橋の下へ着くと、荷物をいつもの場所へ置きさっそく昨日とは別の場所を探し始めた。しかし、案の定、手袋は見つからず降谷は深く息を吐くと、一旦休憩をする為に荷物の置いてある場所へと戻った。
水分補給を行い一息つく。ふと、辺りを見回し降谷は軽く目を伏せた。
(今日も来ないのかな)
なまえは今日も姿を見せていない。毎日のように来ていたのに、突然来なくなってしまうのは少し寂しい気もする。最初はずっと話しかけてくる変な人だと思っていた。だが、今となっては会いたいという気持ちが強く、傍に居てくれるだけで安心する存在だった。
やるせない気持ちを胸に、スポーツバッグの中に入れていたボールを握る。投げている姿を見ていて欲しいと思うも、なまえは居ない。
休憩を終えると、気分転換に降谷はボールを投げることにした。何度か投げるがボールは走らず調子も出ない。キャッチャーのミットを想像して狙うも制球は乱れボールは荒れていた。戻ってきたボールを握りなおし、降谷は顔を顰めるもすぐに投球フォームをとる。縫い目にそってボールを握り、力いっぱい投げた。ボールはうなりを上げるものの、やはりキャッチャーのミットからは大きく外れた。
息を吐き、戻ってきたボールを手に取った時、拍手が聞こえた。来た、と降谷の胸は高鳴る。表情を綻ばせ振り向くなり、降谷はパチリと目を瞬いた。
拍手をしていたのは予想をしていた人ではなく、見知らぬ白髪の老人だった。今時珍しい革製の旅行トランクを手に持っている。途端に恥ずかしくなり小さく頭を下げた。頭を冷やそうかと思い、近くのコンビニで冷たいアイスでも買ってしばらくこの場から離れようと考えた時、君、と老人に声をかけられた。
「もう一度、球を投げてはくれないかね」
突然のことに降谷はきょとんとした色を浮かべたが、一呼吸遅れてからこくんと頷く。最近はなんだかこんなことが多い気がする、と心の中で呟きつつ、老人の希望に添い再びボールを壁に向かって投げた。それを見て満足したのかもう一度拍手をすると、老人は目を細め、君、と呼んだ。
「少し話をしたいんだが、聞いてくれるだろうか?」
見ず知らずの人に云々と母に言われていたことを思い出すが、どうも老人の話を無視することはできなかった。聞かないといけないような気がして、はい、と静かに返事をした。橋の下の段差のあるところに二人は並んで座った。
「いやはや……懐かしい気持ちになったよ」
「懐かしい?」
ちょいと首をかしげると老人はふと寂しげな表情を浮かべる。
「私も昔は野球をやっていたんだが……当時、チームメイトだった友人の投げ方にそっくりだった」
老人曰く、その友人も右投げの豪腕投手で、ボール自体がまるで生き物のようにうなりを上げて打者へ向かい圧倒していたという。投手という言葉に降谷の耳は傾き、どれほどすごかったのかと問う。ノーヒットノーランを三回も成し遂げた人物だと笑う老人とは裏腹に、まるで雷にでも打たれたかのような衝撃を降谷は受けた。一回でも成すことが難しいそれを三回も、とこぼす。私も驚いたと老人はのほほんと相槌を打った。
老人はさも今、体験してきたという風に昔話を唇にのせて紡ぐ。
友人と最初に出会ったのは中等学校――現在の高等学校――の頃で、興味本位に野球部へ入った際に出会った。投手だった友人は、よく言えば自然体、悪く言えばのんびりとしていた。時々天然な発言をしては周囲をよく笑わせたりし、本当にこいつがうちのエースなのかと初めの頃は信用すらしていなかった。だが、それも束の間のことで、後日行われた試合で才能の片鱗を思う存分に見せ付けられた。一試合に二十三奪三振を披露した時は、ベンチ選手だった当時の老人の胸を熱くさせたほどだった。その後、試合に勝ち進み大きな大会にも出たという。
「大会?」
「今で言う甲子園だ。二回出たんだよ」
「二回……!?」
再び雷にでも打たれたかのような衝撃を受けた。甲子園を二回も行くなんてどんな強豪校、と口の中で呟く。
大会後、友人は学校を中退し、新聞社が主催した日米野球大会に日本チームの投手として参加をしたと聞いたが――と、途中で老人はため息を吐いた。
何故そこでため息を? と首をかしげると、その試合は有名な話だから気が向いたら調べてみなさいと言った。まさかの省略に降谷は、えっ!? と驚く。調べないといけないのか、と肩を落としたのも束の間で、老人の話は一息置くなり続いた。
