08.炎柱の記憶
杏寿郎の脳裏に"その記憶"が浮かんだのは、数ヶ月程前の事だった。
最初は夢の中で、杏寿郎自身が知らない身なりをして鬼と戦っており、目が覚めたときに変な夢を見たなと、その程度しか思っていなかった。
だが、その夢は毎日見るようになり、次第に日常へと侵食してきたのだ。
朝起きて顔を洗っている時、家族とご飯を食べている時、庭に咲く藤の花の香りが鼻を掠めた時。
それは夢というよりも、過去の記憶を思い出しているような感覚で、有り得ないと思いながらも、杏寿郎はこの不思議な感覚を単なる夢や幻想で終わらせる事が出来なかったのだ。
歴史教師である杏寿郎だったが、鬼殺隊という言葉を聞いたことがなく、脳裏に浮かぶ記憶から推察して、それが恐らく大正時代あたりのものだと思い、彼なりに調べた。
家族にはその記憶がないのかと、それらしく聞いてみたが、誰一人同じような体験をしている者はおらず、頼りになるのは記憶だけ。
だがある日、倉庫を調べていると古い書物が突然頭上から落ちてきたのだ。
ボロボロになり書いてある文字も読めなかったが、それは記憶にもあった代々伝わる書物だとすぐに分かった。
やはりこの記憶は事実なのだと、その時に核心した。
そしてある仮説が杏寿郎の中では、真実へと変わろうとしていたのだ。
「それが、輪廻転生だ」
「輪廻…転生……」
「あぁ。時透の話によると、タイムスリップは突然自分のいた空間が変わり、身が飛ばされるようなものだろう。だが俺は違う。俺は上弦の鬼、猗窩座に致命傷を負わされあの場で命を落とした。それは間違いない事実で、あの時の痛み、竈門少年達と交わした言葉も覚えている。そしてなにより、この世に生まれた記憶も、ゆき乃と共に過ごした幼少期の記憶も写真も残っている」
「じゃあ僕と煉獄さんは違うってこと?」
「最初は、もしかして時透も輪廻転生したのかと思って驚いた。君の気配がこの部屋からして肝を冷やした。命を落としたのかと。だが、話を聞いて安心した!このタイムスリップのカラクリは分からないが、鬼との戦いで命を落としたのではないのだから、きっと戻る方法はあるはずだ!」
無一郎の肩に杏寿郎がポンと大きな手を置いた。
柱になった時に言われた言葉を思い出し、あの時はまだ記憶もなく感情も乏しかったが、今なら分かる炎柱の温かさに、無一郎の胸が熱くなった。
「ありがとう煉獄さん。僕が柱になった時も……またこうして話が出来て良かった」
「君は一人ではない!共に考えよう。俺もまだ調べている事があってな。それが分かったらすぐに知らせる」
杏寿郎の言葉に無一郎が頷いたタイミングで、ゆき乃が「ねぇ、むいくん」と声を掛けた。
ゆき乃とハルは、二人から離れて座ってはいたが、全ての会話を聞いていた。
二人にしか分からない過去があり、何を話しているのかは理解できなかったが、やはり無一郎はこの時代の人間ではないのだと改めて思い知らされたような感覚だった。
戻らなければいけない人なのだ、無一郎は。
溢れそうな感情を抑え、無一郎を見たゆき乃は笑顔で言葉を続けた。
「杏寿郎の家に行く?元の世界に戻るために色々と調べるならその方が都合良さそうだし、それに二人が知り合いなら別に私は、」
「何でそんな事言うの?ゆき乃は僕がいない方がいいわけ?」
「…だって」
「俺はゆき乃と離れるつもりないよ」
真っ直ぐにゆき乃を見つめ、そう言い放った無一郎を誰か幼いと言うだろう。
思わず、ゆき乃は無一郎に抱きついた。
咄嗟の事に目をパチクリさせて驚いている無一郎だったが、鍛えられた身体はいとも簡単にゆき乃を抱きとめる。
「むいくんっ…」
「なんで泣くの?苦しい」
「分かんないっ、分かんないけど…こうしたいの!」
「もう、ゆき乃は分かんないばっか」
そう言いながらも、無一郎は抱きつくゆき乃の背中に手を回し力を込めた。
心が満たされる温もりがそこにあった。
杏寿郎の「よもやよもや!」という声が聞こえ、我に返った無一郎がゆき乃の身体を離す。
その場に杏寿郎とハルがいた事も忘れ、ゆき乃を抱き締めていたという事実が、今までの無一郎からは想像できない行動だった。
鼓動が脈打つにつれ熱くなっていく身体に戸惑ってしまう。
鬼との戦いで痣が出た時も、無一郎は怒りから身体が熱くなったのを思い出したが、それとは全く違う、全身の力が抜けて蕩けてしまうような熱だった。
「プッ……プハハハ!」
「え、何?何で笑うんだよ」
「だって、むいくんてば…真っ赤なんだもん」
「う、うるさいなぁ!ゆき乃がいきなり抱きついてくるからだろ!」
「ねぇ、むいくん」
「なんだよ」
「むいくんが戻れるように私も協力する。だってむいくんは帰らなきゃいけないんでしょう?でも……でもね。私はその時がくるまで、むいくんの側にいたい。むいくんと一緒に過ごしたい。だ、ダメかな?」
顔を赤く染め、無一郎の腕を掴んで見つめながらそう言うゆき乃を、無一郎は離したくないと思った。
何より大切だった家族。
その家族を失い、同じように大切に思う存在は今後現れることもないし、自分には必要ないと思っていた。
ゆき乃に抱く感情に答えがあるのか分からない。
それでも、今は離れたくないと思ったのだ。
「ダメなわけないじゃん」
無一郎は涙目のゆき乃の頬に手を添えて、目を細めて笑った。