海溝まで




 海の高い波は頑丈な岸壁を打ち、潮風は髪を撫でる。大きく深呼吸をして断崖絶壁、あと一歩踏み出せば底の見えない青い海の中に落ちてしまう所ぎりぎりまで足を進める。恐れなど無い、もう慣れた。「今日こそは」と願う様に口ずさみ、余裕を思わせる笑みを浮かべ私はスーッと体の力を抜き、海へと身を投げた。

バシャンと水しぶきの音から一変、聴覚を失ったような静まり返った海の音。海に身を委ねるが、この身をすべて捧げるわけでもなく息はしっかり止めて、だけど深く、深く、沈んでゆくのを望んでいる。そうすれば、私の求めているものが現れる。胸が高鳴る気持ちと共に薄っすらと海水に負けじと目を開けると、僅かに海の流れが変わった。そして此方に近づいてくるゴールド色の二つの輝き。「やった」と慢心した瞬間、心に彼の声が聴こえてきた。

また来たのか、随分と迷惑な女だ。

そんな事を言いながらもいつもの様に私を背に乗せ、その大きな翼を広げて深い青い海から爽やかな水色と白の空へと緩やかに羽ばたくその姿。私が求めている存在。嬉しさのあまりぎゅーっと、たくましく長く伸びた太い首元に密着すると、僅かに私に顔を向ける彼。その顔はどこか呆れている様な表情をしているが、私はそんな事お構いなしに満面の笑みを返した。

「やっぱり来てくれると思ったわ!ルギア!」

聴覚だけじゃなくて視覚にも触覚にも届けた気持ちが溢れすぎ、とても大きな声と口が乾いてしまうほどに骨格を上げて、抱き着く手の力も強めれば、ルギアにその気持ちが鬱陶しい程に届いたらしく、ルギアは困ったような表情を浮かべ、そしてまた私の心に声を響かせた。

何度目だ。こうして私に会う為にか…海に飛び込むのは。

「5回目よ。」

私が自信に満ちた様子で即答するとルギアは微かにため息を零し、空を大きく迂回して、先ほど私が飛び降りた岸へと翼を静めて着地した。私を下ろすために首を下げるルギア、私はひょいっと風に揺れる草地へと飛び降り、ルギアの顔がよく見える正面へと移動した。

「もう、いい加減風邪ひいちゃうよ」

口を尖らせてはぐらかす様に言えば「止めれば良い」と大息をつくルギアに、その言葉は御尤もだと思いながらも誤魔化す様に笑みを浮かべると、ルギアのシュッとした口先が軽く私の額を押した。少しひんやりとした口先に、額を抑え「何よ〜」と顔をしかめっ面にすると、ルギアはフッと鼻で笑い、下げていた首を上げ私を高いところから見下ろした。負けじと腕を組み仁王立ちでルギアを見上げ、私は毎度お馴染のセリフを口にした。

「私の仲間になってよ」

そして毎度お馴染み、ルギアは呆れた様な表情で静かに瞳を閉ざし、首を左右に振った。また断られると分かっていた事だが大袈裟に惜しみの籠った溜息をつき、強気に組んでいた腕を敗北を思わせる様に下ろし、その場に突っ伏す。

 私とルギアの出会いは、日としてはとても浅い。けれども、その出会いは私の人生の終わりをうってしまう程命がかったものでとても深いのだ。あれは、十年に一度、いやもっとかもしれない、生きている間で経験することは中々ないと言われるほどの大嵐の日だった。波が高く、力強く岸壁を圧し、濃厚な灰色がかった空から隙間なく大粒の雨が降り注いで、このまま島が海に飲み込まれてしまうのではないかと思った時に、ある老婆が口にした「海の神様が鎮めてくれるさ」という言葉に私の胸の内が苦しい程に跳ねた。好奇心でもない、初めて経験する胸の高鳴り。ただ会いたい、それだけを思って気づいた時には荒れ狂う海に吸い込まれるように身を投げていた。地上では雨の音が酷く耳を鼓舞していたが、海の中は一切音がなく、深い青が広がる世界でこのまま死んでいくのか…と思った、その時に肉声とは違う、不思議な声が響いてきた。それは声なのか、でも耳に語り掛けている様なものではない声、そう心だ、心に響く声だった。

