなに泡食って拒否しているのに、なんでこの人こんなグイグイくるの!?
いつもの空気をちゃんと読み分ける対人スキルに富んだゼンニイはどこにいった!!
「いや、ほんとにむ……」
「だめかな」
「うっ……」
ああああ出たあー!
ゼンニイの必殺技、悲しそうな顔!
極上のイケメンとして生まれたゼンニイに生まれたときから備わっている、攻撃と防御を兼ね備えた無敵の技。
こんな顔されたら誰もその意見に刃向かえない。
むしろその悲しみを取り除いてあげたいばかりにゼンニイの意見に全身全霊で賛同したくなる。
これを使われてしまったら、それを防ぐ術など知らない無力な俺は。
「わ……わかった……」
そう言うしかない。
「俺手前でいいよ、ゼンニイ奥で……!」
「俺が手前のほうがいいだろ。シユミ寝相悪いから奥いけって」
ベッドの手前にさえなれば、限界ギリギリまでゼンニイから離れられるし、あわよくば寝相のせいでうっかり落ちたことにして床に逃げることも可能だ。
そんな俺の計画はあっさり破られ、壁とゼンニイに挟まれる形になってしまった。
逃げ場がない。
「お……おやすみ……」
「おやすみ」
電気を消して、真っ暗な室内。
さすがにゼンニイのほうは向けなくて、壁側を向いて横になる。
ゼンニイはどんな体勢で寝ているのかわからないが、俺のほう向いてたらどうしよう。
そういえばさっきさりげなく俺の寝相が悪いからとか言ってたけど、それいつ情報?
子供のときの記憶?
それともここ何年か深夜に俺の部屋に忍び込んで寝顔を見つめながら発見したこと?
ね、眠れない。
眠れるわけがない!
いつもだったらこの時間にはとっくに夢のなかだが、まさかこんな状態で健やかに眠れるほど俺の神経は極太ではない。
なんでこんなことになっちゃったんだ?
俺のストーカーとおなじベッドのうえで、おなじ布団掛けて、寝返り打とうものなら肩がぶつかるくらいの近い距離で一緒に寝ようだなんて。
こわっ……怖い!
命の危機さえ感じる!
「シユミ。起きてるか?」
「ゴフッ……う、うん、起きてるよ」
たまに窓の外から車が走り抜ける微かな音が聞こえるくらいの静寂のなか、突然掛けられた声に思わず噎せてしまった。
でも悲鳴ではなくちゃんと言語で返事をした俺超偉い。
「ゼンニイ、寝ないの……?」
「いまさ、昔のこと思い出してたんだ」
「昔?」
「シユミが12歳くらいのころかな、俺が中学生で」
ゼンニイが眠ってくれたらすぐに起き上がって寝惚けたふりしてソファに移動するのに、なんて考えていたら、ゼンニイが徐に昔話を始めた。
暗闇のなか、ゼンニイの低くて甘い声は明るいときより鋭くなった聴覚に心地よく響く。
さっきまでゼンニイに怯えてたはずなのに、ゼンニイの声を聞くとついつい安心してしまうんだからおかしな話だ。
「シユミが母さんに怒られて家出したことあっただろ?」
よく覚えている。
怒られた理由は些細なことだったが、両頬に平手打ちを食らうほど母さんに叱られたのは初めてで、俺は家出を決意した。
ランドセルに服やお菓子やゲームを入れて、小銭がじゃらじゃら入った貯金箱片手に家を飛び出したのだ。
母さんに追い付かれない、遠い遠い場所までいってやる。
旅に出るんだ。
俺ならできる、やってやる!
そんな決意で必死に歩いて歩いて、最終的に迷子になった。
「夜になってもシユミが帰ってこないって、母さんが泣いて心配して。父さんが車で、俺が自転車で探しにいって」
歩いても歩いても、どこにも着かない。
どこまでいってもひとりで、真っ暗な空は厚い雲に覆われて月も星も飛行機の人工的な光さえ見えなくて。
いまにも切れそうな不気味な街灯しか俺を照らすものはなく、ひどく心細くて、このままひとりで死んじゃうのかなって思ったとき。
「俺がシユミを見付けたんだ。自転車ほうりだしてシユミに駆け寄ったら、シユミも俺に気づいて」
走った。
ゼンニイに向かって。
真っ暗ななか俺を照らし出してくれる、唯一の光だった。
タックルするように抱き着いて、わんわん泣いた。
12歳にもなって、赤ん坊並に泣いた。
俺を抱き締めかえすゼンニイの手は温かくてやさしくて。
「心配かけやがって、って叱ろうと思ってたのに『くるのが遅い!ばかゼンニイ!』って何故か怒られてさ」
「あああああほな子供でほんとごめん……っ」
とんだ恥ずかしい俺の武勇伝ににわかに頬がカッカしてきた。
いま思い出しても、小学6年生とは思えない知能指数だった。
でもあのとき、寂しくて怖くて孤独感で潰れそうななかで、きっとゼンニイが来てくれる、ゼンニイが必ず俺を迎えに来てくれるって確信していた。
根拠なんてなかったけれど、地球上のどこにいたってゼンニイなら俺を見付けてくれる。
ゼンニイが俺をひとりで死なすわけがないって、そう信じてた。
「あのとき、母さんでも父さんでもなく、俺がくるって信じてくれたことが嬉しかった」
「あー…ほら、あのときは世界で一番ゼンニイが好きだったから」
はははと笑って子供のころの気持ちをさらっと言ってみたら、ゼンニイからなにやら妙な沈黙。
……あれっ?
