四限目の授業の準備をしている時、小湊春市は思わずあっと小さな声を出した。次の授業は古典で、確か辞書を使うから準備をしておくようにと前回の授業で言われていたのだが、大事なそれを寮に忘れてしまった。今から寮に取りに行くにも時間がかかる。となれば、友人の沢村に借りに行った方が良いだろう。春市が腰を上げ、沢村の教室へ向かおうとした時、扉の前に見覚えのある人物が現れた。

「あれ、なまえ先輩?」
「あ、春市くん!」

ちょうど良かった、と言わんばかりになまえはちょいちょいと手招きする。春市は首をかしげつつ、なまえの傍へと歩み寄った。

「どうかしたんですか?」
「あのさ、英和辞書持ってない?」
「英和辞書ですか? ありますけど、」
「今日、使う予定とかってある?」
「今日はもう使いません」

すると突然、神様〜っ、と目をキラキラと輝かせなまえは春市の両肩をがしりと掴んだ。わっと驚く春市に、なまえはずいと顔を近づける。

「英和辞書、貸してください!」
「あ、ええっと、僕ので良ければ……」
「恩にきるよー!」

ちょっと待っていてください、と告げ春市は自身の席に戻ると机の中から仕舞ったばかりの英和辞書を取り出した。手に取り踵を返し、なまえのもとへ戻る。どうぞ、と差し出すと、ありがとう! となまえは安堵の色を見せた。
次の授業で英和辞書を使うそうなのだが、用意し忘れてしまったのだという。仲の良い友人数名をあたったが、何故か今日に限って欠席しており、借りるにも借りれない状況に陥ってしまったらしい。なんて運の悪いと春市は思ったが心の中で留めた。仕方なく一年生の棟へ赴き、沢村たちを訪ねたが生憎次の授業で使うのだと断られてしまい、流れるように春市の教室へとやって来たのだとなまえは結んだ。

「でも良かった。これで礼ちゃんに怒られないですむよ」
「あはは、お役に立ててよかったです」

にこりと微笑む春市に、本当にありがとう、となまえは再度お礼を言う。照れる春市だったが、ふとあることを思い出し尋ねた。

「なまえ先輩、あの、実は僕もお願いがあるんですけど……」

わたしで叶えられることなら! となまえは自身の胸を叩く。春市は古典辞書を忘れてしまったことを話した。春市の話を聞くなり、なまえは一度教室の中を覗き込み壁掛け時計に目をやる。次の授業開始まで5分程時間はあった。

「ちょっと待ってて」

そう言い残すと、なまえは唐突に走って行った。階段のある角を曲がった時、廊下を走るな!! と怒鳴る体育教師の声が聞こえた。遠くで、いま緊急事態なんですー! と返すなまえの言葉も聞こえた。
トイレに行っていたのか、眠気眼の降谷が教室へ戻ってきた。ハンカチをズボンのポケットに仕舞いながらドアの前に立っている春市を見て、何してるの? と尋ねる。なまえ先輩を待っているんだ、と春市は答えた。なまえの名前が出てきたことに不思議に思ったのか降谷は首をかしげる。実はね、と春市は先程のことを掻い摘んで話した。すると、降谷は次は授業が古典だと知り小さくため息をつくとのんびりとした足取りで席へと向かった。降谷の背に視線をやり、また寝る気だなと春市は悟り苦笑した。
春市は何気なくなまえが去って行った方を見る。すると、おーい、と手を振るなまえの姿があった。駆け足で帰ってくると、息も絶え絶えに春市にあるものを差し出した。

「ちょっと汚れてるけど、よかったら使って」
「古典の辞書!? 良いんですか?」

こくこくとなまえは首を振る。急いでくれたのか、肩で息をしていた。額にはじんわりと汗を浮かべ、ふうっと手の甲で軽く拭った。
春市は辞書を受け取り、ありがとうございますっ、と頭を下げる。そんな春市の頭を、なまえはくしゃくしゃと撫でた。上目でなまえを見ると、ふわりと微笑んでいた。

「困ったときはお互い様だよ」

その笑顔が眩しく春市は息を呑む。頭の中ではもう一度お礼を言わなければと考えるのだが体は動かなかった。その時、予鈴が鳴った。なまえは手を離すと、それいつでも良いから、と言い背を向けた。春市はハッとなりなまえの背中を目で追う。遠くなるその姿に、大事に使います! と春市は声を張って伝えた。するとなまえは一度だけ振り向くと、にこりと笑った。


恋とは突発的で、不意打ちが得意なもの
(……先輩だと思って、大事に)

愛子||190331(title=星屑Splash!)