※お司書の隠し設定をまろびだしただけ
※お司書の前職匂わせ(?)です



「提督さん!ちょっと!」

懐かしい声が聞こえた。ドッ、と落雷が落ちたような激しい音で心臓が一度鳴り、それからはドッドッドッと太鼓を叩くように煩い音をさせながら心臓は動き続ける。

嗚呼、なんてことだろう。
地獄とは夢に見るものだったのか。

君よ、愛し君よ。
海の彼方に連れて行かれた君の声なぞ、とっくの昔に記憶の波に呑まれたと思っていたけれど。
そうだ。君はそのような活発で、それでいて美しく凛とした声だった。
春に咲く桜も、梅雨に咲く紫陽花も、初夏に咲く薔薇も、夏に咲く向日葵も、どんな花だって君の輝きには敵わない。
その煌めきはまるで星のようで、眩しくて尊くて。恋に落ちるのは一瞬で、愛を抱いてからは永遠で。
だのに君は流れ星のように遠くで光って燃え尽きた。そんなところまでも星と一緒にしなくてもいいのに。
夢に見た地獄は在りし日の再現で。このまま、命なんてもう要らないから。この地獄を永遠にしてほしい。忘れるのはどんな痛みより辛い。忘却はどんな罰より恐ろしい。
「■■、■■」
「何よ、そんな名前呼んで。手伝ってやんないんだからね。ほら、呆けてる暇があったらさっさと手を動かす!」
乱暴に湯呑みを執務机へ叩きつけるように置く君は、やはり記憶の中の君のまま。
眩しい過去を再現しているのか、はたまたただの妄想かもわからない。自分はこういう時、なんと言葉を返していただろうか。
見慣れた筈の、けれどもうすっかり過去の記憶となった執務室。あの日逃げ出した場所の椅子に腰掛けて、あの日折ってしまった万年筆が手の中にある。何もかもが以前のまま。あの日壊れてしまった日常が戻ってきたようで、みっともなく泣き喚いてしまいたい。
あゝ、己が正気でなければこの幸せな地獄ゆめに浸っていられるのに。
「ごめんね」
君が贈ってくれた万年筆はあの日に折れて壊れてしまった。壊れたものは二度と戻らない。それは自然の摂理で、その摂理を覆したくて倫理を捨てた。禁忌を禁忌と思わぬ外道に堕ちた。
ひとをつくることはなぜいけないのだろう。
神様になりたかった。君を冥府の底から釣り上げる術が欲しかった。時間を戻して悲劇を回避する力が欲しかった。
しかし時の砂は巻き戻らず、君は海の底から戻ってこない。
最愛を失ったままおめおめと生き長らえ続け、何の成果も得られない体たらくぶりに吐き気がする。
謝罪の言葉はただの言い訳で。溢れて零れたそれは反吐が出るほど湿ったものだ。幸せなこの時間にそんな言葉を持ち込む自分の無意識の卑怯さに、今すぐ頭に鉛玉をブチ込んで吹っ飛ばしたくなる。
「莫迦ね、提督」
なんの謝罪かなんて、わからないだろうに。
いつかの再現か、はたまた己が作り出した妄想か。彼女の姿を象った美しいその娘は、窓を背にしてそう言った。莫迦と辛口を叩いたその唇は、穏やかに笑みを浮かべていた。
「大丈夫よ、提督。私、ずっと待ってるから」
まだ謝らなくてもいいの。
目を細めて笑う彼女がそう続ける。まだ、と君は言う。その言葉の意味を分かりかねて、問いかけようと口を開こうとしたがそれを遮るように彼女は首を振る。

「いつか貴方が、迎えに来てね」



あの海で待ってるから。



「司書くん」

声がした。優しい、凛とした声だった。その声に導かれるように目蓋を開けてみれば、見慣れた執務室。
窓の外は真っ赤な夕暮れで、逢魔時まであと少し。机に突っ伏していて眠っていたようで、体の節々がとても痛い。
「アッゴメンナサイ山姥切くん進捗駄目です何も終わってないですテヘペロ」
「そのようだね。最近の君は共同研究とやらで随分と忙しくしてたから、疲れがピークに達してついうたた寝をしてしまったんだろうね。まだ期限のあるものばかりだから、今日はゆっくりと部屋で身体を休めた方が良い」
「ひええ…優しい…山姥切くん流石神様とても優しい……いつも優しいけど今日もとても優しい……お司書感激のあまり泣いちゃう…すすり泣いちゃう…」
これが他の助手の文豪であれば、例えば尾崎であればスパルタ徹夜コースになるだろうけれど、お優しく慈悲深い神様は身体を休めろと労わりの言葉をくれた。
確かにここ最近少しばかり根を詰めてしまっていたが、それにしたってその他の仕事を後回しにし過ぎた。だから説教も徹夜も覚悟はしていたが、彼はどちらもしなかった。その心遣いに感謝しながら帰り支度をしていれば、執務机にある山積みの書類をいくつか手に取って確認し出した慈悲深い神様はこの無言の間を繋げようとしてくれたのか話を振ってくれた。
「気持ちよさそうに寝てたから起こすのも忍びなかったけど、このままだと夜になって風邪を引いてしまうから起こしたんだ。いい夢を見ていたならごめんね?」
「いえ、まだ夜は寒いですからねえ、お気遣いありがとうございます。……実は、ふふ、久方ぶりに懐かしい夢を見たんですよ。だから気持ちよさそうに見えたんだと思います。私がね、ただの若造であまりにも未熟者だった頃の夢です。当時仲が良かった可愛い女の子とお部屋でお話してるだけだったんですけど、キャー♡て思わず舞い上がっちゃいました」
「おや、それは悪いことをした」
「いいんですいいんですお司書どうせ風俗誘われるくらいに女の影がなくて哀れな男ですから…どうせ女の子が夢に出ただけで舞い上がっちゃうやっすい男ですぅ…」
折角の男盛りだというのに女の影がないと、皆に言われて幾人かの文豪に風俗に誘われたりもした。金で女を買うことに今更躊躇いはないが心惹かれるものでもないので丁重にお断りもした。
だって、触れるのであれば彼女が良かった。他の女の温もりで彼女の温もりを上書きすることが恐ろしかった。忘れることは何よりも恐ろしいのに、記憶はどんどん零れていくのだからせめて自ら進んで消し去ることはしたくなかった。
「その子とは今はもう連絡を取っていないのかな?」
彼は会話の流れで聞いたのだろう。嗚呼、とても惨酷な質問だ。けれど彼に悪気はなく、こちらの情報を出しきっていないのだから仕方ない。これは何も悪くない質問だった。
「そうですねえ。なにせ、転職前に知り合った子です」
机に散らばった荷物を鞄に詰め終えて、じゃあ帰りましょうと椅子から立ち上がる。窓の外は逢魔時。夜へと空が塗り替わる時間。
暗い暗い海の底。きっと彼女はいるだろう。そこにきっと、在るのだろう。

「海にいきたいなぁ」

部屋の電気を消して、廊下をふたり並んで歩いていく。この図書館から海は見えない。遠出しなければ辿り着けない。海から逃げた男の戯言は、神様の耳にどう届いたのだろう。
嗅ぎ慣れていた筈の潮の匂いは、とっくの昔に忘れてしまった。



君よ。愛しき君よ。
死と墨の香り漂うこの地獄は、君を抱きしめ離さぬ海よりは温かいのだろうか。


■了■

.