カメリエット地区3


 次の日、アレクシアは一日中、部屋から出てこなかった。夜になっても気温が下がらないことにアルフレートはイライラとする。夕飯の席、前の日に落胆した顔で帰宅してから顔を見せない妹の席を横目で見ながら、エルマーはアルフレートに語りかける。
「アルフレート、君のせいじゃないからね。遅かれ早かれ、アレクシアは現実に立ち向かわなきゃいけなかったんだ。それがたまたま君と出向いた今回だった、ということさ。ああ、君のせいじゃないから」
 切り分けたカツレツを頬張りなから笑うエルマーを、アルフレートは嫌なものを見るように睨む。そこへエルマーが何かを投げて寄越す。冊子状のそれはテーブルに落ちる瞬間、風を起こし、卓上の蝋燭の火を揺らした。
「『多文化主義』?」
 アルフレートは冊子の表紙に書かれた文字を指でなぞりながら口に出した。エルマーの頷きが返ってくる。
「現代になって言われ出した比較的、新しい言葉だ。まあ『どの民族も、どの文化も対等な立場ですよ』っていう、我がアルケイディアには少々耳に痛いお言葉だね。……問題はそっちじゃなく、著者の方だ」
 言われて視線を落とすと、『カスト・スペルティ』の名がある。アルフレートが口にする前に、またエルマーが話し出す。
「『カスト・スペルティ』。とっても由緒正しい貴族家庭の当主さまなんだが、哲学者でもある。最近は啓蒙思想からの国家論も教えに入っているような人でね。僕が働いてる大学で教鞭を取っている人物であり、『リザロ・スペルティ』の父親だ」
「誰だ?」
 抑揚の無いアルフレートの問には、やや間を置いて答える。
「カメリエット地区のラシャ教会で、修行僧をやっている男だ」
「ああ……」
 アルフレートは眉間に皺寄せた。嫌な男の顔を思い出したからだ。地味で、目立たない、印象に残らない顔、を『装った顔』。実際は残忍で狡猾で、人の顔色を常に伺うような不快さの塊だった。そしてまたアルフレートはエルマーを睨む。
「全部わかっていたんだな?」
「まさか。確証が取れたのは昨日、君らが出かけた後だ。奴の本性が分かっていたら、いくらなんでも可愛い妹を近づけたりするもんか。……それより、君が奴を気に留めた理由を知りたいな」
 ワイン片手ににこにこするエルマーに、アルフレートは黙って視線を送るだけだったが、ゆっくりと口を開く。
「ローブが綺麗過ぎた。それだけだ」
「なるほど、恐ろしい子だなあ、君は!」
 『子』と言ってしまってから、エルマーは慌てて「失礼」と付け加える。しかし顔はずいぶんと嬉しそうだった。
「僕が奴を調べ始めたのは、お金の動きがどうも怪しかったからさ。うちは両親も、妹も性善説で生きていて、捻くれ者は僕だけなもんでね。たった一人の少年が『今月は本を貰えなかった』と愚痴を溢したことから、寄付金の行方を疑うなんて、家族から見たら信じられないことだと思うよ」
 エルマーの話にアルフレートは深く頷く。結果的にそれは正しかったのだ、と付け加えてやりたいが、この青年はそんなことは百も承知だろう。
「リザロ・スペルティはカスト氏の三男。優秀な兄二人に甘やかされた末っ子、っていうよくあるご家庭の構図が出来ていたみたいだ。十代の頃から度々問題を起こしていたが、二十歳の時についに重大事件を起こす。少女への暴行二件だ。二件ともに被害者には障害が残っている。細かな内容については、省かせてもらっていいかな? ワインが不味くなる」
 アルフレートの頷きを貰い、エルマーは「ありがとう」と呟くと、深い紅のワインを飲み干した。
「当然、事件はカスト氏によって揉み消された。なぜそんなことが可能だったか、といえば被害にあった少女が二人共、『プレープス』の家庭の子だったからなんだ」
「プレープス?」
 聞きなれない単語をアルフレートは反復し、尋ねた。エルマーは一度、開きかけた口を閉じ、何と答えるかを思案するように顎を撫でる。
「……アルケイディアにおける階級の名前だよ。古い古い単語でね。貴族《パトリキ》騎士《エクイテス》、プレープスは平民階級のことだ」
「君は貴族《パトリキ》か?」
「そうなるね。父が男爵位を持っているからだ。貴族《パトリキ》の爵位は世襲され、騎士《エクイテス》の地位は一代限りになる。……話を元に戻そうか」
 エルマーの提案にアルフレートは即、頷く。家族の概念すら無いエルフには少々、取っ付きにくい話だった。
「貴族階級というのは元々、人々を束ねて導く役割の人間だ。それ故にどうしても力関係が上になる。カスト氏はそれを大いに活かし、被害者を力で押さえ込んだ。しかしリザロにとって予想外の展開も起きる。カスト氏は不出来の息子を勘当して屋敷から追い出したんだ」
 放り投げる仕草を入れて話すエルマーに、アルフレートは眉間に皺を寄せる。エルマーはそれを見て苦笑した。
「君の言いたいことは分かるよ。カスト氏のこの判断は間違っていた。彼は息子を真人間にしたい為に罰を与えたのか、ただ単に怒りにまかせて行動したのか知らないが、結局、野獣を一匹、世に放り出しただけなんだ」
 部屋の中が静まり返る。ちょうどいいタイミングで執事のコンラートがコーヒーのポットを手に入ってきた。キビキビとした動きの後、カップに液体の注がれる音が響いた。
「それで教会に入り込んだのか」
「そういうことだ。実にうまい考えだと思うよ。あの地区ならまともな警備隊は入り込まないし、見習いの見習いって立場でも、住民は敬ってくれる。プライドだけはいっちょまえの奴の、虚栄心も満たせたんだ。恐ろしいことだけど、寄付金に手を付けなかったら、オルガのことは気づけなかったかもしれない」
 アルフレートの問いに、エルマーは首を振りながら答える。コンラートが憂慮する主人を気にかける目で見ていた。
「オルガはどうして訴えなかったのだろう」
 アルフレートは率直な疑問を投げかけた。気の弱そうな、という雰囲気の娘ではなかった。神父に、アレクシアに訴えようと思えば出来たのではないか。
「一番大きな理由は『信用されないと思った』からだと思う。聖職者というのは、さっき言った貴族《パトリキ》などのアルケイディアにおける階級社会には、入らない至高の存在なんだ。それはあのカメリエット地区の小さなラシャ教会であろうと同じだ。加えてあの地区の人々は、この街で最下層の身分である、というコンプレックスが強い」
「コンプレックス? 事実だ」
 アルフレートのはっきりした言い様にエルマーは苦笑するしかなかった。
「……ああそうだ、スペルティの内情はどうあれ、その論文は素晴らしいものだから、一度目を通すといいよ」
「まあ、気が向いたら」
 二人の会話が止まったのは、廊下からのドアが開かれたからだった。憂鬱そうな顔のアレクシアはため息と共に入ってくる。丸一日考え込んでいた疲労が顔に出ているが、顔色自体は悪くない。
「お座りよ、可愛い妹。今夜のメニューはギーゼラ特製のカツレツ、ペッパーソース添えだ」
 兄の明るい声に、アレクシアは「そう」とだけ答えて、また大きく息を吐き出す。そんな妹がアルフレートの隣りに腰掛けるのを見届けてから、エルマーは口を開いた。
「カメリエット地区で今日の夕刻前、騒ぎがあったそうだ。ラシャ教会の修行僧の男性がモンスターに襲われて亡くなったそうだよ。我が家からもお悔やみを届けなきゃならない」
「え……あの方、亡くなったの?」
 アレクシアは驚きに目を見開いていた。エルマーはゆっくりと頷く。
「そうだ。そして、いるとすれば彼の家族にも連絡と取らなくてはならないから、身元を調べてみたんだ。すると彼は僕の大学の講師であるカスト・スペルティ卿の息子だと分かった。リザロ・スペルティ、覚えてるかい?」
 淡々とした話の最後に、アレクシアはさっと顔が青ざめる。
「あの悪魔!」
 その声は半ば悲鳴に近かった。彼女の為に前菜を運んできたコンラートの動きが一瞬、止まったほどだった。
 テーブルに付くアレクシアの手が震えているのは、恐怖からなのか、怒りからなのか、とアルフレートは様子を見守っていた。それが落ち着くと、アレクシアはいつもと変わらない凛とした顔で兄へ語りかけた。
「明日、教会へは私が向かいます。お兄様はお父様たちへの連絡をお願い」
「引き受けよう。……ああ、そうだ、今日の朝、母上から手紙が来ていたんだよ。農園の家畜小屋の面倒を見ていた夫婦が歳でやめるそうなんだ。引き継いでくれる若い夫婦を探しているようだよ……」



