序 これから始まる物語

 空を覆っていた雲が晴れ、夜月が煌々と闇夜を照らし始めた。
 元より鮮やかなその髪色が更に輝きを増す。風に揺れる金と朱の髪が頬を撫でるも、刀を構えたその男は眉ひとつ動かすことなくその場に立っていた。

 それは、寸秒の出来事だった。
 男の視線が動いたと思った瞬間、その場にあるはずのない炎が立ち上り、男の振るった刀から放たれた。

――炎の呼吸 壱ノ型 不知火

 実際、熱き炎が出たわけでは無い。だがこの男が振るう刃は赫く燃えるような炎刀だったのだ。


「これ以上、ここにいる者は誰も死なせない!」


 断末魔と共に塵になりゆく鬼。
 その姿を瞬きすることなく見つめ、そしてすぐさま倒れている他の隊士の元へと駆けつけた。

 政府非公認の組織、鬼殺隊。
 炎柱でもあるその男の名は、煉獄杏寿郎と言った。







 鬼殺隊の上位に君臨する柱は、多忙だった。広範囲の地域を管轄し取り纏め、一般隊士の応援をはじめ、強い鬼を相手に任務をこなしながら、調査や書類整理なども行っている。
 杏寿郎は柱になって間も無かった。
 自分の使命に心を燃やし、鬼の討伐だけでなく、人を守るという信念をもって職務を全うしていた。
 その思いがそうさせたのであろう。
 本来、鬼を討伐した後は隠(カクシ)と呼ばれる事後処理部隊が行うのだが、杏寿郎はその隠達が現場に来ても、またその場を離れずに指揮を取っていた。
 柱であれば、一般隊士よりも先にその場を去り、報告等の対応を行うものだというのに。


「あちらにも負傷した者がいる! 至急手当てを頼む!」
「あの、炎柱様! あとは我々の方で、」
「心配いらぬ! もう周辺に鬼の気配はない! もし鬼が出ても俺が対処するから安心して作業をしてくれ!」
「炎柱様、あの……」
「蝶屋敷へ運ぶのか? それなら俺も手伝おう!」
「炎柱様! それは我々の仕事ですから!」


 隠の間で、彼は人の話を聞かない事で有名だった。
 基本的に柱は皆怖い。怒らせると怖い。怒らせなくても怖い。故に怒らせてはけない。
 それは隠になったらまず教えられる教訓だった。
 そのため、杏寿郎に向かってそう声を上げた隠は、倒れていた隊士を杏寿郎から奪うように背負い上げながらも、怯えるようにその場から逃げるように走り去っていった。
 まるで、これから落ちるかもしれない稲妻から逃れるように。


「よもや……」


 杏寿郎は何故そんなに自身が手を貸してはいけないのかと不思議に思っていた。手があるのだからいくらでも借りればいいのにと。

 その時だった。
 背後から、「炎柱様」と凛とした声が聞こえ振り向くと、別の隠が立っていた。
 隠は目元以外が布で隠れており、どのような顔なのか性別さえも外見からは判断が出来ない。
 だが、その声と綺麗な目元を見て女性の隠だと分かった。


「炎柱様、よろしいでしょうか」
「うむ! 何だ!」
「失礼いたします」


 徐ろにそう言った彼女は、杏寿郎の腕を掴んだ。それから隊服の袖を手早く捲り上げると、やはり、と呟き杏寿郎を見上げた。
 腕には先程の戦闘で受けた傷があり、血が滲んでいたのだ。押さえられれば痛む程度の傷だが、こんな切り傷はむしろ傷の内には入らない。


「手当てをいたします」
「いや、結構だ! それよりも他の負傷者を手当てしてくれ。この程度の傷に貴重な薬を使うでない」
「貴方は柱ですよ? それに、切り傷でも化膿したら多少なりとも任務に支障がでます。手当てします」
「結構だ!」


