抱擁


ふと、隣に感じていた温もりが消え、それに気付き瞼を上げれば、外を眺める男の背が目にとまる。黒くしなやかに伸びる髪、その後ろ姿をうっとりとしばらく見つめてみる。

そして静まり返った空間に逆らわない様に音を立てず立ち上がり、一歩後ろで同じ様に外の景色を眺めた。目に映るのは、両脇に赤、黄、橙の葉を持つ木々が連なる運河。少しひんやりとした朝方に微かな霧がかかっている。

「もう…行ってしまうのですか…」
「…ああ」

僅かに此方に首を傾ける男、和泉守兼定は短い返事をしてすぐに首を戻した。そんな素っ気ない態度に、少し心寂しくなり俯く。

すると、和泉守兼定の足先がこちらに向いた。恐る恐る顔を私よりもはるかに高い彼の背丈に合わせ見上げれば視線が交じり合う。そして男を思わせるゴツゴツとした指が私の頬を撫でる。まるで猫の様に頬ずりすれば、ふっ、と鼻で笑われる。

「次はいつ、会えますか…?」

頬に触れる手に自身の手を添え不安げに問うと、和泉守兼定は眉を潜めた。その表情からは少し哀愁漂うものを感じる。

「しばらくは、こっちに戻らねえ…な」

少し間をおいて、そうですか、と微かな声で言葉をこぼし、淋しさを紛らわす様に薄く笑むと更に頬に触れる大きな手の温もりが恋しく感じた。

しかしスルリとその温もりが消えてしまった。和泉守兼定が私の頬に触れる手を離したのだ。まるでお気に入りのおもちゃを取られてしまった子供の様に眉を曇らすと困った様に笑み、手を握り引き寄せられた。その流れに乗るように和泉守兼定の胸に静かに身を寄せる。すると、私の背に回る腕の力が加わり、空気の入り込む隙間の無い程に密着する。そして首元に顔を埋めている様だった。

「和泉守兼定…どうかしましたか?」

くすぐったいです、と身をよじらせると更に私を抱く腕の力がこもる。ここまで強く抱きしめられたのは初めてかもしれない。

「…名前をこうして抱きしめてると、なんていうか…落ち着くんだよな…」

どこか切ない消え入りそうな声で耳元で言うものだから、その言葉の心情が耳から全身にじーんと染みてくる。なんだか泣きそうになってしまった。

暫くの間、どちらも言葉を発することなく、朝の静かな、少し肌寒い空気だけが流れていった。自分自身もこの状態が居心地良く永遠に続けば良いのにと思ってしまった時、首元に感じていた圧が消えた。どうやら顔を離した様で、少し名残惜しい。

そして真っ直ぐ真剣な眼差しが私の目を捉える。本当に整った顔立ちで、恥ずかしくなり目を逸らしたい気持ちがあったが晒すことができない。そしてどちらとも無く瞳を閉じ、唇が触れた。

最初はただ触れるだけのものを繰り返していたが、次第に力無くなり開いた隙間から舌が入り込み、お互いを求める様に絡め合った。そして最後にもう一度触れるだけのものをし、唇は離れて行った。ゆっくり閉じた瞳を開けると視界の端から朝の陽の光が差し込み始めているのがわかる。

「…そろそろ、お時間ですね…」
「ああ、そうだな…」

どちらもまるで、別れを惜しむ様に言葉を発した。そして私は微かに骨格を上げ笑むが、しっかり笑えていただろうか、と思いながら和泉守兼定の横を通り過ぎ、シワにならない様に掛けられている羽織りを手にして、様々なモノを抱えているのであろう、その大きな背に掛ける。

「…ありがとうな」

掛け終えると、こちらに振り向き笑みを浮かべる和泉守兼定。私は首を左右にゆっくり振る。そして、キリッとした眼差しで瞳を捉えた。

「無事に帰って来られるのを願ってます。…ご武運を…!」

一言一句、力を込め告げれば、一瞬ハッとした様な表情で私を見つめる。そして一度目を閉じ、開けた時には逞しい強い眼差しが向けられた。

「行ってくる」

その一言に身が微かに震える。揺らぐ瞳で見つめていると一度、口元に笑みを浮かべた気がした。まるで私に心配するなという様に。そして襖の方へと向かってゆく。最後に、大きな運命を背負った背を無事を祈る様に、見送った。