九一番九九番


 あの三日月宗近のいる本丸訪問を終えてから数日、プリンセスは、ふとした瞬間に彼の事を思い出してしまっていた。しっかり食事は与えられているだろうか、手当をしてもらえているだろうか、と…それほどあの本丸の状況は深刻であった。しかし、政府に一目置かれる存在であるが故に何も出来ないーー。

 プリンセスは深くため息をついた。

「おやおや、どうしたんだい、らしくないね」

 軽い口調でプリンセスに話しかけたのは、刀剣福祉課職員のプリンセスの上司にあたる人物であった。プリンセスは彼の方へと振り返り浮かない表情を浮かべた。

「先輩…もしも、とある本丸の刀剣男士を審神者に内緒で連れ出したらどうなるのでしょう…」

 先輩は心底衝撃を受けた様子で彼女に目配せた。意外だ、という様な目をしている。まさか、常に勤務態度も良く仕事熱心な彼女がその様な発言をするとは思わなかったのだろう。

「それは、大問題だよ…免職になりかねない」
「ですよね…」

おおよそその答えが返ってくるのは予想していた様でプリンセスは、あまり大きな反応は示さなかった。さらに先輩はつづける。

「それに…そのままその刀剣と姿をくらませたとしても、そう長くは、もたないだろうね」

プリンセスは不思議そうに首を傾げた。長くは、もたないーー一体何がなのだろうか、伺う様に先輩を上目遣いにみた。

「僕たちに、刀剣を生かすほどの力は無いからね」

 先輩は優し気な口調で呟いた。彼の表情もまた、眉尻と目尻が下がっていて、とても優し気である。彼の左薬指にはめられている指輪を見るとより一層その存在が輝いて見えた。

「…なるほど…本当にちっぽけな量なんですね…」
「そうそう、それでも政府はちっぽけな僕たちを使ってこうした政策をおこなってるんだよね」
「ごもっともです…」

 先輩の云う"こうした政策"とは刀剣福祉課の事をさしている。刀剣福祉課職員は100人程度しかいない。審神者の数と比べるとだいぶ少ないのだーー、つまり考えると、審神者に届かない中途半端な力を持つものが100人いるという事。
 プリンセスは、悩まし気に溜息をついた。そんな彼女を先輩は優し気な表情で見つめていた。

「そう言えば、プリンセスくん、そろそろ今日、相談に来る審神者さんの担当だったよね」

 プリンセスは先輩の言葉に目を見開き、職員部屋の壁に掛けられた時計に目配せた。時刻は、その審神者がやってくる時間の10分前を指していた。

「そうでした!…行ってきます…!」

 咄嗟に立ち上がり、机に置かれた資料をかき集め、それを束ね胸に抱え、プリンセスは先輩に頭を下げ職員部屋を出ようとした時「プリンセスくん」先輩が彼女の背に声かけた。プリンセスは首を傾げ振り返る。

「君はとても優しい心を持っている…だからこそ感情的にならず、刀剣福祉課職員として適切な行動をしてくれ」

 プリンセスは先輩の言葉に心がドキッとした。先輩の口調はとても優しくて表情も穏やかな日中のあたたかな日差しの様だった。しかし、その中身は、下手な真似事はしないように、という注意喚起の意が込められている。プリンセスは、一度視線を落とした。そして先輩の色素の薄い茶色い瞳を見つめる。

「勿論です…自分の力量範囲で行動します」

 プリンセスは丁寧に頭を下げ、踵を返した。


 審神者の待つ相談室に入る前、プリンセスは気を引き締めるため、深呼吸を一つして、よし、と声を小さく潜めながらも腹から張り上げた。




「えっと…以上の内容をまとめますと、審神者様とそちらの和泉守兼定の歴史修正阻止に対する意識の違い…で宜しいのですか…?」

プリンセスは向かいに座る審神者と和泉守兼定、そして堀川国広を一瞥し、入って早々居心地の悪い空気の漂う中、始まった相談ーーある意味、審神者と和泉守兼定の互いに対する愚痴を資料にまとめたものを整理し読み上げた。

「ああ、そうだ」

 和泉守兼定は腕を組み、精悍な顔つきを一切崩さず頷いた。

「この審神者とは意向が合わねぇ」
「わたくしもです」

 さらに毒づく和泉守兼定に、審神者もそっけなく同意を示した。プリンセスは、顔を苦めた。この様に審神者と刀剣男士の意見の食い違いは珍しい事ではないが、少々厄介なものであった。

「なるほど…えっと、そちらの堀川国広は…」

 プリンセスは、先ほどから審神者と和泉守兼定の口論にも言葉を発さず、時折暴言を吐く和泉守兼定に「兼さん言い過ぎだよ」と困った様に笑むだけの青少年の様な堀川国広に目配せた。

「僕は、兼さんの助手なので…」

 堀川国広は大きな青い瞳を閉ざし、困った様に笑みを浮かべた。

「なるほど…」

 プリンセスは、この様なケースは初めてだった為、どういうことだろう、と首を傾げた。そして手元の資料ーー和泉守兼定と堀川国広について記載されたものだ、それを見るなり納得した。二体とも、元の主が歴史的有名なあのお方であった。道理で和泉守兼定が、こうも堂々と身構えていて小粋なわけだ、と感服した。

