トリップ一般人と潜入中のクロロ

「(私は、どうしたらいいのかな……)」
私の心情とは真逆の雲ひとつ無い青空をガラス越しに見ながら私は、否、私達は大きな脚立に乗って窓拭きをしている。私はのろのろと、隣の窓を拭いている彼はてきぱきと。昨晩の出来事、そして今朝の出来事。ちゃんとやらないと何をされるかわからないのに、私の頭は焦りと恐怖、そしてこれからの事でいっぱいいっぱいだった。
そもそもどうしてこんな事になってしまったのか。
昨晩私は、毎週見ているドラマを見たあとさあ寝ようと寝室の扉に手を掛けた。そしていつもなら見慣れた寝室が見える筈だったのだ。だが実際に見えたのは広い執務室のような部屋に全く知らない男性が数人。瞬間、頭が真っ白になった。
「……え?」
目をこれでもかと見開いて固まる私と、同じ表情で固まる男性達。ただ一人、金髪の男性だけは片眉を上げたあとすぐに目を細めて私を見ていた。状況が理解出来ずに全く動けない私とは裏腹に、驚いた表情をみるみる怒りに染め上げた男性達は一斉に立ち上がる。そして「テメェは誰だ」や「どうやって入って来た」と、普段仕事などで接している男性よりも明らかに体格ががっちりしている男性達に詰め寄られながら、私は恐怖と混乱から上手く言葉が発せずにいた。その内痺れを切らした男性の一人が私に手を伸ばす。体格通りの分厚くて大きな手だ。捕まえようとしているのか、はたまた殴ろうとしているのか。どちらにせよ来るであろう衝撃に咄嗟に目をぎゅっと瞑り身体を縮こませた。
「っ……」
だが、いくら待っても衝撃は来ない。それどころか何故か男性達の動揺したような声が聞こえて恐る恐る目を開ければ。
「な、なに、これ」
私を包むように薄い膜のようなものが、男性の手が私に触れるのを拒んでいた。私に手を伸ばそうとした男性が驚愕した表情のままゆっくりと手を引っ込める。すると膜はすっと無くなった。何なの、これ。
「念か」
奥から酷く落ち着いた声が響く。その声に私と男性達が一斉に視線を向ける。今までずっと喋らずに傍観していた金髪の男性が、私と目が合うとニッコリと作ったような笑みを向けた。
「ぼ、ボス……」
一人がそう発したのを仕切りに「これが、念?」や「嘘だろ……?」などついさっきまで睨みをきかせながら私に詰め寄っていた男性達がざわつきながら一二歩下がる。その顔は皆、冷や汗を掻きながら私を警戒していた。そんな中私はと言うと、先程とは比べ物にならないくらいの恐怖に全身が支配されていた。今、この人はなんと言ったか。聞き間違いじゃなければ「念」と、言わなかっただろうか。きゅっとパジャマの裾を握り締めながら少し俯く。呼吸が浅い、心臓も痛いほど脈打っている。先程の膜のような物が、念?念、能力?それって、それってまさか……。
「お嬢さん」
弾かれたように私は顔を上げた。いつの間にか目の前にいた金髪の男性は、また作ったような笑みで私を見下ろしすっと手を差し出してきた。私は浅い呼吸のまま意味がわからず金髪の男性と手を交互に見やる。
「あ、の……」
「私の部下が失礼をした。怖かっただろう。顔色が悪いね。良ければあそこのソファに座りながら、お嬢さんの事を聞かせてくれないかい?」
