八五番


「今日で、最後か…」

 プリンセスは、どこの本丸よりも立派な門構えの前に突っ伏し、吐息交じりに呟いた。空を見上げると、厚い雲が連なっていて、さらに彼女の顔を歪めた。

「なにボーっとしてんの」

 軽い口調で呟き、プリンセスの前に現れたのは、この本丸の最初で最後の刀剣男士ーー加州清光だ。プリンセスは、いつもと変わらない彼のさっぱりとした調子に、ふっと笑みを零した。

「相変わらずですね…」
「あんたもね」

 プリンセスは加州清光の後を追って、他愛のない声をかけると加州清光も慣れた口ぶりで言葉を返した。二人の掛け合いを見ると、随分と長い付き合いの様に思えるだろうーー現に、プリンセスが刀剣福祉課職員として初めて訪問に伺った本丸は、ここであった。それからの付き合いであるのだから、あまり人に懐かない加州清光が彼女を受け入れるのも納得いく。

「ばあちゃん…連れてきたよ」

 加州清光の後ろから顔を覗かせ、プリンセスは頭を深々と下げた。その先には縁側で腰かける、御年80歳の腰が丸く曲がり、白髪頭をまとめたーーいかにも、おばあちゃん、という言葉の当てはまる審神者がいた。

「ご無沙汰しております…」

 プリンセスは審神者の前にやってきて、もう一度深々と頭を下げた。審神者は「プリンセスちゃん、いらっしゃい」ゆったりとした口調で、皺の刻まれた目元を緩めた。

「…清光、プリンセスちゃんに、お茶と…あと、和菓子も持ってきておくれ」
「うん…わかってるよ」

 審神者が加州清光に目配せると、彼は顔は得意げにツンっとしていたが、心底嬉しそうな色を浮かべた声を上げた。
 プリンセスは審神者の隣に腰かけ、そこから見える庭の景色を眺めた。

「随分と、寂しくなりましたね…」

 プリンセスは、初めて訪れた時よりも色味を失った庭に、切なげに呟いた。すると審神者は、口元を緩めゆっくりと頷いた。

「本当に、よろしいのですか…」

 少しの間をおいてプリンセスは審神者に目配せた。審神者は、閉ざした瞳を彼女に向けゆっくりと瞬きした。

「ああ…あの子の前では意地張って、まだ現役だよ、なんて大口叩いてるけど、あたしゃあ、もう、こうして縁側で一日を過ごさんとする…ばあさんさ…」

 審神者は冗談交じりの口ぶりで呟く。プリンセスは視線を落とし、小さくかぶりを振った。

「加州清光には…お伝えになられましたか…」

 プリンセスが審神者を一瞥すると、審神者は困った様に笑みを浮かべ首を振った。

「他の子には、仕方が無いと言わんばかりに告げれたんだが…あの子には中々、言えないんだよ…」
「加州清光は…審神者様の…初めて顕現なされた刀剣男士なのですよね…」
「ああ…ずっと一緒だったさ…あたしが、行き詰った時も、喜んだ時も、いつも隣にいたのは、清光だったさ…」

 昔の記憶を懐かしむように遠くを見据える審神者に、プリンセスは眉根を寄せ吐息を零した。ふと、背後から廊下を歩く足音が聞こえ、プリンセスは焦った様子で振り返った。そこには加州清光が、さっぱりとした顔を浮かべ此方に向かって歩みを進めている姿があった。どうやら審神者はそれに気づいていない様子で言葉つづけたーー。

「あの子なら、他の審神者にもきっとーー」
「ばあちゃん…それ…どういうこと…」

 プリンセスは、しまった、と顔を歪めた。加州清光は意味が分からないという様に漠然と審神者を見つめている。審神者は、重い瞼を持ち上げ彼に振り返った。

「清光…」

 消えてしまいそうな程小さな声で審神者は彼の名を呼んだ。すると彼は次第に顔を歪ませ、唇を噛み締めて踵を返した。

「待ってください!…ちゃんと、話を聞いてあげて下さい…」

 プリンセスは咄嗟に加州清光の細い腕を握った。プリンセスの手も、加州清光の腕もどちらも小刻みに震えていた。

「清光…あたしの最後の頼みを聞いてくれないかい…」

審神者は、ゆっくりと腰を上げ、加州清光に近づいた。プリンセスは、腕を握る手を離した。

「ばあちゃん…俺…気づいてたよ」

 加州清光は眉尻を下げ、微かに口元を緩め、審神者に体を向けた。

「清光…」
「プリンセスが来るたびに、他のやつらがいなくなるの…知ってた。いつ俺の番が来るのかなってドキドキしてた…でも、気づいたら俺以外誰もいなくて…ばあちゃん、俺だけは手放さないのかなって浮かれてたんだけど…今日だったんだね」