「それでは、この件に関しては、わたくしが担当させて頂きます」
「ああ、頼む…早急にな」

 プリンセスは資料を束ね、審神者に目配せた。審神者は仏頂面を固定したまま、吐息交じりに呟く和泉守兼定の言葉に頷いた。

「引継ぎまで、審神者様の本丸に在籍される形で大丈夫ですか…?」 
「いや、待て…ここには保護施設があるんだろう」

 和泉守兼定は焦った様子でプリンセスに訊いた。彼女は眉を下げ和泉守兼定に目配せた。

「はい…しかし、今ご用意出来るお部屋が一室のみとなっておりましてーー」
「構わねぇ」
「僕と兼さん、本丸でも同じ部屋だから大丈夫ですよ」

 プリンセスは、驚いた様子で目を丸くした。同室で良いという刀剣男士は早々いないから心底衝撃を受けたのだ。そんなにも元の主が同じであると親密なのか、と今はヒトの形である刀に、感銘した。

「…そうですか…わかりました…。では、そちらの方で暫く保護させて頂きます」

 こうして保護手続きも終え、プリンセスは和泉守兼定と堀川国広と共に審神者を保護施設、出入り口まで送った。その際、審神者は和泉守兼定に目配せることなく、また和泉守兼定もそっぽを向いたまま、不穏な空気のまま審神者は帰っていった。

 そしてプリンセスは和泉守兼定と堀川国広を部屋へと案内する。

「結構良い部屋じゃねぇか」
「そうだね…十分だよ」

 和室の六畳間程の部屋に入るなり、彼らは満足気に部屋を見渡した。ふとプリンセスは、先ほどの彼らの審神者の事を頭に浮かべた。

「あの審神者様、お優しくありませんか」

 何気なくプリンセスは言葉を零した。それはハッキリと和泉守兼定と堀川国広の耳に入り、和泉守兼定は眉をひそめ彼女に目配せた。

「どういうことだ?」
「普通だった意見の沿わない和泉守兼定だけを手放すはずですが、堀川国広まで手放してしまわれたのですよ」

 プリンセスは静かにいった。その口調は荒っぽさもなければ突き放すようなものでもなかった。しかし、その時プリンセスの心の中に、蔵で横たえていた鶴丸国永や厳しい鍛錬に悶える今剣、そして自分の身を削ってまで審神者のもとにいる三日月宗近の姿が浮かんだ。

「もっとひどい審神者でしたらーー」
「あんた何が言いたいんだ」

 和泉守兼定はプリンセスのワイシャツの襟元を掴み上げた。プリンセスは強く持ち上げられた事に驚いた様子で目の前の怒りで微動する和泉守兼定の瞳を見つめた。

「兼さん!」

 堀川国広が冷や汗を浮かべ声を上げた。ぎりぎりと交じり合う視線。プリンセスは、やってしまった、と後悔の気持ちで眉をひそめた。なぜ、彼らの事が頭に浮かんだのだろうかーー、涙が零れそうになった時、襟元が緩んだ。和泉守兼定が手を離したのだ。

 プリンセスはドクドクと脈打つ心臓に手を添え、うつむいた。そして一つ深呼吸をした。

「和泉守兼定…不愉快な思いをさせてしまったのなら…申し訳ございません…」

 背を向け、眉根を寄せる和泉守兼定にプリンセスは深々と頭を下げた。

「…あんたは悪くねぇ…すまねぇ…カッとなっちまった」

 和泉守兼定は彼女を一瞥し、吐息交じりに呟いた。

「いえ……時間がある限り、また様子を見に来ます…では」

 プリンセスは顔を上げ、踵を返した。

「待ってくれ」

 和泉守兼定は声を上げ、プリンセスの手を取った。プリンセスは、少し間を置いて彼に振り返った。

「あんたは、審神者じゃねぇのか…」

 和泉守兼定は恐る恐る訊いた。するとプリンセスは初めは驚いた様子で目を見開いたが、すぐに弱々しく微笑んだ。

「はい…私に審神者ほどの力はございません…ただ…」

 プリンセスは和泉守兼定の手を包み込んだ。

「これぐらいの力はございます」

 黄色い温かい光がその手に溢れた。和泉守兼定は青い瞳を見開いた。全身に流れてくる不思議な感覚ーーそれは確か、刀からヒトになった時ーー初めて感じたそれと同じものだった。

 光が消えた頃、和泉守兼定は穏やかな表情を浮かべ瞳を閉じていた。彼女が注いだ温かい光を噛み締める様にーー。
 そして彼女を見つめた。

「そうか…俺はあんたがーーいや、なんでもねぇ…」

 和泉守兼定は口を閉ざし、何かをいうのを止めた。プリンセスは不思議そうに首を傾げながらも、先ほどより表情が緩んだ和泉守兼定を見据え、安心した様子で目を細めた。

「そうですか…では、失礼します…」

 プリンセスは、頭を下げ、最後に和泉守兼定の斜め後ろにいる堀川国広に目配せ、去っていった。

 プリンセスが去った後、堀川国広は和泉守兼定の大きな背を見つめた。

「兼さん、僕、兼さんがあの人に何て言おうとしたか分かるよ」

 堀川国広が穏やかな口調でいうと和泉守兼定は「国広」吐息交じりに呟き、意外そうな表情を浮かべてから、ふっと笑った。

「多分、あいつの力はあんなものじゃねぇよ」
「うん…僕もそう思う」

 和泉守兼定と堀川国広は、何か彼女に期待する強い眼差しを交じり合わせた。