鳥籠

「名前。」
「何、景吾。」
名前を呼ばれて跡部の方を見たのは名字名前。彼女の父親が会長を務める名字グループの一人娘で、所謂お嬢様だ。
名前の父親と跡部の父親は旧友であり、会社同士の関係も深い。そして、その繋がりをより強固なものにする戦略として、名前が跡部の許嫁になることは二人が幼い頃から至極当然のこととされていた。
「何を読んでるんだ。」
「ああ、これ。この前母様が送ってくれたのよ。」
名前がこちらに向けた表紙には、ドイツ語で「鳥籠の姫」と書かれていた。表紙はお姫様らしいドレスを纏った少女が、鳥籠の中から物憂げに外の世界を見つめている絵で飾られている。
「親が決めたフィアンセがいるのに、よその国の王子に恋をしたお姫様が城を出ようとするんだけど、鳥籠の中に閉じ込められちゃうの。それを王子様が助けるっていう……。」
「ククッ……そりゃまた随分メルヘンチックなのを送って寄越したな。」
「全くよね。母様はいつも私のこと子供扱いするんだから。」
失礼しちゃうわね、と困ったように微笑む名前の表情は、年齢よりも少し大人びて見える。
幼い時は名前の方が背が高かったが、いつのまにか跡部は彼女の身長を優に抜いていた。ずっと側で見てきたはずなのに、知らない間に名前は女になっていた。
名前は本を閉じて机に置くと、ソファーに座っている跡部の隣に座り、姿勢を正して跡部を見上げた。
「聞きたいことがあるですけれども」
「何だ、改まって。」
妙な言い方をするのでふざけているのかと思ったが、名前の目は真剣だった。
「決められた結婚ってどう思う?」
「どうって」
「景吾は、この本のお姫様みたいに自由に暮らしたいって思ったこと、ないの?」

そう問われれば、自由への憧れが全くないわけではなかった。
今の地位が気に入らないわけではないが、その分しがらみも多い。全てから解き放たれれば、どんなに楽かと思うこともある。だが、跡部にはそう即答できない理由もあった。

名前は続けた。
「実はね、私はあまりそう思ったことがないの。だって、景吾と一緒にいられるのはこの自由じゃない暮らしのお陰なのよ。周りの大人が、景吾と私を婚約させたから。
自分の意志で決まったことじゃないけど、私は幸せだと思ってるわ。」

跡部は名前の言葉に安堵すると同時に、ここまで直球な言い方をされたことに驚いた。 跡部は不意の告白を嬉しく感じる反面、それをどう表現したものかわからなかった。名前は跡部の肩に頭をもたれて照れたように目を閉じている。自分の頬が緩んでいる気がして、跡部は今顔を見られていなくて良かったと本気で思った。
「どうした?珍しく、素直じゃねえの。」
名前の返事はなく、もぞもぞと身体を丸めただけだった。
彼女の髪を撫でる。その馴れた温もりと柔らかな触感に、跡部は自然と目を細めた。
「…………負担じゃない?私。」
名前は跡部の方を見ずに尋ねる。その声は弱々しく震えていた。
「そんな訳ねえだろ。」
「本当?父様と跡部社長に気を遣ってない?
……このままで良いって思ってるの、私だけじゃない?」
「馬鹿。」
お前は本当に分かってない。俺がどれだけお前を手放したくないと思ってるかを。今だって、名前の言葉ひとつに一喜一憂して、踊らされているのに。
名前の顔を自分に向かせ、揺れる瞳を見据えた。
「お前を気に入らなかったら、そう思った時点で断ってる。親父やお前の両親が何と言おうとだ。俺は自分のことは自分で選んだつもりだ。今までも、これからもそうする。」
つ、と手に何か温かいものが触れたと思ったら、名前の涙だった。
「良かった。…景吾、愛してるわ。」
震える唇にそっとキスすれば、名前は安心したように笑った。こんな奴だから、俺が婚約が決まるずっと前から名前を好きだったことも、思っているよりずっと俺が名前の虜になっていることも、何一つ知らないのだろう。

俺はあの時、自ら飛び込んだんだ。
お前と、鳥籠の中で自由じゃない暮らしをするために。


back
top