その大会後、友人は有名な球団へと入団した。更なる活躍と記録を打ち立てた友人と再会をしたのは、第二次世界大戦中の八月のことだった。帝国陸軍に徴兵によって入営していた友人は、中等学校の頃とまったく変わってはいなかった。過酷な環境の中でもいつも自然体で、時々天然な発言をしては周囲をよく笑わせていた。防衛戦へ向かう一兵として老人が居た部隊へ配属されたことが、再会の理由だった。
「あの、」
「なんだね?」
「おじいさん、何歳ですか?」
きょとんとした表情で、もうすぐ八十五、と老人は元気に返す。見えない! と即答すると、嬉しそうに老人は笑った。肌のはりつやや髪の色合いからして、六十代くらいかと思っていたのだが、見た目で人を判断するべきではないと思った。
短い自由時間に友人とは様々なことを話したと老人は繋ぐ。戦地で手榴弾を投げすぎて、投手の生命線である右肩を痛めてしまったこと。現役引退前に結婚をしたこと。話題は尽きずに盛り上がり、時間を忘れたという。そして――同年、十二月二日。友人が防衛戦へ出立する前日、二つの物を預かった。
それが、と老人は一旦話を切り、持っていたトランクの中からある物を取り出す。老人が取り出したのは、古びた、しかし、手入れのいき届いたグローブだった。大事そうにグローブを撫でながら老人は目を細め、唇を開いた。
自分は投手でもないのに投手専用のグローブを渡されてもと断ったが、友人は譲らなかった。中等部の時から使い続けているそのグローブには、変な印が軽く彫られてあった。
「自分の持ち物には必ず印をつける人でねぇ。あの人の癖なんだよ。それと、野球好きの所為で奥さんは少しばかり苦労をしたそうだ」
老人はそう紡ぐと、トランクの中からもう一つある物を取り出した。それは写真で、セピア色をしたかなり色褪せていた。写真に写っているのは着物を着た女性ではにかんだ表情をしている。その女性を瞳に映すなり、降谷は目を丸くした。
「なまえ、さん?」
老人は驚きの色を浮かべる。
「どうして彼女の名前を?」
「え、あ……」
つい先日まで会って話をしていた、と言っても老人は信じてはくれないだろう。否、なまえのことは話してはいけないような気がして、咄嗟に降谷は嘘を吐いた。
「知人に似ていて……その人もなまえって名前だったから……」
よく見ると顔はまったく似ていないです、と続けると、老人は少し間をあけたが、そうか、と話を戻した。
「写っているのは君の呼んだとおり、なまえさんといってね。あの人の奥さんなんだ」
「……え?」
奥さん、と復唱すると、何故かはわからないが胸に中でしっくりと馴染んだ気がした。少しずつ早くなる鼓動。静かに深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。老人は気づかず先を継いだ。
「"生きてこれをなまえに渡してくれ"――それがあの人の最後の願いだったんだ」
「最後の願い……? それって、どういう意味ですか?」
降谷の問いに、老人は目を伏せるも答えてくれた。
「亡くなったよ、海の上で」
防衛戦へ向かう輸送船の中で敵軍の潜水艦の攻撃を受け、友人のは船とともに海の中へと散った。その報せは友人が亡くなってから数日後に老人のもとへもたらされた。
それから約一年後、終戦を迎えたが、そこからも大変だったと老人は言う。
生活もだが、亡き友人の願いを叶えるためになまえを探したが会うことはできなかった。否、正確にはもう会うことが出来なくなっていたのだった。
「なまえさんの実家はこの辺りだったんだが、私が会いに行った時にはもう……流行病でこの世には居なかった」
「亡くなって、いたんですか?」
老人はゆっくりと頷く。
それではつい先日まで会っていたなまえは一体何者なのだろうと疑問が渦を巻く。混乱する頭をなんとか冷静に働かせていると、会えなかったが、と老人は繋いだ。
「子どもがね、居たんだ。小さな女の子が」
なまえの親戚達は比較的安全だった実家で身を寄せ合って生活をしていた。終戦後もその生活は続き、見るからに苦しい状態だった。なまえの両親も既に亡くなっており、女の子は居場所に困っていた。友人本来の願いからは随分と遠ざかってしまったが、親戚達の女の子の扱いの悪さを目の当たりにし、何とか話をつけてその子どもを自分の養子として育てることにした。
「今日ここへ来たのは、実は夢の中でなまえさんに呼ばれたからなんだ。会ったこともないのに、彼女はこう言ったんだ。"今すぐにきて"――と」
起きた瞬間、居ても立ってもいられずに、ずっと仕舞っていた預かっていたグローブと写真、そして最低限の荷物だけを持って、付き添いの家族とともに北海道の地へ再び足を踏み入れた。ちなみに付き添いの家族は息子とその孫で、今は近くのショッピングモールで土産を物色中だという。二人が買い物をしている間、老人は一人、ふらりとここを訪ね、偶然にも投球練習をしていた降谷を見かけたのだと結んだ。
