君次第だ


「なぜ、貴方も乗っているの?」

 プリンセスは隣に座る心底清々しい表情を浮かべるワタルに目も向けず、辛辣な口調で訊いた。二人はチェックアウト後、プリンセスは研究所に帰るといってタクシーに乗り込んだが、ワタルもしれっと乗車してきた。昨夜の事もあり、プリンセスは気まずい気持であった。一方ワタルはそのような素振りも無く、寧ろ清々しい心持ちの様で、プリンセスをイラつかせた。

「プリンセスについた"ムシ"がどんなものか見に行こうと思ってな」

皮肉のこもった言い方だ。プリンセスは車窓から外の景色に目を向けて深いため息をついた。昨夜の行為が脳裏に浮かんだ。ワタルのごつごつとした手先、筋が通った腕、力んだ拍子に浮き出る血管、そして絶頂を迎える寸前に寄せられる凛々しい眉、大人の男を思わせるパーツが揃っているのに、今の彼の云い方はどこか子供じみていて、ヘンテコに感じた。

「とても、優秀なムシさんですよ」

さらにプリンセスは挑戦的な口ぶりでワタルを見た。そんなプリンセスの瞳に映る自分ではない男の影にワタルは「ふっ」と鼻で笑った。
 自分は思った以上に彼女を翻弄する男に嫉妬している様だ――。

「そうかそうか、それはより一層心配だな」

プリンセスには彼の言葉に意図が読み取れなかった。昔からそうだ。気にかけてくれているのはよくわかる。しかし彼の彼女に対する執着心というのは中々あっさりしたものではないのだ。頂点に君臨した男というのはこんなにも全てを自分の手に収めたいのか、とプリンセスは心底呆れた。

「私、ジョウトに帰らない」
「君に否定権はない」
「あるわ…もう子供じゃないもの」

プリンセスは強く言い放った。車内に漂う重みの増した空気。運転手は乗客二人を一瞬だけバックミラーから覗いた。
 
 以前までは本当に大人といえるのか、一人の大人として存在している事に自信が無かった。しかし今はもうハッキリと自分が大人である事に自覚があった。するとワタルはいぶかしげな表情を浮かべかぶりを振った。

「プリンセス、君がここを離れたくない理由が分からない。君はバトルが好きなのだろう。しかし君が今いるのは研究所だ。バトルをする場ではない。君にはリーグの方が合っている」

彼は彼女を諭す様に真っ直ぐ、その熱い眼差しを向けて云った。プリンセスは視線を逸らした。彼女の脳裏には走馬灯の様に様々なものが過った――初めてモンスターボールを手にした時、ジムリーダーに挑みバッジを手にした時、バトルで負けた時、ワタルや各地方のチャンピオンとのバトル、そして最後に色鮮やかに研究所の風景が過った――研究所内の庭でいつも駆けまわっているポケモン、いつも賑わっているソフィーやコゼット。そして常に穏やかな表情を浮かべ、ポケモン達皆に愛されているプラターヌ。プリンセスは、自然と頬を緩めていた。

「確かに私は…私のパートナーだってバトルが好き…でも今はあの研究所にいたいの…私の経験があの人の役に立っているから…あの人の為に――」
「プリンセス、本当に君についた"ムシ"は相当厄介な様だ」
「だから、あの人は――!」
「惚れたか?」

ワタルが言い放ったその一言にプリンセスは言葉を失った。ワタルの眼差しがとても鋭かった。プリンセスは心臓がドクドクと煩わしい程に脈打っているのがよく分かった。そして彼女は彼の一言によってようやく自覚した――自分はプラターヌに好意を抱いている。

「そうか…益々、会いたくて仕方が無い」

ワタルはため息交じりに呟いた。プリンセスは妙な静けさに肌が痛くなった気がした。

「余計な事は言わないで」

小さな声で彼女はいった。ワタルはそんな縮こまったプリンセスを一瞥し、ふっと笑った。

「ああ、俺はいつだって君の見方だ。君に損はさせないさ。」

ワタルは車窓から見えたプラターヌ研究所を見据えて口にした。




「これはどうも、御初目にかかります」

 揚々とした口調で云う男にプリンセスは呆れた様に溜息を吐いた。彼女らを出迎えるために玄関に現れたプラターヌは一瞬、すっとんきょうな表情で停止したがすぐに目尻に皺を寄せ、ようこそ、と口にし、ワタルを屋内に招いた。遠慮なく中に入るワタルは、研究所内をきょろきょろと見回し、立派だ、と口ずさむ。
 ワタルが何か余計な事を口走らないか、心配のあまりプリンセスの顔は訝しげに彼の背を見ていた。ふと、玄関で突っ伏したままのプリンセスにプラターヌは彼女の名を呼ぶ。

「プリンセス」

はっと目をプラターヌに向けた。彼は優し気な笑みを彼女に向けている。

「おかえり」

包み込むような声色でそう口にした。プリンセスは突然とてつもない安心感に泣きそうになった。
 私はこの人の事が好きなんだ――。
先程突如目の前に突き付けられた自分のプラターヌに対する想い。プリンセスはワタルに続いて歩き出したプラターヌの背を惜しげに見つめた。



「突然押し寄せてしまい、申し訳ない」

 プリンセスはワタルの言葉に謝罪の意が微塵も無い様な口ぶりだ、と思った。
 ポケモン達の絵が飾られた廊下を越え、温室の透明な屋根から陽光が降り注ぎ、この研究所内にいるポケモン達の様子が一番に見える部屋でプリンセスとワタル、向かいにプラターヌがソファに腰かけている。

