恋と呼ぶには幼すぎた

 四年前、夏。
 息が詰まるような日常に追い討ちをかけられ、そこから逃げるように日本から遠く離れた場所へとあてもなく飛んだ。
 一度も日本を出た事なんてない。だけど、海外に行く恐怖よりも誰も知らない場所に今すぐ逃げたくて仕方無かった。
 会社での不満、御局様からの嫌味、付き合いの長かった恋人の浮気、先の見えない人生。気づいたら叫び出したくなるほど心が荒み、考えることを放棄したくなった。プツリと何かの糸が切れ、長期休暇の申請書を上司に叩きつけていた。
 これは所謂、傷心旅行というやつだった。


「綺麗な青……」


 眼下に広がる青い海と空は、まるで境界線なんて無いくらい澄み切っていた。
 潮風を感じるこの岸壁は、ホテルから歩いて行ける地元ならではのスポットだと感じのいいホテルマンが教えてくれた。この土地の青は心を癒す力があるらしい。といっても、言葉が分からない私に少し話せるからとカタコトの日本語から聞き取れた情報だけど。
 広大な大自然の目の前にすると、自分の悩みがとても小さく見えてくる。世界は広い。別に今の環境が全てではない。結婚を期待した恋人に裏切られたけど、そういう人なんだと今わかってむしろ良かったのかもしれない。


「こんな綺麗な海、日本にはないよねぇ……あれ、今なんか光っ、」


 海を覗き込んでいた体が、後ろに引っ張られた。突然のことに声も出ず、地面に背中がついた私の上に誰かが乗っている。
 太陽の眩しさで何も見えなかったけど、恐怖だけが湧き上がり、何かを叫ぶその人を私は無我夢中で引っ掻くように手を動かした。
 ここが海外ということを、いま思い出した。抵抗しなければ襲われてしまうかもしれない。


「やだっ、やめて! 降りろ変態!!」
「……っ、痛い! やめて、大丈夫だから」
「え……」


 聞こえた日本語に、私は手を止めた。その瞬間私の手首を掴んだその人は、「イテテ」と言いながら私の上半身をゆっくりと起こしてくれる。
 あれ、もしかして襲われ、ない?
 漸く眩しさから解放された私の目が映したのは、眩いくらい美しい金色の髪をした、青い目の男の子だった。


「君、日本人だろ? やめなよ、命を粗末にするのは!」
「へ?」
「何があったか知らないけど、」
「綺麗な、青……」
「え? ねぇおねえさん、僕の話聞いてる?」


 さっきまで見ていた大自然の青がそのまま瞳にうつったかのような綺麗なスカイブルーをした彼は、困惑したように私を見ていた。
 その青に吸い寄せられるように顔を近づけた私を見て、「ちょっと、何?」と顔を赤くして逸らした彼は、流暢な日本語で私を諭す。
 だけど私にはその言葉は入ってこなくて、ただそのスカイブルーに心を奪われていた。


「……だからさ、馬鹿な真似は」
「ねぇ! あなた暇? わたしとデートしない?」


 自分でも驚く発言だった。今まで自分から誘うことなど滅多にない。
 だけどここでは、私を知る人なんていない。ましてやこの非現実的な環境が私の背中を押しているようだった。
 日本に帰ったら現実に戻る。だからそれまで、夢くらい見させて欲しい。







 私の強引な誘いに何も聞かずに彼は街へと連れていってくれた。
 本当はホテルから徒歩で行ける場所しか行くつもりなかった。やっぱり言葉も通じない事には怖さもあったし海外は犯罪も多い。非現実的を味わいたいとは思ってもそんなスリルは求めてなかった。


「お腹空いた? あのホットドッグ絶品なんだ」


 露店で売っていたホットドッグとジェラートを買ってくれた彼は、惜しげも無く私にそれを差し出した。
 まるで自分がヒロインにでもなってような気分だった。異国の地で、まるで恋人同士みたいなことをしているんだから。
 危ないかもしれない、と思わないわけではなかったけど、私の心は彼のことを微塵も疑っていなかったし、もうそういう事を考えたくなかった。何も考えずに身を任せてみよう。


 少年のあどけなさの残る彼と過ごした時間は、気持ちを高揚させたまま終わりを告げようとしていた。
 夕陽が綺麗だと連れられた場所は、生まれて初めて景色を見て感動して涙してしまう程に心が洗われた。


「コハル、泣いてるの?」
「こんな綺麗な夕陽初めてだったから……今日はありがとう」
「僕達、また会える?」


 彼の言葉に私は首を横に振った。
 これはただの幻想に過ぎなくて、旅行先で羽目を外しただけ。ましてやまだ彼は若い。私にはそんな勇気はない。
 そんな私の手を、彼は強く握り返す。真っ直ぐ見つめられる碧眼に、夕陽の赤が染まっていく。


「一目惚れしたって言ったら、信じてくれる?」
「信じ、ない」
「……離したくない」


 これ以上はダメだと警告音が鳴っていたにも関わらず、私は近づく彼に静かに目を閉じた。この青い瞳に見つめられたら、何も言えなかった。それが喩え、心に新たな傷を作ったとしても。


 私を愛おしそうに呼ぶ声。優しい温もり。真っ直ぐ見つめる澄んだ碧眼。熱で汗ばんだ白い肌。まだあどけないキス。
 彼との思い出はすべて、あの地に置いてきた。
 恋と呼ぶにはまだ幼すぎるその想いに蓋をしたまま、あっという間に四年が過ぎようとしていた。


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