呼吸を整え、軽く深呼吸をする。持っていたものを後ろ手に隠すとゆっくりと歩み寄り、こんにちは、と声をかけた。手の甲で汗を拭いつつ、なまえは振り返ると同時ににこりと微笑んだ。
「こんにちは、暁くん! 久しぶりだね」
「一日しか会ってないですけど」
だから久しぶりではないと真顔で言うと、そうだったかしら、となまえは冗談っぽく首をかしげた。
「手袋、探してたんですか?」
なまえは相槌を打つも、今日も見つからなかったわ、と成果を報告した。本当にどこへ失くしたのかしら、となまえは眉を八の字にする。降谷は静かに息を吐くと、手袋って、と切り出した。
「茶色の、分厚いものですか?」
するとなまえはぱちりと目を瞬き頷く。
「甲の方に自分のものって印がある」
「そうそう! 自分のものには何でも印をつけたがる人だったの。わたしが大事だって言ってるものにもつけるんだもの……」
あきれたように肩をすくめるなまえに、降谷は持っていたものをそっと差し出した。
「探しているものって、これですよね」
降谷の手の中にある手袋を映した刹那、なまえは大きく瞳を見開く。しばらくじっと見つめ、程なくしてゆっくりと唇を動かした。
「それ……どこにあったの?」
初めての表情に一瞬、言葉に詰まるも、えっと、と降谷は答える。
「預かったんです」
案の定、誰に……? と尋ねられ降谷は瞬時に頭を回転させる。しかし、何故かすぐに言葉は出てきた。
「託すって言ったのに、勝手に持ち出していて……――」
きっとこれは、"彼"が伝えたかったことなのかもしれない。
「ごめん、なまえ」
なまえの頬に一筋の涙がつたった。手を伸ばし、探し物――グローブを包み込むようにして触れる。
「持ち出していたのね……だからずっと探しても見つからなかったのね」
ぽろぽろと止め処なく涙を流し、なまえは声を詰まらせつつこぼす。降谷はおろおろとなんて声をかければ良いのかと困っていると、唐突になまえはにこりと笑い頭を下げた。
「わざわざ届けてくれてありがとう、暁くん」
降谷は謙遜するが、とても感謝しているのだと述べる。涙を拭うと、あのね、となまえは継いだ。
「わたしのわがままを聞いてもらえないかな?」
「僕に出来ることなら……」
「暁くんにしか、頼めないことなの」
降谷の手にあるグローブをぽんっと軽く叩いた。
「これをつけて、一球、投げてほしいの」
いつもみたいに、となまえは添える。それなら、と降谷は快く頷くといつもの位置へと立った。グローブを手につけると、初めて触れるにも関わらず手にしっくりと馴染んだ。あの老人が手入れをしてくれていたお陰なのか、それとも――……。
ズボンのポケットに仕舞っていたボールを取り出し、グローブの中で強く握る。ちらと視線を動かすと、いつも見学をしている場所になまえは居る。傍で見てくれているという確認を終えると、降谷は前を見据えた。
神経を研ぎ澄まし、頭の中で思い描く。壁は、自分のボールを取ってくれるであろう例のキャッチャーの姿に変わった。大きく広げられたミットを瞳に映す。グローブの中でボールを握る手に力が入った。片足を上げ、投球フォームをとる。グッと力強く足を地面につけると同時に、思い切り肩を振り抜いた。ボールは、まるで生きているかのようにうなりを上げて走る。今までに聞いたことのない音とともに、投げたそれは、キャッチャーのミットにしっかりとおさまった。
ナイスボール、とキャッチャーに言われた気がした。
思わず声を上げ、ぐっと拳を握る。渾身の一球の感想を聞きたくてなまえを見やる。瞬間、降谷はえっと驚いた。
なまえの体は光の粒子とともに透け始めていた。慌てて傍へ行くと、寂し気な色をなまえはする。
「もっと暁くんと一緒に居たかったけれども……残念」
まだ話していないことがたくさんあると降谷は告げる。動物図鑑だって約束をしたのに一緒に見ていない。伝えたい言葉がとめどなく溢れてきて、降谷はたまらず口ごもる。すごした時間は短く、たったの数日程度だが、なまえはいつの間にか降谷にとって大きな存在となっていた。
「……また、逢えますか?」
なまえはふわりとはにかんだ。
「必ず、逢いに行くわ。だからそれまで……待っていてくれる?」
もちろん、と降谷は強かに頷いた。
「待っています。それまで、これは僕が預かっています」
グローブをはずし、そっと差し出す。わかったわ、となまえは返事をすると満面の笑みを浮かべた。
全身が粒子に包まれ、なまえの姿が消えた瞬間、ざあっという音が聞こえた。何気なく空を覗くと、晴れているのに雨が降っていた。いつか一緒に見たあの日の空と似ており、遠くでは虹が掛かっている。瞬きを一つするなり、降谷の頬に一筋の大粒の雫が伝った。
今度はなまえが約束を守る番だ。
グローブを抱きしめるように持つと、降谷はきゅっと下唇を噛んだ。
愛子||170822