憎悪


あの日以来、どうも気分が晴れない。仕事をしている時も、娯楽に費やす時間でさえ心にずっと引っかかっている、胸が張り裂けそうになるなんとも言えない堀川国広の顔。

表情を作るために鏡の前で化粧を施すが、気持ちが乗れず鏡の中の自分に向かって深くため息を吐く。

「名前さん」

突然襖の奥から名を呼ぶ声が聞こえてきた。慌てて襖の方へと目をやり、はい、と一言返事をする。

「和泉守兼定様のお連れの方がいらっしゃいました。」
「え…」

心臓がドクッと脈を打ったのがよくわかった。そんな人物は1人しかいない。なぜ来たのだろうか、それだけが頭の中でぐるぐると回っている。

「…わかりました。…直ぐにお通し頂いて構いません。」

襖の向こうにしっかり聞こえる様に言葉を返す。緊張する気持ちと共に襖の方に向かって体勢を立て直し襖が開かれるのを待つと妙に身体がこわばった。少し恐れを感じているのかもしれない。

そして、静かに襖が開かれ同時に頭を下げて出迎える。しかし言葉は発さなかった。きっと目的がそれでは無いと分かっていたから。

下げた頭を上げると、神妙な顔つきが目とまる。そして襖が閉まり、真っ直ぐ私を通り過ぎ戸が開かれ、そこからよく見える町に目をやる堀川国広。

「今日はなぜお一人でいらしたのですか。」

まだ大人になりきれていない背に言葉をかけると、堀川国広は私の方に振り返った。月を背にしてみる青年というのはこんなにも、澄んだ瞳を持ち合わせているのだろうか、やはり私を見る堀川国広の瞳は嫌悪感を思わせる。

こくりと唾を飲み、言葉を待つ。
堀川国広の瞳は私の瞳をじっと見つめている。晒すことができない。

「僕に教えてください。」

冷酷なまでに澄んだ瞳と共に、更に肝を冷やされる言葉を零す堀川国広と言う青年、いや、男に私は、ただ唖然とするばかり。

すると、一歩一歩と私に距離を詰める堀川国広。月の光が、この男の背によって消えてゆく。

目の前まで来ると畳に座る私を見下ろす瞳に背筋がゾクゾクとした。

そして、私の目線に合わせ片膝をつき平行に真っ直ぐ混じり合う瞳。
堀川国広の細長い指先が私の頬を撫で、流れるように唇へと触れた。

「…まっ…て…」

「待てない。僕を男にして。」

気付いた時にはもう、私の唇に堀川国広の唇が触れていた。





名残惜しむ様に薄っすら空に残る欠けた月に体を向けながら身支度を整える堀川国広の背をじっと見つめながら自分も着物に手を通す。

やはり似た者同士だなと思った。
和泉守兼定も、こうして背を向け身支度を整える。
が、堀川国広の背と和泉守兼定の背は大きさも違う。そして背負うものも違うのかもしれない。

どちらとも言葉を交わすことなく、沈黙の空気が流れた。

「兼さんには、貴女との事を何も言いません。」

すっかり正装された姿で私に目を向ける堀川国広。その瞳に、私の心は微かに痛みを感じた。

「貴方が黙っているのなら、私も決して言いません。」

気持ちを押しこらえて、言葉を返せば堀川国広は爽快な笑みを浮かべた。だが、その目は酷く冷たかった。

「じゃあ、僕は行きます。」

あっさりと言葉を放ち私の横を通り過ぎたその面影には微かな哀愁が漂った。

「まって…!」

朝の空気には似つかわしくない声を上げ振り返ると、襖に手を掛けたところで私に背を向けている堀川国広が目に映る。

私はその背に更に声を上げた。

「もう、貴方はここへ来るべきではない…私は貴方の瞳を濁らせてしまう。」

私は一体何を言っているのだ。
この青年が望んだ事なのに。
まるで、自分が欲望を押し付けた様な気がして自分に対して嫌悪感を抱いた。

静かに開かれた襖。
そして、虚しく閉ざされた。
ただ一人残された部屋で不思議と涙が溢れた。