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「待って!仕事中だし…流石に職場の外に出るのは…」


 車の助手席押し込まれた声は、焦りを大きく孕んでいる。ここまで連れられて来て何を言っているんだと思われるかもしれないが、助手席に座って少し頭が冷えたようだ。
だが、彼女の耳にはバタンっというドアの閉まる音と、慣れたようにエンジンをかけようとする音が響く。
そこまでの動作をしてから、漸く二宮は口を開いた。


「さっきも言ったろうが。この時間は俺がもらってる、どういう方法だろうが問題ない。許可が必要だと言うのなら、さっきの唐沢さんの言葉が許可だと思え」

「…」


確かに唐沢からは、二宮に付き合うことが「仕事」だという趣旨のことは言われたが、これが「仕事」かと言われると、落ち着かない。もし他の職員が見たとしても、サボっているようにしか見えないだろう。
だが、その二宮の言葉に反論出来るほどの言質もなければ、上司からの言葉もない。
妙に落ち着かない気持ちで押し黙るほかなかった。
そんな彼女を一瞥した二宮は、返答をしない彼女と同様に無言のまま、キーを捻ると車体に息を吹き込んだ。
加速していく車の中、落ち着かない気持ちがありながらも、ふと新鮮な気持ちになる。


(二宮くんの車、乗ったことなかったな…)


東隊に居た頃は、まだ二宮は免許をもっていなかったような気がする。もしくは、車を所持していなかったか、どちらにせよ車に乗ったことは一度もなかった。
車内は整然としている。無駄なものはなく、おそらく必要最低限のものはあるのだろうが、ダッシュボード等に閉まってあるのだろう。それすらも見当たらない。見えるのはエアコン口に取り付けられた消臭剤くらいのものだ。


「ドライブが好きだと聞いた」

「…うん、運転は得意じゃないけど。助手席に乗るのは好きだよ」

そんな風に言うとめんどくさがりなやつに聞こえるけど、と苦笑混じりの名前の声音は焦り混じりの声とは打って変わった。少しは落ち着いたのかもしれない。もしくは諦めから、前向きにこの状況を楽しもうとしているのか。

 心情までは読み取れなかったが、彼は少しほっとした。
ほっとする、という表現は彼に相応しくないかもしれないが、そういう感情に近いのは間違いなかった。張り詰めたまま、妙に落ち着かない名前を見るのは、不愉快だった。
昔のようにはなれないと言われているようにも思えたが、それよりもアイツのせいで変わってしまった彼女はもう戻れないのだと言われているようで、それが二宮の心を逆撫でるのだ。


「加古とはよくドライブしてたんだろ?」

「加古ちゃんドライブ好きだしね。解禁されたから、今度は誘い返そうかな」

「…アイツも退屈してたから、誘ってやれ。フラれまくるってぼやいてやがったからな」

「毎回断ってたらそうも言われるよね…」


 多少の申し訳なさを滲ませる彼女の言葉に、二宮も上層部から通達されたことを思い出す。
苗字名前との接触を禁じるー、それを言い渡された理由は伝えられなかった。何故接触することがいけないのか、正直隊の中でもあらぬ想像をする人間は居ただろう。
名前が、鳩原の近界行きの手伝いをしたのだとー。勿論すぐにそんな考えはなくなった。それは彼女がボーダーに所属し続けていることが明確な証拠だった。もし、鳩原の近界行きの手伝いをしていたとすれば、是非もなく、彼女は解雇の上で重要参考人とされているだろう。
されていないということは、彼女は鳩原の事件とは関与していないということが明らかになったということだった。
 
 共通の友人の話をすれば、少しずつ話に花が咲き始める。廊下で立ち止まったままの彼女はいなくなった。名前自身も、自分の心が少し軽くなり始めたことに気づき始めた。少し、あの楽しかった頃に戻っているような、そんな気さえした。


「相変わらず、二宮くんは加古ちゃんと仲が良いみたいでよかった」

「俺はそうは思わないが」

「昔は結構、バチバチだったけどね」

「俺とお前の方がバチバチだったろうが」

「あれは二宮くんがノってた時期だったからでしょ?私は別に…」


こういう風になることを予想して、彼女を車に連れ込んだ訳ではなかった。むしろ自分が名前を車に乗せてどこかに行きたかっただけだったし、それに対してどういう反応をするかはほとんど想像はしていなかった。だが、ボーダーから連れ出したというのは、結果的に名前にとっても良かったかもしれない。
そう思い始めていた時、急に彼女の言葉が止まった。
車は、赤信号で停止している。目の前には横断歩道があり、仲の良さそうな親子が、手を繋ぎ、アスファルトの上の白い線を踏んで遊びながら渡ろうとしている。
ただの微笑ましい光景だったが、どことなく二宮はその男の顔に既視感があった。
名前の言葉がなくなり、変な沈黙からよくよく観察しただけのありふれた親子だった。

 その男が誰なのかを二宮が思い出したのは、隣に座る名前の顔を見た時だった。


「…っ…」


ただ、呆然とその親子を、子供の手を引く父親の顔を見ていた。後ろから、おそらく男の妻だろうと思われる人物も歩いてくる。
名前の言葉は無かったが、二宮は理解した。
あの男の顔は覚えている。まだ彼女が恋人と付き合いたての頃、鳩原に見せていた。
名前と並んで写っていた男だ。苦々しい気持ちで、まともに見れなかったが、この男がーと思ったことを思い出す。

 信号は、青になった。
二宮は躊躇わずにアクセルを踏み込む。名前と二宮を乗せた車は、幸せそうな親子とは逆の方向に進んでいく。

前方を見るしかなくなった二宮には、名前が横でどんな表情をしているのか、見る術はなかった。
嗚咽や鼻を啜る音はしなかった。
いっそ、泣いてくれたら、その隙間に入り込んでやろうと思うのに。