俺なんかおかしなこと言ったか?
昔、ゼンニイに懐いていたころにはゼンニイ大好きとかよく口に出して伝えていた。
いまさら驚くことじゃないと思うけど。
「……ぜんに、…っ!」
あまりに長い沈黙が恐ろしくて思わず振り返りそうになったとき。
不意に背後からゼンニイの腕がすっと伸びて、俺の体を抱き竦めた。
ぴたりと背中にゼンニイの体温が密着して、俺のうなじに顔を埋めているのか熱い息が掛かる。
(俺いまゼンニイに、抱きしめられてる……?)
理解した途端ゾッとして腕を外そうともがきかける。
そしたらそれを阻むかのように足が絡められた。
(ひぅー……)
ますます密着度が高まって、最早内心で弱々しい悲鳴をあげる。
初めて知ったのだが、人間って本物の恐怖に直面したとき、果敢に暴れ狂うなんて出来ない。
竦みあがった体はまな板のうえの鯉のようにただただ動けない。
足をすこしでも動かせばゼンニイの足先に触れてしまうし、壁とゼンニイに挟まれて前にも後ろにも身動き取れない。
ゼンニイの息づかいが真後ろから聞こえて、俺はもうイッツアパニックワールド。
ドッドッドッと鬼気迫る病的な鼓動の音がうるさすぎて、ゼンニイの鼓動も車の走り抜ける音もなにひとつ聞こえない。
「あのときもこうやって抱き締めたよな」
「ひっ、うん……!?」
「大きくなったな」
そうですそうですよ、俺もう16歳なんです!
こんなふうに抱き締められて無邪気に喜べる歳じゃないんです!
よこしまで性的ななにかを想像しちゃう歳頃なんですよ!!
「あのっあの、ゼンニイ……あ、暑くない!?離し」
「そっか?俺はこうやってくっついてると安心するよ」
ゼンニイは俺の体をさらに力強く抱き締めると、俺のうなじにちゅっと唇をあてた。
ゾワァーッと、そのマシュマロのような柔らかな感触に全身余すところなく鳥肌が立つ。
(ひっひぅー……!)
ナニコレナニコレナニコレ?
おかしくないか、これはもう兄弟の抱擁の域を軽く超えてないか!?
やっぱりストーカーなんかとおなじ布団に寝るのは危険すぎた。
実害ないしーなんて暢気に気を抜いてる場合じゃなかった。
どうしよう、やめてくれ気持ち悪いって強く拒否していいだろうか。
でもまんがいちゼンニイが幼子を相手にするような慈愛100%の気持ちでいたら?
勝手に貞操の危機を感じている俺が自意識過剰で恥ずかしいかんじにならない!?
「なあシユミ」
「なっ、なに!?」
「さっき昔は世界で一番俺が好きだったって言ってたけど……いまは?」
「……」
「いまは俺のこと、好き?」
駄目だ、もう駄目だ白目剥いてこのまま気絶したい。
でもいまこの状態で意識失ったりなんかしたら翌朝お婿に行けない体にされちゃう気がして怖い。
涙でそう、ほんと涙でそう。
この質問の意図は?
兄弟として、兄として慕ってくれているのかって訊いてるの?
「……好きだよ…ゼンニイを嫌いなわけないじゃん」
「そっか。俺もシユミが好きだよ」
「ありがと……」
ゼンニイ、気付いている?
俺いま恐怖で死にそうだよ。
兄として嫌いなわけじゃない、なら好きしか言いようがない。
でもどうしても、俺の言う好きとゼンニイの言う好きが全然違う意味に聞こえるのは、自意識過でしょうか?
***
『俺もシユミが好きだよ』
その意味は?