 翌朝、
「あなたがやったんじゃなくて?」
 アレクシアが馬車に乗り込むなり、隣りに座るアルフレートを睨む。今日は襟元に少しレース模様の入った黒のワンピースに着替え、アルフレートにも黒のボウタイ、黒のマントを押し付けてきた。
「私は教会には入らないぞ」
「いいから着替えて。……さっきの答えを貰ってないわよ」
 アルフレートは渋々、襟元にタイを通しながら答える。
「オルガに身の守り方を教えてやっただけだ。エルフのお守りの効果だなんて、誰も気づくはずはないし、君だって喜んでるくせに」
 アルフレートがふてくされ、アレクシアはため息をつく。馬車がゆったりと動き始めた。
「人間社会では、悪人は切って捨てて終わりじゃないのよ。あなたもここで学び、暮らしたいなら色々覚えるべきだわ。リザロという男が死んで、私がすっきりした、っていうのもそれとはまた別の話なの」
「面倒な奴め……」
「何か言った? で、オルガに何を渡したの?」
 アレクシアの質問には、マントを頭から被ってから答える。
「エルフの魔具と、高潔の精霊を呼ぶ呪文を教えた。気が荒い《《彼女》》は人間の『欲』に反応して襲いかかる。中でも色欲は彼女が一番嫌いな感情だ。遺体を高名な魔術師にでも調べられれば、精霊の残り香に気づくかもしれないが、そんな人間はあそこにはいない」
 答えを聞き、アレクシアはしばし絶句する。馬車が一度、大きく揺れ。それに我に返ると恐る恐る尋ねる。
「それって、オルガは大丈夫なの?」
「彼女には諦めしかなかったじゃないか。欲どころか、生命力まで消えそうな状態だったっていうのに」
 アレクシアは再び押し黙る。窓から見える景色が華やかさを消し、陰鬱なる果ての光景になってきた時、ようやくぽつり呟いた。
「ありがとう」
 少女の低い声に、アルフレートは一つ頷いてみせる。会話はそこで終わったが、アレクシアの表情から影が消えていた。
 子エルフが学ぶべき世界の現実は、まだまだ多い。

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