「いいや、遥々カントーからチャンピオンがお越しいただけるなんて滅相も無い」

プラターヌの屈託ない笑みがワタルに向けられる。ワタルもそんなプラターヌにほのかに笑んだ。そして「ところで」と口にした。その後口ずさむワタルにプリンセスは、一体何を口にするのか、一瞬心臓がどきっとした。

「うちのプリンセスが世話になったみたいで」

困った様な笑みで一度隣のプリンセスに目配せ、彼は云った。うちのって何よ、と保護者目線の様な口ぶりに少々癇に障った。むすっとワタルを睨むプリンセス。プラターヌは目の前の二人が仲の良い兄妹の様だ、と感じた。プラターヌは首を横に振る。

「とんでもない。彼女がこの研究所に来てくれたおかげで研究もはかどっているんだ」

プラターヌの言葉にワタルは、ほう、とそのワケを訊いた。プラターヌは一度、紅茶の入ったカップを啜ってから言葉にした。

「彼女のこれまでの冒険、経験が僕の研究に大きく成果を与えている」

プリンセスは不思議と目が潤んだ。ただとてもプラターヌのその言葉が嬉しかった。
 私の経験が、この人の役に立っている――。
するとプラターヌは彼女に目配せた。

「プリンセス、君には感謝しているよ」
「博士…」

プリンセスは思わず零れてしまいそうになった涙を人差し指で掬った。そんな温かい空気に包まれた中、水を差す様にワタルの言葉が放たれた。

「しかし博士、貴方もご存知の通り彼女は多くの地方で名を轟かせたポケモンマスターだ」

高圧的な彼の口調にプラターヌは頷いた。

「多くの地方で彼女の引退が噂されている」

初めて耳にした噂にプリンセスは大きく目を見開いた。ワタルは前かがみに熱い眼差しをプラターヌに向ける。

「少年少女達が彼女に憧れてトレーナーとなり、彼女を目指している」

プリンセスは彼の言葉を拒む様にぎゅっと目を閉じた。しかし眼裏に浮かぶのは自分にバトルを挑む小さきトレーナー達だった――。

「そんな希望ある子ども達を悲しませたくないんだ」

これまではきはきと口にしていたワタルの声が切なげに小さくなった。プリンセスは、やめて、と言葉にした。

「プリンセスはまだ伸びる」

彼女の気持ちに追い打ちをかける様にワタルは言葉を発する。プリンセスは彼のひざ元をぎゅっと握り絞めた。

「俺は彼女の才能を無駄にしたくないんだ」

トドメノ一言。それを食らった様に耐えられず、プリンセスの下瞼から涙が零れた。
 自分はあの舞台から降りることが出来ない。
とめどなく、彼女の瞳から涙が零れ落ちる。ワタルは仕方ないという目で彼女を見た。するとプラターヌが、ワタルさん、と彼の名を呼んだ。

「彼女に新たな道を与えても良いのでは?」

プラターヌの言葉にプリンセスは無理やりに笑んだ。彼の言葉が嬉しかった。

「そうか…なるほど」

ワタルは何か考える様に顎に手を寄せた。しばらくして、ではプリンセス、と彼は何か思いついた様子で声を上げた。

「俺とバトルをしよう」

彼の突拍子のない発言にプリンセスもプラターヌも驚いた。

「君が勝ったら君は自由だ」

ソファから立ち上がり、ガラス越しに温室のポケモン達を見つめるワタル。プリンセスは彼の背に注視する。

「ただし俺が勝ったら、プリンセス。一緒にリーグに帰ろう」

こちらに向けられたワタルの双眸に、プリンセスは一瞬身体が動かなくなった。しかしすぐにバトルを行えるほどの手持ちではない、と彼の思案に抗議した。するとワタルはマントの中に手を忍ばせ、彼女の目の前に三つのモンスターボールを突き出した。

「君が優秀なトレーナー達に預けていた君のパートナーは今ここにいる」

確かにそれは暫く冒険をしないだろう、とバトル好きの子達を自分が信頼と尊敬におけるトレーナー達に預けたパートナーのボールだった。初めからこれが目的だったかの様に裏で捗られていた彼の策謀にプリンセスは呆然とした。

「俺は本気で君に挑む。あの時とは違う」

きっとワタルの脳裏には初めてプリンセスとバトルした時のことが浮かんでいるのだろう、とプラターヌは悟った。

「君はもう一度俺に火を灯した」

プリンセスの手に三つのモンスターボールが手渡された。

「これが最後になるか、始まりか、君と君のパートナー次第だ」

明日こちらに伺う、とワタルはマントに手を掛け、その場から立ち去った。

 ワタルが去った後、プラターヌはプリンセスが座るソファの隣に腰かけ、下を向く彼女の肩にそっと手を添えた。その繊細な温もりにプリンセスは顔を上げて彼を見た。

「バトルで決めるとは、何ともチャンピオンらしい…と、思うべきか」

プラターヌは眉を下げ困った様に云った。プリンセスは手元にあるモンスターボールを見た。

「私は、この子達に顔向けできない」

 今でもこの子達と過ごしてきた日々を鮮明に思い出すことが出来る。しかし自分は放棄したのだ。この子達の意を受け止め切れなかった――。

「プリンセス…」

眉根を寄せ、苦し気な表情をうかべるプリンセスにプラターヌは優しく彼女の名を呼んだ。

「この子達はどんな時もキミと共に歩んできたポケモン達なんだよね」

きっと君の気持ちを理解している、とプリンセスに笑みかけた。

「久々の再会だろ?…この時間のペール広場は静かなうえに温かい日差しが降り注いでいてとても気持ちが良いよ」

ぜひ行ってみると良い。
そうプラターヌは口にし、もう一度彼女に笑みかけた。




手持ちポケモンに関するアンケート