「シユミ、おはよう」
「おぱっ……おはよ」
あの一緒に寝よう事件から早2週間。
あのときのゼンニイは100%おかしかったが、最近ますますもっておかしい。
そのおかしさにつられて、俺も前みたいにうまく普通な弟を演じられなくなっていた。
3階の廊下でゼンニイと鉢合わせたいまだって、ゼンニイとまともに目を合わせられず水中をゆうゆうと泳ぎまわる魚のような目になってしまう。
「母さんがっ、出来てるって、ごはんが、あさごはんが……すでに!」
「シユミ……」
頭の悪い子が英語を必死に日本語訳するみたいな言葉づかいになってしまったら、さすがにゼンニイが俺のおかしさに気づいたようで。
おもむろに俺の両肩をつかむと、じっと見下ろしてきた。
「……な、なに、ゼンニ……?」
ギャーワァーヒィー!と胸中で大騒ぎしながら努めて冷静ぶって訊ねてみたら、ゼンニイが心配げに眉根を寄せてふいに俺のおでこに自分のそれをこつんとあてた。
「……ッ!」
ギャーワァーヒィー!
「熱は……ないかな」
「ないよ、熱なんて!」
ううわわわあああ近い!
近いよ顔が!
こんな至近距離でゼンニイの端正な顔面を見るのは初めてだったが、近くで見れば見るほどなにひとつ欠点がなく、その完璧な美しさに条件反射のように顔が熱くなってきた。
そんな気まるでないのに、少女漫画のヒロインになったようなトキメキを与えてくるイケメンの恐ろしさ。
「なんか様子変だから、具合悪いのかと思って」
情けなく固まっていた俺からようやく額を離すと、今度はそっと俺の頭に手をつかってやさしく撫でる。
しかもその手はだんだんと俺の髪を梳くように動き、最終的には毛先を自分の指先に絡ましてくる始末。
ギャーワァーヒィー!
それが幼子に触れる手つきというより、かわいい恋人と戯れるような甘い動作に見えるのは俺の疲れた目が見せる錯覚ですよねわかってます。
「ゼンニイ!大丈夫!いつもどおりだし!俺ちょー元気だし!」
「そうか?なんかあったらいつでも言えよ」
「うん!!」
いまこの瞬間すでになんかあったわけだが、まさかなんかしてきた当の本人になんかあったと言うわけにはいかない。
無理くり笑顔をつくってみせたらようやく満足したのか、最後に俺の肩をポンポンと軽く叩いて階段を下りていった。
その後ろ姿を見つめながら、俺のなかで渦を巻く疑惑。
(……あの、スキンシップ多過ぎません?)
熱なんててのひらでだって測れるのに、なんであえておでこ?
なんでわざわざ頭撫でる?
普通あんな甘いかんじに弟の髪の毛さわる?
どう考えてもおかしい。
ゼンニイはここ最近ずっとあんな調子なのだ。
以前よりも明らかに、距離が近い。
リビングのソファに座っていたら、ほかにいくらでも座る場所はあるのにわざわざ隣に腰掛けたり。
いってらっしゃい、なんて言いながら擦れ違いざまに肩を触ったり。
ありがとう、と頬を撫でてみたり。
前はこんなことはなかった。
男兄弟らしい、それなりの距離感を保っていた。
特にゼンニイは後ろめたいことがあるからなのか、より一層俺に過度な接触をしてくるような真似はしなかった。
ストーカーらしく遠くから見守るだけだったのに。
なんだよあれ!?
あんな態度を取られると、どうしてもとある可能性が頭のなかにちらついてしまう。
ばからしいありえないと鼻で笑い飛ばしたいのに、笑いごとじゃないかもしれないと言い知れぬ不安が募ってしまう。
ゼンニイの好きなひとって、やっぱ俺なんじゃないの……?
