御幸は、よっ、と片手を挙げ挨拶する。なまえは読んでいた本をパタンと閉じると、掛けていた眼鏡を外す。ベットサイドテーブルの上に手に持っていた二つを置くと、同じように手を挙げて挨拶をした。
「毎日来なくても良いのに……今日は何を持ってきたの?」
「そう言ってちゃっかり見舞いの品期待してんじゃん。ほら、」
なまえの傍へ寄り、持っていたケーキの箱を渡す。両手で受け取り箱を見るなり、あそこのケーキ屋かー! となまえは嬉しそうに笑顔した。テーブルの上で箱を開け始めたなまえを見ながら、近くにあったパイプ椅子を持ってくるととすんと腰掛ける。二つあるケーキを前に悩んでいるなまえに、こっちは期間限定のやつ、と御幸は説明する。するとなまえは案の定、期間限定のケーキを選んだ。
「一也も食べれば? やっぱりここのケーキ、美味しいわよ」
「いや……俺、甘いのあんま好きじゃねぇし」
「毎日がんばっている自分の体を労わってやりなさいよ。はい、スプーン」
「苦手な物を無理して食う方が体にとってはストレスじゃね?」
「糖分摂取も大事なことよー?」
「姉ちゃんはちょっと糖分を控えた方が良いと思うけどな」
「殴られたいの? ていうか、糖分摂取を控えさせたいのなら、明日はお煎餅持ってきなさい」
「結局、食べ物は買ってこねぇと駄目なんだ」
むすっと顔を顰めつつもなまえはケーキを一口食べる。数秒経たずに表情を幸せそうにとろけさせた。そんななまえを横目に御幸も渋々と買ってきたケーキを食べる。こんなことになるのなら、コーヒーゼリーか甘さが控えられている物にしておけば良かったと心の中で呟いた。
なまえから体の具合を聞き、その後に今日あった出来事を話す。時折、他愛の無い話を交えるとなまえは小さく笑った。そういえば、と御幸はショートケーキのいちごを摘み上げ、周りについているクリームをスプーンで落しながら尋ねる。父親は来たかと問うと、今日も来てないよ、と既にケーキを平らげているなまえは何気ない色で答えた。
仕事が詰まっていない時は御幸と同じように毎日のように父親は見舞いに来ていたが、ここ一週間程姿を見ていない。今の時期、毎年忙しかったのをなまえは知っているのか、特に気に止めているようではなかった。やっぱ行けてねぇのか、と御幸も毎日遅くまで仕事場に居る父親の姿を脳裏に思い描きながら口の中で呟く。顔を出していないということは、休憩もろくにとってはいないのだろう。
あっ、と唐突になまえは声を上げ御幸を見た。ようやくケーキを食べ終えた御幸は要らない物を丸め、ゴミ入れにしているケーキの箱の中に捨てつつ、何? と問う。
「この時期ってほら、進路相談とかの時期じゃない? もうどこに行くとか決めてるわけ?」
そういえばなまえにはまだこの話しをしていなかったか、と御幸は思う。
「俺、青道に行こうって思ってんだ」
青道? となまえは復唱し、数秒経ってからポンと手を打った。
「野球が強いところよね、確か。そういえば前に、その青道の人からスカウトされたって言ってたわね」
御幸がまだ中学一年生だった時に話してくれたある話題を思い出したらしく、懐かしいなぁ、となまえは微笑む。そうそれ、と御幸も口元に笑みを浮かべた。
父親には先日、夜遅くにだが話しをして既に了承を得ていた。御幸は自身の気持ちを交えながら話をする。なまえは時折相槌を打った。考えを聞き終えたなまえは小さく息を吐くと、腕を伸ばし、そっと御幸の頭を撫でた。
「自分で道を決めたのなら、しっかり進みなさい。お姉ちゃんは応援しているわ」
なまえに頭を撫でられながら、御幸は少し照れたように頬を染める。突然に、なまえからひゅっという音とともに咳が出た。御幸から手を離し、なまえは急いで自身の唇を手のひらでおさえる。体を弓のようにしならせ、激しく咳き込んだ。御幸は慌てて席を立ち、なまえの背を優しくさする。ほどなくして咳は治まり、なまえは呼吸を整えながら、ありがとう、と弱々しい声で礼を言った。誰かを呼ぶがと問いかけるも、なまえは頭を左右に振り大丈夫だと返す。御幸は一瞬、戸惑ったが、なまえはもう一度大丈夫だと言った。
「それにしても、あんたが青道に行くとなれば、またお父さんの負担が増えるわね」
「それを言われると俺、何も言えねぇんだけど……」
「まあ、わたしも人のこと言えないけど」
お互いに顔を見合わせ、ふっと表情をゆるめる。しばらく小さく笑いあった後、なまえは深く息を吐いた。
「一也がこうして毎日来てくれるのも、後ちょっとで終わっちゃうのね」
「休みの日には顔出すよ。その時にはまたお菓子買ってくる」
「もう、そんなにわたしを太らせたいの? 嫌な弟ね」
「はっはっはっ。それ、褒め言葉だよ」
なまえはさっと腕を振り上げると、御幸も咄嗟に防御の体勢をとる。その時、コンコンとノック音が部屋に響いた。なまえが返事をするとゆっくりと扉は開き、看護師がやって来た。本日三度目の問診を行うそうだ。その後に夕飯が来る。今日はもう帰ろうと思い、御幸は席を立った。看護師に軽く挨拶をした後、帰る旨をなまえに伝える。すると、なまえは一瞬寂しそうに目を伏せた。しかしすぐに微笑むと、気をつけなさいね、と声をかけた。
刹那に浮かべた表情を御幸は見逃さなかった。なんて顔をしているのかと思ったが、言葉にはしなかった。傍へやって来た看護師と仲良く話すなまえの頭に腕を伸ばし、くしゃりと撫でてやる。するとなまえは目を丸くして御幸を見上げた。
「また明日な」
手を離し、床に置いていた荷物を持ち上げ肩にかける。どちらが年上かわからなくなってしまった状況を目の当たりにした看護師は、目を細めて二人を見ていた。御幸に撫でられた場所を手で押さえながら、早く帰りなさいばか、となまえは恥ずかしそうに返した。御幸はニッと笑顔すると、扉へ向けて踵を返した。
「―― 一也!」
呼び止められ、御幸は振り返る。
「また、明日ね」
なまえはまるで太陽のようにまぶしい笑みを浮かべて、手を振った。また明日な、と答えると、御幸はゆっくりと部屋を出て行った。
明日の約束を胸に抱いて
部屋を出るなり御幸は背を扉に預け、軽く息を吐いた。"また明日"といつものように約束は交わしたものの、その約束がいつ破られるかはわからない。以前、父親と二人で主治医から話を聞いたが、いよいよなまえの時間は迫っているようだった。先程、なまえがした咳は今までに聞いたことのない音を発していた。くそっ、と吐き捨てると、楽しそうに笑うなまえの声を背に聴きながら、御幸は来た道をなぞる様にして歩き始めた。
愛子||190331(title=空想アリア)