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ほとほと困り果てたのは、問題を山積みにし過ぎているからだ。先日までは暇は嫌だ、と思っていたのに、面倒事や大変なことはそういう時に限ってきてはくれず、首が回らないというくらい大変な時に、一気に訪れる。
現在の彼女の状況は正にそれだった。隊の作戦室に行けていないのも、関係を清算した筈の元恋人が自宅にて待ち伏せしているのも、上司の急な出張で遠隔より資料を作成しては送付するのも、すべてがキャパオーバーだ。そんな訳で、現在は本当に必要最低限のものを家から運び出し、ボーダー隊員の使用出来る仮眠室を勝手に借りているという訳だ。
(正直、見つかったら今度こそ鬼怒田さんと根付さんにクビにされるかもしれない…)
実際、そこまでその二人が狭量な訳ではないのだが、あの一件があってからずっとその二人に目をつけられてしまっていると思っている名前からすると、そう思ってしまうらしい。そう思われてしまうような言い様をしてしまったのは、その二人にも過失があるかもしれないが、ここまで女性に思われて恐怖されているというのは余りにも可哀想かもしれない。事実、唐沢越しにではあるが許したのだが、払拭はされていないようだ。
だが、見つかったら云々は置いておいても、そろそろ色々なストレスで彼女の心身は限界に近づいている。誰かに見つかったら危ないだろうということから、相当早い時間から起きて、唐沢がちょうど良く不在なのを利用し、そそくさと部長室へ行く。そこから化粧をして、平常の就業時間よりも随分早いのにも関わらず、唐沢へ送る為の資料や、プレゼン先の情報を集め始める。そして、お昼の時刻にはラウンジに向かうのではなく、自宅へ行く。この時間には元恋人は自分を待ち伏せしていないと分かっているからだ。その時に大きなボストンバッグに着替えや化粧品を詰め込み、果ては処理仕切れなかった自作料理などを捨てたりなどもする。はっきり言って休憩とは程遠い。そこからまたボーダーへと帰り、携帯食料を片手に仕事を開始する。定時になっても残業をし、一応形式的に自宅へ帰るふりをしながら一目につかないようにこっそり部長室に戻り、ボストンバッグを回収して仮眠室へ―。
およそ普通の会社人の生活リズムでもなければ、心身が疲れてしまうに決まっていた。頼る場所があるかと言われれば、頭に浮かぶ人間は何人かいた。元同隊の加古や、短大時代の友人がいたが、この事情を説明して泊めてもらうことはなんとなく気が引けた。まして、加古に関しては何度も遊びの誘いをしてもらっていたのに断っていたことも申し訳なく、どの面下げて…という気持ちもある。
かといって、あの恐怖と立ち向かえるか、というと話は別だ。
二宮とのドライブの後、あまりにも嫌悪感を抱いた名前は、その日のうちに別れの言葉をメッセージで送った。何年も付き合った相手に対する礼儀としては如何と思われるかもしれないが、相手が妻帯者と分かってしまった時点で、直接話す気も更々無くなっていた。気持ちが元々無かったのでは、と思われてしまうほど、さっと引いてしまったのだ。それまでゆるやかではあったものの、居心地の良い相手で、触れ合うのも腕を組んで歩くのも気分がよかったのに、あの光景から一気に冷めてしまった。まるで夢から現実に着地した時のように。―そう考えてしまえば、元々そんなに好きでも無かったのかもしれない、手放しても良いと思えてしまったのだから、と脳裏には浮かぶ。
元々の気持ちの強弱については置いておいても、別れを告げてから何日か後、自宅にて待ち伏せされていれば尚更冷める。否、冷めるという気持ちも超えて、恐怖と気色の悪さを感じた。
合い鍵を渡していたが、そこまで非常識な事をしてくる人間だとは思っていなかった。社会人であるし、良識も持ち合わせていると思ったからこそ、ほとぼりが冷めてから遠隔的に鍵を返してもらえれば、と思っていたのだ。それが、まさかそんな使われ方をするとは、自分の見る目を疑ってしまう。
だが、こんな時でも、なんとなく比較をしてしまう。
(未来がいなくなった時よりは、虚しくないな…)
あの時の喪失感と、目の前が真っ暗になる感覚に比べてしまえば、なんということはない別れだと、思った時点で、やはり気持ちは薄かったのかもしれない。
いつまでこの生活を続ければ良いのか、隊の作戦室にも顔を必ず出すと二宮に言ったのにも関わらず行けていない―そんな気持ちのまま、今日は昼休憩の時間にボストンバッグに洗濯物を詰め込んで、近くのコインランドリーに向かおうとしていた。中身の詰まったボストンバッグを抱え、辺りを見回しながら出入り口に向かっている様子は、どちらかというと盗人のように見える。勿論、昼休憩の時間は人通りの少ない時間を見計らって、ずらして取っている。疲れが顔に出て、少し化粧乗りの悪くなった名前は、意識も少々ぼうっとしていた。
「そんな荷物を持ってどうしたんだ、名前」
だからこそ、後ろから響く大きくはないが、いつもなら気付く足音にも気付かなかった。ぼうっとしていた意識は、急に現実に引き戻され、ぎゅんっと冷や汗が溢れ出てくる。
ぴんっと張る背中。背後に立っている人物は、振り返って確認せずとも声で分かる。
(…東さんだ、絶対に…)
だが、そんな状況だからこそ自分の元隊長で、日頃お世話になる機会もある東を、彼女は無視することは出来ない。これが他の人間なら、なんとか理由をつけて無視することも出来るのに、東が彼女の名前を、はっきりと呼んでしまったので、無碍にも出来ない。
先日の二宮に手を引かれている時も、今のこの瞬間も、なんで東さんはこういうタイミングに私の前に現れるのだろう―。こんな言い逃れも、上手い言い訳も思いつかない状況では、こうやって心の中で悪態を吐くことしか出来ない。
東は、彼女の脇に抱えられたこの光景には不自然なボストンバッグと、堂々としない姿を見つめて、思案する瞳をしていた。