***
「俺彼女つくる!!」
「粘土で?それともフィギュア?俺いい店紹介してやろっか」
新垣シユミの力のこもった決意表明をジローさんは焼きそばパンを頬張りながらこばかにした。
弁当の卵焼きに箸をぶっ刺して、ジローさんを睨む。
「違うよ!命ある彼女だよ!」
「おいこらフィギュアなめんなよ、凄腕の職人がつくったフィギュアにはみずみずしい命が吹き込まれて……」
「田尻が振り向いてくれそうなの?」
フィギア談義に花を咲かせようとしたジローさんを無視して、イッサがまともに取り合ってくれた。
大抵自由人のジローさんとは話がしっちゃかめっちゃかになるが、そういうときはいつもイッサが話を本筋に戻してくれるのだ。
「ユイカちゃんは難しそうなんだけど、別の誰か、とか……」
「田尻は無理そうだから諦めて、もう誰でもいいから彼女にしたいってこと?」
「身もふたもない!」
イッサはいつも思ったことはすぐに口に出すやつなので結果その口からは毒舌ばかりが飛び出してくる。
まあほとんど正論なんだけど。
「3年も一途に想い続けてきたのに、いきなりそんなの無理だろ」
「それはそうだけど……」
そうだ。
付き合うならちゃんと好きな人とがいい。
でもそんなことを言っていたら、ユイカちゃんが俺に振り向くことなんてないんだから一生彼女なんて出来ない。
「そもそもさー!大事なことを忘れてはいないかキミタチ!」
焼きそばパンをすべて食し終えたジローさんが、口の端にパンカスをつけたまま、俺に向かって人差し指をつき付けた。
丸眼鏡がきらりとひかる。
「非モテのくせに、さぞ自分がやる気出せばすぐに彼女できるみたいな言い方するんじゃない!おまえに選択権はないのだ!」
「……!!そ、そのとおりです先生……!」
そうでした俺非モテ男子でした。
フツメン×天パ、それが新垣シユミ。
顔を顰められるような不細工ではないと思うけど、一切華がない地味で味気ない顔面。
何度か告られたことはあるが、それはすべてゼンニイ狙いの女子だった。
俺はハアアと長たらしい溜め息をついた。
「でも彼女つくらなきゃならないんだよ俺はぁ……」
「なんだよシユミ、発情期か?コンニャクがいいよコンニャクが」
ちげーよばか。
彼女がほしい、というよりつくらなければならないと思う理由。
それは言わずもがな、ゼンニイだ。
そう、最近俺の考える最悪な可能性はただの可能性に留まらないのではないかと思えてきた。
ゼンニイがおかしくなった原因を考えていたとき、とある仮説が浮かんでしまったのだ。
『絶対うまくいく!ゼンニイが攻めたら一発だよ!俺が保障する!ゼンニイほどかっこいいひとなんていないんだから!!』
ゼンニイのストーキングをやめさせようとして、懸命にゼンニイの恋路を応援したあの日。
思えばあの日からゼンニイの行動がおかしくなった気がする。
もし仮に俺の最悪な予測が正しくて、ありえないけど、俺がゼンニイの好きな人だった場合。
(俺がゼンニイのやる気スイッチ押しちゃったんじゃ……!?)
なんでよりにもよって俺とか、どう考えてもおかしいとか、ゼンニイばかじゃないのとか、いろいろ腑に落ちないところはたくさんあるが、その仮説が正しいとしたら納得のいく部分も多々ある。
あさはかにも応援なんてしちゃったから、背中を押されたと勘違いしたゼンニイが『一緒に寝ないか』なんていう大胆な行動に出ちゃったのかもしれない。
抱き締められたときの『いまは俺のこと好き?』っていう兄弟間で滅多に交わされない不可解な質問も、まんまそういう意味だったのかもしれない。
ゼンニイは『俺頑張ってみるよ、攻めてみる』とも言っていた。
つまりここ数日のいきすぎたスキンシップはゼンニイなりに攻めているんではないか…!?
もしそうだとしたら。
もし本当にゼンニイが俺に惚れていて、俺のストーキングをしている場合。
本当に困る。
めちゃくちゃ困る。
だって俺、ゼンニイの気持ちを受け入れられない。
じつはゼンニイは女の子だけじゃなく男にもモテる。
ゼンニイのフェロモンは同性すらも虜にする魔性の力を持っている。
男に何度も言い寄られたことのあるゼンニイは、そのせいで同性間の恋愛に抵抗がないのかもしれない。
しかし俺は違う。
俺の恋愛対象は女の子だけだ。
ユイカちゃんだ!
いくら相手が新垣ゼンヤであっても、いや新垣ゼンヤだからこそ無理だ。
考えてもみろ、男同士で、挙げ句義理とはいえど兄弟で。
とんでもない。
いくつタブーをおかす気だ。
正気の沙汰じゃない。
だからどうにかゼンニイに目を覚ましてもらいたい。
きっとゼンニイは頭がよすぎるから、いろいろなことを考えすぎて脳味噌が疲れてしまったのだ。
どんな最新の高機能なパソコンだって、たまにオーバーヒートすることがある。
きっといま、ゼンニイはそういう状態なのだ。
頭を冷やしてあげなきゃならない。
そのためにまず彼女をつくってゼンニイを諦めさせようと思ったわけだが、俺が非モテ男子だったせいでその作戦は続行不能になった。
1/1
∵