行くのだ


微かな光が瞳の奥に浸透してくるのを感じ瞼を上げれば、ぼやいた視界に見える地にふわりと着地したきっちり揃えられた足。プリンセスは、何度か瞬きをして地に手をつき、ゆっくりと身体を起こす。次第にはっきりとピントの合っていく視界。涼しい顔付きで此方を見つめるその姿は、

「主様!」

バッと目を見開き、髭切の上着がひらりとプリンセスの膝に落ちた。どうやら他の者は既に目覚めていた様でプリンセスの飛び上がる様な声に微かに驚きを見せる。

「おはようございます。皆さん。プリンセス。」

こんな目覚めの阿保みたいな姿を見せてしまった。羞恥が込み上がるのと同時になぜ主がここにいるのか、疑問に思いあたふたと忙しなく瞳が彼方此方に動き回るプリンセス。主は神妙な顔つきで今いる岸から数十メートル下先に広がる壮大な草原に、目を向けた。

「1時間後、時間遡行軍は現れます。その数、600体!」

主の言葉に、その場の空気が一瞬にして張り詰めた様な気がした。動揺など少しも無い落ち着いた声で言葉を続ける主。

「おそらく、2つの大将の首を獲るのでしょう。」

主の言葉に、一瞬目を見開くが直ぐに下を向き何処か悲しげな表情を浮かべるプリンセス。まだ、迷いがあるのだろうか。すると、大典太の低音の声が響いた。

「迷っている場合では無い様だ。」

大典太の視線の先に目を向けたプリンセス。その目に映ったのは数万人の兵を背につけて、時を待つ前主の姿であった。数百年振りに見たその姿に、懐かしさからか、プリンセスの手が微かに震える。

「時間遡行軍は2つの大将の首を狙うと言ったな。」

この場にいる自身の予想に外れは無い、と主は、そうです、とハッキリとした口調で一言呟く。そして、いよいよ迫る戦いに隊長である山姥切は真摯な顔つきで声を上げた。

「徳川軍の方に、髭切、膝丸、大典太。プリンセス、三日月、俺はこの場で時間遡行軍の出現を待つ。」

皆が山姥切の命令に、了解を意味する様にコクリと頷く。前主の姿に余りにも心も瞳も奪われてしまったプリンセスも気持ちを翻して急かされた様に後追いで頷く。

髭切、膝丸、大典太がその場から徳川軍の元へ移動しようとした時だった。ふと髭切が何か思い出した様にプリンセスの方に向かって足を進め、座り込むプリンセスに目線を合わせる様にしゃがみ込んだ。

「忘れる所だったよ」

こんな時まで穏やかな口調の髭切。そして髭切は口元に笑みを浮かべプリンセスの膝に落ちる自身の上着を手に取り肩に掛けた。そしてプリンセスの瞳に自身の瞳を交えさせる。

「歴史を守るんだよ」

覗き込む様に上目遣い気味でプリンセスの瞳をジッと捉える髭切の優しげな瞳。しかしその奥には決然を迫る様な強いものが感じられる。

そして、髭切、膝丸、大典太は一瞬にしてその場から消え、残されたプリンセス、三日月、山姥切、そして主は時空の歪みの出現を待ち構えた。


緊張感の漂う張り詰めた空気。プリンセス達は、いつ現れるか、と目を凝らしながら空を見上げていた。すると、次第に空の一部が歪み始め円形に象られた時空の歪みが現れた。そしてそれはもう一つ遠くの方でも確認することができた。

「来たぞ。」
「どうやら、あちらの方にも、現れたようだ。」


睨む様に時空の歪みを見上げる山姥切と、瞳の奥の三日月を細める三日月。プリンセスは息を呑みその時を待つ。しかし、一向に時間遡行軍は現れない。今まで経験した中で1番といって良い程、待っている様な気がした。いよいよ不審感を抱き始める。

「なぜ、現れないの‥?」

眉を潜め、今までに無い状況に困惑を示すプリンセス。それもそうだ、草原にいる主の軍が前進し始めたのだ。しかし下手に動く事は出来ない。その時を待つのみだ。

時空の歪みと主の軍を交互に見やるプリンセス。2度目の往復を終えた際、プリンセスは瞳を大きく見開いた。

「主様‥!」

プリンセスの瞳に映ったのは、背後から脇腹を突かれ、崩れ落ちて行く姿。惑乱、焦燥がむき出しの声を上げプリンセスは走り出した。同時に、時空の歪みから時間遡行軍が現れ、山姥切と三日月も走り出した。

目の前に現れた敵を切り倒し、主の元へ駆け寄るプリンセス。脇腹を抑え深く呼吸を繰り返し、突然現れたプリンセスに力無い瞳を向ける姿に、プリンセスの目が潤む。止まれ、止まれ、と傷口を塞ぐ震える手に自身の手を添える。ゾクゾクと溢れる血。手の平を見ればべっとりと真っ赤な血が手を染めていた。

「ここは、俺たちに任せろ」

いつの間にかプリンセス達を囲んでいた時間遡行軍。プリンセスは顔を上げた。その目に移ったのは自分達を庇うように刀を構える三日月と山姥切の背。

「!‥三日月!」

チラッとプリンセスに三日月の瞳を向け、この場でも落ち着いた口調の三日月。

「お前なりの終わらせ方があるのだろ!行け!」
「山姥切‥!」

逃げ道を作る様に敵を切り倒す山姥切。
プリンセスは2人の言葉に、瞳を揺らがせ、脇腹を抑え苦い表情を浮かべる主の腕を自身の肩に回し支える様に抱え、歩き始め、木々が連なる森の方へと消えていった。

次々と敵を切り倒して行く山姥切と三日月。もう既に、300体もいた時間遡行軍は、残り数十体という所だろうか。

三日月は刀を左から右に線引きする様に振る。翻る様に止まる時間遡行軍。三日月の背には、プリンセスが消えていった木々の連なる森。

「ここから先は、一歩たりとも足を、踏み入れるなよ、」

刀の衝撃波なのか、三日月と時間遡行軍を隔てる様にまるで刀で地を切った様に一直線上に草が禿げ、土を更に深く掘った様に窪みが出来上がった。三日月の瞳が細められ、時間遡行軍をその目で捉える。