03.甘い香りに漂う悪戯


ゆき乃と無一郎の共同生活は、予想以上に大変だったが、想像以上にゆき乃は楽しんでいた。

まず、現代のアレコレを全く分からない無一郎に、あらゆる事を教えなければいけなかった上に、伝わらない言葉も多く、ゆき乃は頭を絞り苦戦していた。

この事態を冷静に受け止めている無一郎を凄いとは思ったが、その順応の速さは舌を巻く程だった。

表情があまり変わらない無一郎が驚いたりする様子は、ゆき乃にとって面白く、特に心を躍らせたのは風呂場の説明だった。



「分からないでしょ?使い方!だから一緒に…」

「僕、ゆき乃みたいに馬鹿じゃない。だから説明してくれたら分かるよ」

「大丈夫だって!お互い服着たままだから恥ずかしくないし、頭洗うだけだからぁ!ね、ほらほら」

「もう勝手にして」



無一郎を風呂椅子に座らせ上を向かせると、長く綺麗な髪を濡らして洗っていく。

理解が早かった無一郎だったので恐らく説明だけで済んだとはゆき乃も思っていたが、触ってみたかったのだ、彼の髪に。

目を綴じたままされるがまま上を見ている顔は、やはり綺麗だった。



「気持ちいい?」

「温かくて変な感じ。でも気持ちいいかも」

「私、洗うの上手なの!よく気持ちいいって言ってく…いや、何でもない!気持ちいいなら良かった」

「誰に言われたの?」

「え?」



ゆき乃の誤魔化しなんて無意味だった。

上を向いたまま目を開いた無一郎の淡い緑の瞳が、真っ直ぐにゆき乃を見つめ上げる。

見透かされたからなのか、その視線の所為なのか、異常にゆき乃の鼓動が煩くなった。

元カレと言っても伝わらないと思い、「前の恋人?」としどろもどろになりながら伝えたゆき乃だったが、「ふうん」という理解したのか分からない返事が帰ってきて落胆した。

――興味ないなら聞かないでよ!

実のところ、別れて二ヶ月ほどしか経っていなかったので、感傷的になる事はないにしろ、まだ完全に傷は塞がっていなかった。

自分から言い出したので無一郎は何も悪くないのだが、悔しくて強めに洗ったら、気持ちいいと返ってきて余計に悔しかったが、彼の至福の表情に見ていて心が癒やされた。



「コンビニで下着買ってきたから使って!」

「……何これ」

「え?知らない?まさかノーパンなの?」

「は?」



無一郎がいた時代、主流はふんどしだったので下着と言われも通じない。

押し問答の末それを理解した瞬間、ゆき乃の顔が一気に緩み、嫌な予感がした無一郎は一歩下がった。

ゆき乃が無一郎の腰元に伸ばした手は、空を切るだけだ。



「見てみたい、ふんどし!」

「ゆき乃は馬鹿な上に痴女なわけ?」

「はぁ?!それだけで痴女なわけ……え、私そう見える?」

「男のズボンを下ろそうとしてるのに、それ以外の言葉が僕には思い当たらないけど」

「ご、ごめん…」

「本当に年上?それともこの時代の知能は下がってるの?」



相手は中学生、つまり未成年。現代の法律でアウトな領域だった。

返す言葉が無く項垂れたゆき乃だったが、諦めきれずに脱衣場の扉をコッソリ開けようとするも、すぐにバレて締め出された。







トリートメントも仕込んだので、無一郎の髪はより一層艶やかで甘い香りも放っている。

ソファに座らせた無一郎の髪を、後ろからドライヤーでゆき乃は丁寧に乾かしていた。

勿論、最初はさすがの無一郎も驚いて引いていた。

煩い音と共に強い風が出てくる上に、温風にも冷風にも調節できるからだ。

でもそれが無害な物だと分かると、ゆき乃にされるがまま身を預けてくれるのでゆき乃としてはとてもやりやすかった。

前髪を乾かしながら、目を閉じる無一郎の顔を眺めていると、小さな薄傷が幾つかあることに気がついた。

風呂上がりに用意したシャツから出る腕も、同じような傷があり、華奢だと思っていた身体は、筋肉質で男の子と呼ぶには程遠く感じたのだ。

ドライヤーの風量を小さくして仕上げをしながら、ゆき乃は疑問に思ったことを口にした。



「どうして無一郎くんは、鬼と戦ってるの?」

「……」

「腕も顔も、傷だらけじゃない」

「……そんなのどうだっていいよ。例え手足を失っても死ぬまで鬼を倒す。俺の両親と兄を殺した鬼を…俺は許さない。その為なら死んだって構わない」



憎しみの籠った無一郎の声に、ゆき乃は気安く聞いてしまった事を後悔した。

鬼は見たことがなくても、その存在の気配があると知っただけで怖いと思った。

それなのに、まだこんな幼い、学生を謳歌できる年齢の無一郎が、身内を亡くし死を覚悟して戦っているという事実は、ゆき乃の胸を強く締め付けた。

見つからない言葉を探すより、ゆき乃の身体が勝手に動く。

ドライヤーの音が止み、終わったのだろうかと振り返ろうとした無一郎の肩に、後ろから伸びてきたゆき乃の腕が絡みつく。

無一郎を背後から包み込むように強く抱きしめたのだ。

突然のことに、無一郎が驚いて目を見開いた。



「え、ちょっと、何?」

「分かんない。分かんないけどっ……こうしたくなったの!小さな身体で一人で頑張ってて、自分の事をどうでもいいだなんて…悲しいよ。心が泣いてるみたい」

「ゆき乃と僕とじゃ住む世界が違う。鬼に家族を殺された人だってたくさんいるし、僕だけが特別じゃないよ」

「それでも!私にとって無一郎くんは大事だよ!簡単に、死んでもいいなんて言って欲しくないんだよっ!」



思わず力任せに抱き締めたゆき乃に「苦しいから」と冷静に答えた無一郎は、ゆき乃の腕を掴んで身体を回転させると、ゆき乃を真っ直ぐ見つめた。

目に涙を浮かべてるゆき乃の鼻を思いっきり摘まんで、「やっぱり馬鹿だね」と言って少しだけ微笑んだ。



「たった数日で何が分かるの?ゆき乃は人が良すぎる。簡単に信用し過ぎ。僕が盗っ人だったらとか考えないの?嘘吐いてるかもしれないとかさ」

「そんな事しないよ、無一郎くんは!私のこと馬鹿にはするけど、優しい人だよ!怖いって言った私を見捨てなかったじゃない」

「僕は自分の世界に帰るためにゆき乃を利用してるだけだよ」

「そんなこと無い!無一郎くんは相手を思いやれる優しい人だよ。私には分かるもん!」

「……まぁいいや。でも…」



乾いた髪の毛を掻きあげた無一郎は、その顔をゆき乃にグイッと近づけた。

その距離、僅か数センチ。

間近に迫った無一郎の顔に目を瞬かせているゆき乃に、とんでもない言葉が降りてきた。



「男と一緒に住むっていう意味くらい、分かってほしいけど」

「…へ?!」

「なんて。僕のズボン下ろそうとした仕返し」



舌を出した無一郎は、悪戯な子供のように笑った。

その表情が何だか嬉しく思ったゆき乃だったが、激しく鳴っている胸の音を隠すように押さえた胸元から、暫く手を離せなかった。

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