全てを奪った


"夜分に外には出ない方がいい。何故かって?――鬼が出るからさ"

 大般若長光はプリンセスにいった。薄い唇に人差し指を添え、目を細めながら。プリンセスは、その時の彼の顔に不思議と引き込まれた。
 本日の近侍であった彼と、心地良い風が流れてくる縁側で、短刀達が駆けまわる姿を眺めながら他愛のない話をしていたのに、突然彼はプリンセスに顔を向けたのだ。彼の何処か心に安らぎを与える低い声だけを耳にしていたから、それと同時に美しい顔までも向けられたら瞳が良いものを映そうと意識するのも不自然な事ではない。
 プリンセスは、どうして鬼が出るの、とその理由を聞こうとはしなかった。言葉が出なかったのだ。そして彼は、そんな年端もいかない様な幼げな表情で見つめるプリンセスの頭にそっと手を添えてから、ちょっと厠へ、と彼女の前から立ち去った。それは、昼下がりのことだった――。




 「これは、内緒ね。誰にも言っちゃダメよ」

 プリンセスは彼女の目の前に立つ小夜に背丈を合わせてしゃがみながらいった。小夜はそんな彼女の口元に大きな弧を描いて人差し指を添える姿から目を離すことができなかった。そして一つ息を飲み、小夜は、こくりと首を縦に下ろした。

「今夜、本丸を抜け出そうと思うの」

 小夜は、三白眼の瞳を誇張させた。彼女の言葉の意味が分からなかった。しかし、すぐに小夜の思考は彼女の言葉を悲観的に捉えた。眉尻を下げ、顎を引き彼女の様子をうかがった。プリンセスは小夜の反応に驚いた様子で一瞬、口もとをキュッと結んだ。そして小夜が何を思ったのか察した様子で、優し気に目を細めた。

「皆を置いていく?…そんな事はしないわ――必ず帰って来るもの。興味本位で夜のお散歩よ」

 プリンセスは小夜の小さな頭を撫でながら淡々と口にした。江雪や宗三とは違った彼女の手の温もりに小夜は瞳を閉じた。ほのかに口元を緩める小夜をプリンセスは、まるで子をあやす母の様な穏やかな表情で見据えた。これは、日暮れのことだった――。





 今宵は満月――。
プリンセスは夜の主役を目にして微笑んだ。机に向かって下ろしていた腰を上げ、肩に掛けていた羽織りに腕を通した。そして裸足のまま革草履を履き、静かに戸を開け、床をでた。

 後ろを振り向くと本丸の敷地の所々で明かりが灯っている。この夜の静かな時間を皆はどう過ごしているのか、そんな事を考えながらプリンセスは歩いていた。
 本丸の正面門を抜けると、すぐ目の前には森林が広がっている。しかしその中の一か所には、ごっそりくり抜かれた様に開かれた細い道があった。これがどこに繋がっているのか――彼女の胸をくすぐるのにはちょうど良い秘境だった。

 砂利道でもなく、乾いた固い土がつづく道。彼女が足を踏み入れるうえで頼りになるのは空に散らばる星と大々的な月、それから昼間、今日の近侍であった彼の言葉によって掻き立てられた好奇心、それだけだった。
 
 大般若長光――。
彼を顕現した時、プリンセスは目の前に現れた彼の姿に瞳を逸らせなかった。彼の従容とした佇まいに圧巻したのだ。これまで顕現してきた男士たちとは違った、次元の違う、先を行ってしまった様な雰囲気に目を奪われた。そして彼から漂う、不思議なヒトを酔わせる匂いに鼻を奪われた。更に彼は、プリンセスより先に言葉を発した。凛としているが吐息交じりの低い声。それは彼女の耳を奪った。そして最後に見せた微かな笑みによって彼女の心を奪った。
 恐らく彼は、あの瞬間にプリンセスが自分に落ちた事に気づいた。そしてプリンセスも誤魔化しようがないと素直にその気持ちを認めた。だが、どちらも言葉にすることは無かった。プリンセスは他の男士と同じ様に自然と彼と接して過ごしていた。そしてプリンセスは彼と接していくうちに気づいた――まだ、奪われていないものがあると――。
 だから、まるでそれを主張する様に、彼の前で彼女は、そこを触った。その後に彼はプリンセスにあの言葉を口にしたのだ。

 どのくらい歩いただろうか、プリンセスはずっと前だけを向いて後ろは振り返らず、歩み続けている。もう中間地点なのだろうか、目に見える景色は何の変化も無い、距離感覚さえつかめない。このまま引き返してしまうか、と足を止めた。彼女の耳に響いていた革草履が地を引きずる音が消え、一瞬にして彼女の心に寂寥感を与えた。
 しかし、彼女の心には、ほんの少しの好奇心が残っていた。もう少し進んでみよう――そう思って右足を前に出した時、役目なく下ろしていた腕が突然後ろに引かれた。一瞬、心臓が跳ね上がった。背後に感じる誰かの気配。プリンセスの身体を瞬時に硬直させたのだが、彼女の耳にかかった甘い吐息によって身体の緊張がほぐれた。

「これ以上進むのは、良くないな」

 プリンセスは耳がキュッと縮こまったような気がした。背後から耳元に囁かれた吐息交じりの低い声。それは彼女の耳を奪ったあの声だった。プリンセスは一つ息を飲んだ。そして恐る恐る口を開いた。

「貴方は――鬼なの?」

 あどけない少女の様な云い方だった。すると背後にいる人物が、喉を鳴らし笑った。低くてきれぎれな小さな笑い声にプリンセスの耳は、こそばゆくなった。

「おやおや、暗闇で頼りになる聴覚は働いてないのかい」

 先ほどよりも抑揚のある声だった。プリンセスは彼のいう言葉に恥ずかしさが込み上げた。聴覚は、耳は、奪われたのだ。プリンセスは気づいていた。誰が今、自分の腕を掴み、背後に立っているのかを。彼女はその人物を頭に浮かべゆっくりと振り返った。

 彼女の目に映ったのは、やはり彼女が想像した通りの人物――大般若長光だった。プリンセスは、月光によって微かに見える彼の美しい顔に腰が抜けてしまいそうになった。しかし、落ちる事は無かった。大般若長光が、彼女の腰に手を添えていたから。
 彼は目を細めてプリンセスを見据えている。プリンセスも彼の切れ長な瞳をそっと見つめた。そして口を開いた。

「鬼に、襲われに来たの――。」

 静かな声でいった。風の音もなく、彼女の声だけがその空間に響いた。プリンセスは自身が発した言葉に気恥ずかしくなった様で、キュッと彼の服を握りしめた。大般若長光は、彼女の言葉を耳にして、口元を緩めた。そして、そっと彼女の腰に当てていた手を滑らせ、彼女の唇をなぞった。まだ、奪っていなかった、奪われていなかった場所――。彼はそっと顎を掴んだ。

「そうか…そういうことなら…」

 吐息交じりの低い声。大般若長光はプリンセスの顔を上に向けた。彼女の瞳は酷く揺れていて、頬もほのかに赤みを増していた。大般若長光の心を掻き立てるには十分すぎる反応だ。そして彼は、そっと顔を近づけた。吐息がかかるほどの距離で止まる。

「噛みついても、問題ないってことだな」

 彼は、ほのかに口元を緩め一言囁いた。
プリンセスがゆっくりと瞳を閉じると、唇に唇が重なった。彼女から全てを奪った鬼の口づけは甘かった。