もう片方の手でソファを指しながらそう提案する金髪の男性。良ければ、と言ってはいるが多分こちらに拒否権は無いのだろう。怖い、凄く怖い。この手を取ってしまったらもう後戻り出来ないかもしれない。でも、でも……。
「……はい」
ぎこちない動きで金髪の男性の手に自分の手をそっと乗せる。手を引かれて座ったソファはビックリするくらい柔らかかった。
その後は部下の一人が持って来てくれた温かい紅茶を飲みながら自己紹介から始まり、金髪の男性……デュークさんの質問に答える形で会話をしていった。途中、部下の一人が声を荒らげながら嘘言ってんじゃねぇと腰を上げかけたが、デュークさんの一睨みで謝りながらソファに腰を戻した。その後は部下の誰もがデュークさんに意見を聞かれない限りは口を挟まずに、私とデュークさんの会話を聞いていた。そして……。
結果的に言えば、私は帰れるまでの間このお屋敷に居候する形となった。
「今日はもう遅いし、私は明日、早くから出掛けなくてはなんだ」
そう私に言ったデュークさんは、部下の一人に一階のつい最近入った新入りの横の部屋に案内を、と言う。それを聞いた部下は私に素っ気ないながらも着いて来なと言った。
「いいんですかボス、あんな女を」
部屋から出る直前、聞こえた部下の小さな言葉。
「ああ、あの女は使える」
「っ!!」
ぞくり。背筋に恐ろしい戦慄が走る。私の事を、最初の時も会話の時も、そんなふうに呼ばなかったではないか。そんな、そんな身の毛もよだつような冷たい声で話さなかったではないか。扉が閉まる寸前、振り向いてはいけないとわかっていても、つい、振り向いてしまった。すぐに見えなくなってしまったが、確かにデュークさんはこちらを見ていた。酷く、冷淡な顔をして。
部下に案内されながら、私は酷使した脳に鞭を打って考える。先程のは多分、わざとだ。最後の最後でわざと自分の素を見せたのだ。何故かって?
「(逃げるな、逆らうな……だよね)」
案内された部屋のベッドに膝を抱えながら座る。あの手を取らなければと一瞬思ったが、あれが私に出来る最前だっただろう。仮に逃げられたとしてもその後は?ハンターハンターの世界なら、いや、どんな世界だってパジャマしか持たない女が一人で生きるのは難しいだろう。それにデュークさんは言っていた。使える、と。それはあの膜のことで間違いないだろう。
「(そもそもあの膜は念なのだろうか)」
当たり前だが、私は念を習得した覚えは無い。
デュークさん自体は念は使えないけど、友人が使えて知っていたそうな。その友人曰く、自覚無しに念を使えるようになる人もいるとの事。これは私も知っている。ネオンがそのひとりだ。だが、なんの過程も無しにぽっと、それも都合の良い念が使えるようになるのだろうか。
「(それか、トリップ特典ってやつかも)」
念にしろ念じゃないにしろ、この膜のおかげですぐに殺されるような事は無いと、思う。
「……」
ぎゅっと腕に力を込めて身体を縮こませる。この膜が無ければ今頃私は……。そう思ったあとぽすりと身体を横たえ枕を手繰り寄せてきつくきつく抱き締める。涙が拭っても拭ってもどんどん溢れてシーツを濡らしてしまった。もう寝よう。考える事はまだまだたくさんあるけれど、先ずは心身共に休まないと。明日の事は明日、で。寝れるかわからないな、なんて思った瞬間には私は死んだように眠りについてしまった。自分が思った以上に限界だったらしい。

