早く帰って今日はゆっくりと眠りたい。口の中でそう呟いた時、金属バットの高い音が聞こえた。普段なら特別気にもならないのだが、足は音の方へと向かう。歩を進めている間、胸は小さく早鐘を打つかのように鳴っていた。
ほどなくして辿り着いたのは、二面ある野球グラウンドだった。ここ青道高校は野球の名門としても名高いことを思い出す。二面もグラウンドがあるのは強豪校の証だろう。一面では下級生だろうか、団体で声を出して走っており、もう一面では試合を想定しての本格的な練習が行われている。サングラスをかけた男性がベンチから声を張って指示を出していた。男性の指示を受け部員達は腹から声を出し従う。
ふと、例の夢に出てきていた男の子の姿を脳裏に描く。あの男の子も確か野球をしていた。橋の下で一人、壁に向かってボールを投げていた。
会いたい、と唇から言葉がこぼれていた。はっと我に返りふるふると頭を軽く振る。何を考えているのだがと肩をすくめた。夢の中で出てきた人を想うなんて、と自嘲気味に笑う。そろそろ帰ろうと踵を返した。
瞬間、動きは止まった。
瞳を見開き、偶然に出会った人物から視線をはずせない。何故、どうして、と頭の中で疑問が渦を巻く。かける言葉がまとまらず、ただただじっと見つめていることしかできない。目の前に居る"彼"も驚いた色をしていた。
「なまえ、さん?」
「暁くん……?」
初めて逢うはずなのに、名前なんて知らないはずなのに、お互いに呼び合っていた。視線をそらそうとするが動かすことができない。今ここで別れてはいけないと思った。
唐突に彼――降谷はふわりと微笑む。白い息をくゆらせ、嬉しそうに紡いだ。
「約束、守ってくれた」
傍へと歩み寄るなり、降谷はそっとなまえの手を握った。温かくて大きな手に胸は高く鳴る。ぎゅっと強く握ってくる降谷の手を払うことはしなかった。
約束……、と心の中で復唱する。
『必ず、逢いに行くわ。だからそれまで……待っていてくれる?』
『待っています。それまで、これは僕が預かっています』
夢での会話が一つ一つ、蕾が花を開くように蘇る。ほころびそうになる表情を一生懸命に保ち、なまえもぎゅっと強く手を握り返す。
二人の間にはらりはらりと雪が舞い落ちた。しかし、いつしか空は青く晴れ渡り、雲間から太陽が顔をのぞかせていた。まるで二人の再会を祝福するかのように、金属バットの高い音が心地よく響き渡る。
夢の中で約束したことが本当に叶っただなんて今でも信じられない気持ちだ。なんて表現するのが正しいのかはわからない。けれども気持ちに嘘をつきたくなくて、こみ上げてくる感情を偽りたくなくて、心の奥底から嬉しさを表すために表情を緩めて笑った。降谷も同じことを思っていたのか、応えるように小さく微笑んだ――。
繋がった声に僕たちは微笑む
(この瞬間から、二人の新しい物語が綴られていく)
愛子||170822