恍惚


彼が来ると女達が煩い。
二階から赤く輝く艶かしい街を見れば遠くの方でまるで皆んなが彼の為に道を開いているように、彼がこちらに向かって来ているのがよく分かる。

ピンクの髪に、どこか儚く、憂い顔立ち。線の細い身体。道歩く女が足を止め振り向き、男が見れば射すくめられる、それ程彼から放たせる雰囲気は異色である。

「…皮肉な男ね。」

彼に対する周りの扱いが可笑しく口元が緩む。
ジッと目で追っていた為か、気づかぬうちに彼がもう私のいる建物の下に到達していた。どうやら私に気づいているみたいで顔を上げ不思議な笑みを浮かべている。

しばらくの間交わり合う視線。
瞳を閉じ、一つ二つ、と心の中で数え、開ければ彼はいなかった。

私は、先ほど彼がいた場に背を向けほんのり明かりの灯る部屋の中央、敷かれる布団を超え、畳の上に膝を曲げ、座り込む。打掛がパサリと広がり華やかさを醸し出す。

静まり返った部屋に、微かに隣の部屋の女と男の賑やかな声が聞こえるが、一番に自分の心臓を鼓舞する音が響いている。

襖が静かに開かれた。私の目に映るのは白く痩身な脚。

「ようこそ、お待ちしておりんした。宗三様。」

一言一句力を込め、手をハの字に揃え、頭を下げれば襖が静かに音を立て差し込む光が閉ざされた。

「名前、似つかわしくない言葉を使いますね。」

クスクスと笑いながら私の視線に合わせるようにしゃがむ彼、私はゆっくり顔を上げた。

「…これが本来、旦那様に対しての言葉の使い方なんですけどね…冗談ですよ、いらっしゃい、宗三左文字様。」
「そう、それが貴女らしいですよ、名前」

口元を緩め、私の顎を捉える宗三左文字。そして顔が近づいてくる。唇が触れるか触れまいかその寸前、瞳を閉じた。

「…今宵は満月…月見で一杯と、いきましょうか」

視界を閉ざしている分、その声が良く耳に響いた。まるで自分が期待していたかの様な雰囲気に恥ずかしくなり慌てて瞼を上げると、意地悪な笑みを浮かべる宗三が目にとまる。

「本当に、可愛らしい人。」

いつも、突然だ。しっかりと目を見て言ってくるものだから照れてしまう。しかしそれを悟られない様に立ち上がり、月の良く見える方へ振り向き、酒とお猪口を揃え、宗三に背を向け座る。

すぐに、笑みを浮かべたまま宗三は私の隣に足を崩した。そしてお猪口を手に持ち、私の方へと伸ばし、私は酒を傾け流してゆく。

「…名前も、ご一緒に。」

そう言い、もう一つ置いてあるお猪口に持ち替え、酒を待つ私の手に自身の手を添え、二人で酒を流し込む。宗三の手は微かに温かい。

「では、いただきます。」

会釈をし、喉に流すと少し辛い味わいが口に広がった。空を見れば、確かに今宵は満月だ。ふと、隣の宗三に視線を向けると、とても穏やかな表情で月を眺めている。

時々思う。本当に、彼は刀剣男士なのだろうかと。とても彼が刀を振るう姿など想像出来ない。

「僕の顔に何かついていますか?」

突然かけられた言葉にハッと意識を戻すと宗三は少し困惑する様な表情で私を見つめる。

「い、いえ…ただ…宗三様が刀を振るう姿が想像出来なくて」
「…なるほど。」
「…はい…」

それっきり返事は無く黙って静かに酒を飲み月を見上げる宗三。私は地雷を踏んでしまったかと、発した言葉に顔を苦め、下を向く。すると丸盆にお猪口が少し音を立てて置かれた。私は慌てて酒を入れようと自身の手に持つお猪口を置こうとした。

「…それは、つまり男らしくないと…?」

静まり返った空間にポツリと零された言葉。手を止め、顔を上げると宗三は、いつもの憂いを思わせる表情ではなくキリッと、相手の心に矢を打つ様な凛々しい表情をしていた。

その姿に心惹かれてしまい、口を閉ざしたまま見つめていると私の手に触れ、持っていたお猪口がスルリと取られ、静かに丸盆に置く音が耳に残る。

瞳を晒さず、いや晒せず、捉えられたまま宗三が距離を詰める。後ずさる様に足を崩した。

「宗三…様?」

名を呼んだのと同時にバサッと打掛が畳に広がる音が虚しく、空気に呑まれる。

目に映るのは、微かな月の光に照らされる天井、そして未だ凛々しい顔つきの宗三。

宗三の一本、一本細く長い指が唇になぞる様に触れる。それが何だか惜しくて目を細め視線を逸らすと、大きく開いた襟、胸元から白い肌の色を引き立てる黒い刻印が目にとまる。

その意味を私は知っている。ここで勤める前に文書で読んだ。そして彼の口からも告げられた。

彼に似つかわしくないその刻印が何とも愛おしく感じてしまう。唇に触れる指に耐えられなくなり、次の行為を急き立てる様に舌を微かに出し指を軽く突くと、予想外だったのか、目を丸くする宗三。

その反応が嬉しくてニヤッと笑むと、困った様に笑みを返す宗三。そして瞳を閉じるのと同時に柔らかい唇が私の唇を包み込む様に触れた。
視界を閉ざす前に見た満月は、強く光り闇夜を照らしていた。