この時の私はまだ知らない。翌日の早朝、思いもしない人物と出会うことを……。

翌日の早朝。おい起きろ、と言う声にハッとして飛び起きれば、昨日この部屋に案内してくれた部下が片手に紙袋、もう片方に料理を持って立っていた。
「あ……おはよう、ございます」
「……」
「……?」
挨拶した方がいいよね?と思ってしてみたのだが、部下は怪訝そうな顔をして黙ってしまった。それから持っていた紙袋と料理をテーブルの上に置くと、また怪訝そうな顔をして私を見つめる。
「あの…?」
「……あー、なんだ」
頭をガシガシ掻きながらそう言うと、一旦言葉を止める。そのあと視線を不自然に外し、小さな声で「大丈夫、じゃ、ねーよな……」と言った。私がその言葉に目を見開いて驚いていると、続けて「だがま、ボスはお前さんの念を欲しがってる。お前さんが逆らわない限りひでぇ事はしねぇはずさ……多分、な」と言った。……これは、もしかして。
「……っ、はい、ありがとうございます」
涙ぐみながらも返事をしてお礼を言う。ぐしゃぐしゃな笑顔を向けているであろう私に嫌な顔をせずに、逆に気恥しそうにしながらも、おう、と笑って言ってくれた。
「俺にはちょうどお前さんくらいの娘がいるんでな。なんつーか、事情を知った後は気になっちまって。あ、この事は誰にも言うんじゃねーぞ」
「はい、わかりました」
自分でもちょろいな、と思ってしまう。でも、何だか酷く久しぶりな感じがする温かさに触れる事が出来て、凄く嬉しかった。
その後部下……ダンさんと少し会話をして、ダンさんは部屋を出て行った。これから私はこの組織の新入りとして、主にこのお屋敷の雑用をする事になるらしい。ダンさん曰く、この紙袋に入っている服に着替えて、ご飯を食べて、隣の部屋にいるマーティンさんという方と今日は廊下の窓拭きをするらしい。道具の場所などの詳しい事は、マーティンさんが知っているから従うように、との事。
「あれ?もしかしてマーティンさんを待たせてる?」
ダンさんの口振りではもうマーティンさんは準備を整えて、部屋で私がくるのを待っているかのような感じだった。
「大変!」
もしかしたらマーティンさんを待たせているかもしれないと思った瞬間、私は申し訳なくて急いで準備を整えた。ダンさんが持って来てくれた服は男性用で少し大きかったが、動きやすそうな服だった。
「よし!」
準備が終わって気合を入れる。どうしてトリップしてしまったのか、あの膜は何なのか、などまだまだわからないことだらけだけど、あのジブリのおトキさんも言っていたではないか。「生きてりゃ何とかなる!」と。本当にその通りだ。私はこれから生きて、帰らないといけない。今はまだ一人だけど、ダンさんという普通に話せる人もいる。これから会うマーティンさんだってきっと!そう自分を鼓舞しながら部屋を出て隣の部屋へと向かった。さあ、頑張ろう!


「……」
「……」
数分後。前を歩く彼の後ろ姿を見ながら、私は困惑した顔で後に続いていた。この短時間で一体何が起こったのか、短く一言で言うのなら、マーティンさんはクロロだった。そう、あの、クロロだったのだ。ノックをして返事を聞いてから開けたらクロロがいた。そりゃあもう予想もしてなかった人物に思いっきり「え!?何で貴方がここに!?」という顔をして扉を開けたままの体制で固まってしまったのだ。しかも「え!?ク__っ」まで言って口を手で塞ぐというおまけ付きである。そんな不審極まりない挙動をしている私に、読んでいた本を閉じたクロロは立ち上がって近付く。思うよね。あ、死んだって。
「あんたが名前か。話は聞いてる、着いて来い」
でも実際はそれだけ言って、私の返事なんか聞かずにクロロはすたすたと廊下を歩いて行ってしまった。手で口を塞いだままの私もそれにワンテンポ遅れて慌てて続く。それからはこうして会話も無く歩いているのだった。
「(気付いてない、訳、ないよね……)」
一瞬だけ、気づかなかったのか?と思ったがそれは無いだろう。自分で言うのも何だがあんなあからさまな態度をして気付かないクロロではない。では、どうしてか。多分それは、クロロが偽名を使ってまでここにいる理由と関係があるのだろう。即ち、この屋敷にお目当てのお宝があって盗むために潜入している。もっと言えば、私がクロロを知っていようがいまいが瑣末であり、今は盗む事以外どうでもいい。そういったところだろう。でも、クロロがお宝を狙っているって事は、この屋敷はいずれ__。
「ここだ」
「!」
考え込んでいた思考を一旦辞めてクロロに続いて物置部屋と思われる部屋に入る。その後、道具を引っ張り出している時も、道具を持って廊下を移動している時も、そして窓拭きを始めた後も、クロロは必要最低限の言葉しか発しなかった。

長くなってしまったが、回想は終わり冒頭に戻る。