 加州清光の声が次第に震え、言葉が途切れ途切れになった。そして彼の赤い瞳から次々と大粒の涙が零れた。審神者も瞳を潤ませながら、彼の涙を拭った。

「ずっと黙っていてすまないね…清光…あんたの顔を見たら、言葉が出なかったよ…昔からずっと変わらない笑顔で、あたしの事を見るから…」

 審神者の声も酷く震えていて掠れていた。プリンセスも、その光景に視界が潤み、瞳を閉ざした時、涙が零れた。
 加州清光は審神者を包み込んだ。ギュッと力を込めてーー。

「俺、最期まで、ばあちゃんと一緒に歴史守りたかったなあ…」

 彼は、いつもの様に軽い口調で呟いた。しかし、それはどこか侘しさが含まれているものだった。
 審神者は、加州清光の震える背をトントンと優しく撫でた。まるで、子を宥める様にーーとても優しく、温かい、一定のリズムで。

「清光…あたしの最後の頼みを聞いてくれるかい」

 しばらくして、審神者は加州清光の赤い目を見つめ訊いた。彼は、一度視線を逸らし、眉根を寄せ、ゆっくりと頷いた。そして一度大きく深呼吸をし、ほのかに笑みを浮かべ審神者を見つめた。

「ばあちゃん…俺、愛されてた…?」

 審神者は、ぎゅっと瞼を閉ざし、開けた時、真っ直ぐ彼を見つめた。そして彼の頬を包み込んだ。

「ああ…昔からずっと今でも、これからだって、あたしは清光を一番に愛しているよ」

「…良かった…」

 加州清光は、とても穏やかな笑みを浮かべ、自分の頬に添えられたーー長い年月が刻まれた、温かい手に自分の手を添えたーー。




「では…審神者様…今日中には、係りの者がお伺いすると思われますので…」

 プリンセスは審神者に向かい合い、呟いた。彼女の瞳は少し赤く染まっていた。

「プリンセスちゃん…最後まで、ありがとうね」

 審神者は、にっこりと笑みを浮かべた。そんな彼女にプリンセスは眉尻を下げ、ゆっくりとかぶりを振った。

「いいえ…これくらいしか出来ませんから…お力になれて良かったです」

 すると、審神者はプリンセスの手を取り、包み込んだ。プリンセスは、ホッと心が温まる様な感覚に包まれた。

「初めてあんたを見た時から、この子になら…って思えたんだよ…」
「…審神者様…」
「プリンセスちゃん…あんたの力はもっと強くなる」

 審神者の言葉にプリンセスは大きく目を見開いた。

「何かきっかけがあるはずだよ」

 くしゃりとした笑顔を上げた審神者に、プリンセスは、深々と頭を下げ、視線を落とし頷いた。

「じゃあ、清光、次の審神者に失礼のない様にね…手が汚れるからって内番をさぼったりするんじゃないよ」
「ばあちゃんの頼みなら仕方ないじゃん…」

 まるで、御婆ちゃんと孫の様な掛け合いに思わずプリンセスは口を押えて笑った。すると加州清光は、なに笑ってんの、と伺う様に隣に並ぶ彼女を、いじけた様な目つきで睨んだ。審神者も思わず吹き出す様に笑った。
 そして加州清光は、もう一度審神者に目配せた。

「ばあちゃん、体調には気をつけてね」
「…ああ、清光も」

 本当に最後の別れの挨拶だ。審神者と加州清光の交じり合う視線が、ゆっくりと離れた。

「では、失礼いたします…」

 プリンセスは様々な気持ちを旨に深々と頭を下げた。







「俺、ばあちゃんの言葉信じて、もう少し待ってみようと思う」

 保護施設への帰り道、加州清光は何の前触れもなく独り言の様に呟いた。プリンセスは首を傾げ彼を見つめる。

「何をですか…?」

「教えてあげなーい、自分で考えてみたらっ」

 加州清光は、軽い口調でプリンセスを一瞥し、ふん、と鼻を鳴らす様に顔を背けた。

「えー!気になります!」

 プリンセスは、探る様に加州清光の顔をじっと見つめるが、彼は、ふいっと顔を逸らし、小さく笑った。