隠の仕事

 隠の本部である屋敷のとある一室。
 この日、上司である隠の後藤に呼ばれていたハルは、その用件を聞いて思わず素っ頓狂な声を上げた。


「は? 何かの間違いでは?」
「いいや、間違ってねぇ。上からの命令だ」
「同姓同名がいるとか?」
「いねぇだろ」
「無理です! 嫌です!」
「おい、藍沢! お前に拒否権なんてもんはねぇ! 炎さん本人からのご指名だ!」


 ビシッと指を向けられるも、まだハルは有り得ないと首を横に振った。
 その姿を見て、口許は布で覆われて見えないが、確実に口許を緩めて笑っている後藤は、ハルの肩を叩いて、「まぁ炎さんは話通じねぇが、他の柱よりもまだマシだ。話は通じねぇけどな」なんて優しさの欠けらも無い言葉を投げかけた。


 必要な物を背負い、ハルは立派な門の前に立ちそれを見上げた。
 ここは、炎柱の邸宅だった。
 何故ハルがそこにいるのかと言えば、後藤のいう上からの命令が、柱の身の回りの世話を主として働くことであったからだ。
 ただ、ハルにとってこの指示は受け入れがたく謎であったのだ。
 そもそも、柱の身の回りを世話するのは、もう少し隠の階級が上の、限られた人達しか出来ないのだ。
 柱の存在は鬼殺隊にとっては最重要である。
 あまり物怖じしないハルではあったが、柱の世話をするなどという事態は想定しておらず、複雑な感情でその門を潜った。


「ごめんください」


 広い土間で声を掛けるも、部屋はシンと静まり返っていて何も聞こえない。仕方なく勝手口へと周り、背負っていた食糧を台所へと置くと、「失礼いたします」と声を上げ屋敷へと上がった。
 世話役の隠は、家主が不在の時でも屋敷に上がることを許可されていたのだ。
 ハルが屋敷に上がってすぐ、襖の空いた部屋を覗いて目を見張った。
 恐らく寝間着であろう着物が部屋の隅に乱雑に置かれており、その近くには隊服の中に着るシャツも落ちていた。
 柱にも色んなタイプの人間がいると聞いていた。
 世話役であっても、最低限のことしかさせない者もいれば、任務にだけ集中するためにすべての世話をさせる者もいるという。
 炎柱はどちらなのだろう、とハルは落ちていた服をかき集め、流し台へと向かった。
 任務時に何度か目にしたことのある炎柱。
 その姿からは想像ができないこの部屋の有り様に、ハルの中で炎柱という存在が謎なものに変わっていった。







 ハルが杏寿郎と対面したのは、屋敷に出入りし始めてから数日後の事だった。
 屋敷への出入りは、最低限の家事や食糧調達以外、鎹鴉からの伝令がない限りはない。
 その為、ハルは初日に洗濯と掃除を済ませてからは、通常の任務である事後処理を行っていたのだ。
 隠用の鎹鴉から、明日にでも炎柱が帰還すると伝令を受けたハルが、炎柱が戻る前にと屋敷の見回りをしていたと時だった。
 陽が傾きかけた夕暮れ時、ガラガラと戸口が開く音が屋敷に響いた。
 明日と聞いていたのに、とハルは挨拶をする為に勝手口から一度外に出てから彼の背後に膝をついて頭を下げた。
 

「無事にご帰還され何よりです。明日と伺っていたので、屋敷の片付けをしておりました。お戻りになる前に出なければならなかったのに、申し訳ありません」
「うむ、君が藍沢ハルか?」
「はい」
「謝る必要などない! 俺が勝手に予定より早く帰っただけのことだ! それに柱と鉢合わせてはならぬ決まりなどないぞ!」
「そう、なのですね」
「俺も柱になってあまり経ってないから分からないが、そんな話は聞いたことない! それより何か作ってはくれないだろうか? 藤の家で食べて帰って来たのだが、すでに腹が減ってしまった!」


 お腹を押さえる杏寿郎に、ハルの口はポカンと開き、その姿を眺めていた。布で顔が覆われてるとは言え間抜けな顔だったに違いない。
 だが、杏寿郎はそれに気づくことなく、再びハルの方を向くと、「千寿郎が持ってきたサツマイモが倉庫にある! 味噌汁がよい」などと注文までして来たのだ。
 常に生死の淵に立って命の危険を晒している、そんな人が身に纏う空気とはかけ離れていた。
 ハルがそう感じるのも無理はなかった。隠が柱や鬼殺隊の剣士と会う時は、戦いの最前線か蝶屋敷で負傷している時しかない。日常の他愛もない会話などした事がないのだ。
 思えばハル自身も、普段は任務のことや薬のことばかり考え、話をしていた。だからこうして、食事の話など誰かとしたのはいつぶりだろうと思い、自然と頬が緩んで、「承知しました」と答えていた。


 杏寿郎は大食いだった。
 隠には宿舎があるのだが、そこでの炊事当番で作ったことのある量と大差ない消費に、ハルはただ驚くしかなかった。
 特別料理の腕があるわけでもない。
 その為、彼の口に合うのかどうかと不安ではあったが、「うまい!」と繰り返しながら食べてくれる彼に胸を撫で下ろした。


「それでは、私はこれで、」
「俺は柱になる前は生家である煉獄家にいたんだが、任務をしていた俺に代わって弟の千寿郎が家のことをすべてやってくれていた」


 帰ろうとしたハルだったが、その声を遮って杏寿郎が突然話を始めた。
 あの、と声を掛け直すハルの声が届いていたのかは分からない。箸を置いた杏寿郎がハルのいる方へと向き直し、そのまま言葉を続けた。


「強くなることだけを考えていた俺は、家のことは不得手だ。だから君には身の回りのことを他の柱以上に頼んでしまうかもしれないが、嫌なことは断ってくれて構わない。その事が何かに影響することなどはないから安心してくれていい」
「嫌なことはありません。ただ、何故私なのだろうと疑問には思っています……家事が得意な隠は山ほどいますし、私は柱に仕える階級には及んでいないので」


 ずっと疑問に思っていた。
 何故自分が呼ばれたのだろうかと。もっとこの任務の適任者がいるというのに。
 杏寿郎の声が止まり、膝をつき床に視線を落として喋っていたハルがその顔を上げると、杏寿郎の視線がまるでハルを射抜くかのように真っ直ぐ突き刺さった。
 でもそれは、威圧でも恐怖でもない、温かな視線。


「君に、興味があったからだ」
「え? それはどういう……」
「他意などない、そのままの意味だ! さあ、じき暗くなる。帰って良いぞ。あとは自分でやる」


 口角を上げて笑った杏寿郎は、再び箸を持つとハルの作ったサツマイモの味噌汁食べ、「わっしょい!」という謎の声を上げた。
 その声がいつもよりも明快なことなどハルが知るはずもなく、簡単に片付けを終えたあと、炎柱邸を後にした。
 興味があるとはどういう意味なのだろう。
 その言葉と杏寿郎の顔が、まるで空に浮かぶ雲のように、ハルの脳裏に漂い浮かんでいた。


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