「なまえさんが会いに来いと言った理由がわかったよ」
老人は降谷を見るなり、優しい笑みを浮かべた。
「あの人にそっくりな君に、会いに来いって意味だったんだなぁ」
老人の友人であり、なまえの最愛の夫である彼に似ていると言われ、降谷は何気なく写真に視線を落とす。なまえがここに来たのは、探し物をしていたのではなく、本当は彼に会う為だったのではないだろうか。
自分は話に聞いた彼ではない。
けれどもなまえは降谷の前では暗い顔を見せなかった。初めて会った時も、虹を見たときも、お菓子を食べたときも、他愛のない話をしていたときも――。虹を見たとき、なまえとしっかりと手を握っていた。名前も呼んでくれた。
ふと、なまえは今どこに居るのだろうかと考える。もう一度だけでも良い、会って話がしたい。
「君、さっき写真を見てなまえさんと呼んでいたが……知人に似ているというのは嘘だろう?」
どきりと胸は高鳴り、嘘ではないと慌てて頭を左右に振るが、長く生きていればわかるものはわかる、と老人は笑う。
「君なら、きっとなまえさんに会うことが出来るだろう。だから一つ、頼まれてくれるかい?」
なぜ嘘だとばれたのかと胸に手をあて考えながら、何ですか? と降谷は尋ねる。老人は降谷の手を取ると、持っていたグローブを渡した。すぐに返そうとするも、老人はしっかりと降谷の手をとる。
「頼む」
強かに、それでいて真っ直ぐな瞳で告げた。
どうしても断ることが出来ず、わかりました、と頷いた。老人は朗らかに微笑む。グローブをしっかりと手に持ち直すと同時に、どこからか軽快なメロディーが流れる。どうやらショッピングモールに残してきた家族からの電話らしい。老人はズボンのポケットから携帯電話を取り出すと豪快に話し出した。時々電話の内容が聞こえてくるのだが、勝手に居なくなったことに対して家族はかなり怒っているようだ。怒る男性に、わかったわかった、と老人は面倒臭そうに返事をすると、すぐにそっちへ戻ると言うなり電話を切った。
自分は子どもではないとぶつぶつとこぼす老人に、家族が怒る理由もわかる気がして、降谷は苦い笑みを浮かべた。
引き止めて悪かったね、と先程の電話の勢いはどこへ行ったのか、老人は柔らかな口調で言う。さっきとぜんぜん違う、と降谷は内心突っ込みを入れる。腰を上げ、軽く背中を叩きつつ、老人は思い出したかのように声を上げた。
「そういえば、まだ君の名前を聞いてはいなかったね」
老人から遅ばせながらと自己紹介をされ、降谷も名乗る。グローブを片腕で抱えると、老人と握手を交わした。すぐそこまでだが、老人を見送ることにした。途中までトランクを持つと言うと、老人は少し照れくさそうにしながらも快く預けてくれた。
「暁くん、歳はいくつだね?」
「十五です。春に、高校へ進学予定です」
若いのう、と老人はのほほんとした色で呟く。
「地元の学校に行くのかい?」
「青道高校に行きます」
「はて、青道?」
東京にある私立学校で、一般入試で受けるつもりだと降谷は手短にだが話す。老人は相槌を打つと、こんなこともあるんだなぁ、と続ける。
「私のひ孫も春に受験でね、君と同じ青道へ行くと言っていたよ」
さらっととんでもない発言を聞いた気がしたが、降谷はぱちぱちと目を瞬く。もし会ったら仲良くしてやってくれ、と老人は笑顔した。
ここまでで良いと言われ、老人にトランクを返すと、挨拶もそこそこに頭を下げた。老人は手を振り去っていく。しばらくその背中を見ていたが、ふと降谷はあることを聞き忘れていたと思い、小さくなる背中に向かって声を張り上げた。
「あの!!」
声は老人の耳に届いたのか、歩みを止めると振り返る。
「なんだねー?」
「なまえさん、手袋を探してるって言ってたんですけど……それって、どんなものなのか知っていますか!?」
老人はきょとんとしたが、すぐに大きく笑った。なぜ笑う……と思った降谷に、老人は教えてくれた。
「手袋は、いま暁くんが手に持っているそれのことだ。昔、色々とあってね。グローブのことを手袋と呼んでいたんだ!」
そこでようやく、降谷はすべてを理解した。大きく息を吸い込むと、ありがとうございました!! と礼を言う。老人は手を振ると、再び歩を進めた。
老人の姿が見えなくなると、降谷はグローブをしっかりと持ち直し踵を返す。陽が傾きはじめた河原の中で深呼吸を一つすると、降谷はあの場所へと走り出した。
愛子||170822