面倒事を増やすな。

それが初めて彼が私に発した言葉だった。私に近づいてくる大きな影に恐怖を感じたのか、思わずハッと息を吸ってしまい、気づいた時には意識を手放していた。目覚めた時には柔らかい草原の上で横になっていて空に闇雲は一切なく、嵐の去った後のしゃんしゃんと照りつく太陽の光だけが私を見ていた。でも、私は確実に”海の神”に助けられた。そしてもう一度、会いたい、もう一度、声を聴きたい、そう思って間もない内に私は、また海に飛び込んだ。

おい、princess。

深い海の渦潮に吸い込まれた様にちょっと懐かしい記憶を回顧していたら、ルギアの凛とした声が私の名を呼んだ。瞳を揺るがせると、訝しげな表情で私を見るルギアが目に映った。私はフッと小さく笑みを浮かべ、ルギアの心に問いかけた。

「どうして私を助けるの。」

一回目、嵐の海に飛び込んだのは、誤って落ちてしまったのだろうと認識して助けるのは当然だと思う。しかし、二回目、三回目、と回数を重ねれば「ワザとだ」と感づいて、息苦しくなり自力で地へと戻る、と放っておけば良いと考えるだろう。しかし、ルギアは毎回私を背に乗せ光のない深い海から空へと眩しくて仕方ないはずの地へと私を運ぶ。

「世界は物凄く広いのよ!私は貴方にそれを見せたい!」

求めていない。

率直なルギアの応えに私の心がズタズタと折られていく。でも、あと一押し、あと少しで絶対にルギアの応えが変わるような気がした。しかし、それが分からない、だから心に思っていることを言うしかない。私はルギアの様に心に語り掛けることは出来ない、だから肉声の言葉で伝えるしかない。

「正直に言うとね、貴方に見せたいんじゃなくて、私が見たいの…でも、そこに貴方がいて欲しい…ルギアと一緒に世界を見たい。」

自然と勇気を振り絞る様に胸元で握りしめていた手の力が和らいだ。ルギアは一瞬驚いた様に瞳を大きく見開いたが、すぐにいつものシュッとした鋭角な形に戻し、心に問いかけてきた。

それは、お前の願いか。

「そうよ」と真っ直ぐにルギアの吸い込まれてしまいそうなほど深い色味の瞳を見つめると、一度瞳を閉じるルギア。そして、ふう、と息を吐き、閉じていた瞳を開けて私を捉えた。

ならば、私の願いも聞いてほしい。

ルギアの言葉に、まさかそんな事を言われるとはおもわず、衝撃で唖然としてしまった。言葉が喉に詰まって、うんうん、と大きく頷く。私は、神様の願いとは一体どんなものなのか、想像もつかず、息をのみルギアの言葉を待った。するとルギアは自身の大きな翼を広げ、ゆっくりと私を包み込んだ。それはまるで岸壁を打つ海の波の音と草原を揺らす風の音を閉ざす様に、今この世界にルギアと私だけしかいない様な、そんな感じだった。そして私の心にルギアの声が響いた。

私は、princessと共に生きたい。

それが私の願いだ。

今まで、耳に響くことはない不思議な声だったのに、それはいつの間にか私の心から全身へと広がっていった。ルギアの願い、私は堪らなくなって、心が満たされて、そして溢れて、涙となり頬に伝った。この感動に満ちた気持ちをどう言葉に表したら良いかわからず、動揺も込めて、突っ伏し揺らぐ視界でルギアを見つめる事しか出来ない。するとそんな私に見兼ねた様にルギアの舌が私の頬に伝る涙を拭った。

私の願い叶えてくれるのだろう。

そう言って、次々と零れる涙を掬うルギア。そして私は人生で今までにないくらいの笑みを浮かべ大きく頷いた。