 普段から大声の杏寿郎が、更に声を張る。
 引き抜こうと思った腕が思ったよりも強い力で捕まれていたようで、杏寿郎は目を見張った。
 隠達が柱に触れる事は愚か、彼女のように視線を逸らすことなく真っ直ぐ見てくるような人はいない。
 呆気に取られている杏寿郎を他所に、隠の女は腰に携えてた入れ物から何かを取り出すと、杏寿郎の傷口に巻き手当てをし始めた。
 時間にして物の数秒だった。
 本気で離れようと思えば出来たのだが、杏寿郎はそうする事も忘れていた。
 彼女の手際のよいその手付きに、杏寿郎は目が離せなかったのだ。過去に何度か蝶屋敷で処置を受けたことがあったが、その誰よりも秀でているのではと思うほどだった。


「終わりました。でもあくまで化膿しないようにするための応急処置です。恐らく貴方は他の隊士の救護が終わるまでこのままこの傷を放置なさると思ったので」
「うむ……」
「必ず! 蝶屋敷で治療を受けてください」


 では、と杏寿郎に深々と一礼をした彼女は、まだ治療が必要な隊士達の元へと走り去っていった。
 その後ろ姿も、背筋が伸びて凛としており、杏寿郎は微かに口許を緩め、その姿から目を離すことなく見つめていた。







 翌日、報告を終えて蝶屋敷へ向かった杏寿郎は、胡蝶しのぶに何故すぐに来なかったのかと咎められた。
 常に笑顔のしのぶだが、それが真のものではないものだとは誰もが分かっていた。しのぶが常に笑顔でいるようになったのは、姉のカナエを亡くしてからだったからだ。
 笑顔のまま、優しい口調のまま、相手が誰であろうと物怖じせずに咎めてくるので、大抵の人は自分の言葉を飲み込んでしまう。それにしのぶの言うことが正論だからだ。
 現に、杏寿郎も言葉を返すことなく大人しく椅子に座り、負傷した腕を差し出している。
 悪化したらどうするのか、と言葉を吐き出しながら包帯を解いていったしのぶが、ピタリと声と手を止め、杏寿郎を見た。
 それから眉を下げ、安心したように口許を緩めた。


「問題なさそうですね。隠の方の処置が良かったので化膿はしないでしょう」
「うむ! そういえば彼女の処置は手際が良かった!」 
「それもそうですが……これ、分かりますか? 薬草で作った化膿止めです。これは私が作ったものではなく、彼女自身のものです」


 そういえば、とあの時何かを塗られたのを杏寿郎は思い出していた。
 彼女が塗ったものは普段他の隠が使うものとは色が違った。それに対して気に止めることはなかったが、彼女自身のものだったのは驚きだった。
 杏寿郎の表情で何かを察したしのぶは、そのまま説明を続けた。


「彼女は薬学に長けています。基本みなさんに使っている薬はこちらで調合したものですが、彼女には自分の薬を使っても良いと伝えています。時々この屋敷でも手伝ってもらっているのですよ」
「うむ、そうであったか!」
「物怖じしないでしょう? 煉獄さんへの処置もそうですが、以前不死川さんにも応急処置をしてくださいましたから。何度言ってもこちらに来てくださらない柱の方が多いので助かっています」


 しのぶの嫌味など杏寿郎には全く届いていない。
 あの時の、彼女の凛とした佇まいを思い出していた杏寿郎は、微かに胸の奥が温まる事にまだ気づいていたなかった。
 彼女の名は、と聞いた杏寿郎に少し驚いた表情をしたしのぶだったが、すぐに常の笑顔へと変わり、静かに言葉を繋げた。


「ハルさんです。彼女の名前は藍沢ハルですよ」


 初めて聞く名に、杏寿郎は頬の筋肉が緩む感覚がした。




 これは、炎柱である煉獄杏寿郎と、隠である藍沢ハルとの物語である。


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