ふわりと良い香りが鼻腔をくすぐった。ゆっくりと瞼を開き、嗚呼そういえばと思い出す。先日締め切りの生徒達の論文を長ソファに仰向けになって一つ一つ読んでいたのは良いのだが、途中で寝てしまったらしい。徹夜四日目となると本人の意志とは関係なく身体は正直なようだ。顔にのせていた論文を退けて上半身を起こす。眉間をもむ様にしてソファに座りなおすと同時に、ふと人の気配を感じた。視線を上げて対面を見るなり、ロード・エルメロイU世は顔を顰めた。

「何で居る?」
「あら。頼まれていた本を届けに来てあげたのよ?」

にこりと微笑むと、対面のソファに座っていた人物――なまえ・みょうじはティーカップをソーサーの上に静かに置いた。テーブルの上には二人分のティーセットに分厚い本が一冊。ふわりと香っていたのは、なまえが勝手に淹れた紅茶だとわかった。本を手に取ると、確かに自身が頼んでいたもので間違いない。勝手に入ってくるなと呟くようにこぼすと、お言葉ですけど、となまえ。

「次の講義までにその本を必ず届けて欲しいと言ったのはあなたです。文句を言う前に感謝の言葉を述べるべきかと」

なまえの言葉を一切無視し、エルメロイU世はぱらぱらと本を捲りつつ用意されていた紅茶を一口飲む。香り高いそれは口に含んだだけでとても心安らぐものだった。

「ちなみにそれ、最近わたしがはまっているラベンダーティーです。どうです? ホッとするでしょう?」

自慢の一品なのか、ふふんっと鼻を鳴らしてなまえは胸を張る。そうだなと適当に相槌を打つと、もっと褒めてくださいよーっ、なまえは今度はぶすっと両頬を膨らませた。
相変わらず忙しい奴だとエルメロイU世は小さく息を吐く。ぱらぱらと本に目を通しながら、ぷいっと拗ねてしまったなまえに軽く視線をやった。
なまえは時計塔で学んだ魔術師だ。現在はフリーの魔術師として各地を飛び回っているのだが、時折、危険なことを請け負うこともあるらしい。だが、こうして無事に帰って来ているのだから魔術師としての腕と運は確かに持ち合わせている証拠だ。探し物も得意な方で、時折、講義で使う時計塔には置いていない魔術の書物を依頼している。支払いは見知った仲ということで出世払いで約束をしているのだが、これは二人だけの内緒だ。

「それで? 他にも用があったんじゃないのか」
「んー?」
「本を届けに来ただけではないだろう」

そう問うと、なまえはすぐには答えず紅茶を一口啜った。
もう一つ、エルメロイU世はなまえと仕事以外の縁を結んでいる。

「――ウェイバーの顔を見に来たの」

ティーカップをソーサーの上に戻すなり、なまえは照れたように微笑んだ。エルメロイU世となまえは時計塔で学んだ仲間であり、幼馴染であり、そして――恋人同士だ。ぱたんと本を閉じテーブルの上に置き、エルメロイU世は肩をすくめる。唐突に自身を訪ねて来たのはまるで猫のような性格のなまえの気まぐれだろう。本は来週の講義までに届けてもらえれば良かったのだから。
静かな時間が二人を包む。何を話そうかと、徹夜続きのおかげで回転しない頭を動かそうとした時、さてっ、となまえは背伸びをするなりソファから立ち上がった。

「顔も見れたことだし、そろそろ帰るね。あまり根を詰めちゃ駄目よ?」

いつもより短い滞在時間に、エルメロイU世は驚いた。なまえなりに気を利かせてのことなのだろうが、らしくない心遣いにぱちぱちと目を瞬く。いつもなら長時間滞在し、訪ねてきた生徒や弟子達をからかったりするため、頭痛の種となることもある。それじゃあっ、と手をあげて立ち去ろうとしたなまえを、エルメロイU世は咄嗟に引き止めた。腰を上げて腕を伸ばしなまえの手をとった。きょとんとした色を浮かべているなまえに、ぽつりとこぼすように言葉をかけた。

「明日、休みなんだが……」

ぴたりと歩みを止めてなまえはエルメロイU世を見るも、数秒と経たずに綻んだ色を浮かべる。

「それじゃあ、たまには彼女らしく料理でも作りに行ってあげようか?」

もちろん断るつもりはない。誘ったのは自身だし、なまえからの提案は願ってもないことだ。なまえにだけしか見せない表情で、エルメロイU世――否、ウェイバー・ベルベッドは、たまには頼む、とだけ返すと握っていたなまえの手の甲に触れるだけのキスを落とした。


愛欠乏症の応急処置
(明日は一日のんびりと、二人っきりで――……)

愛子||180820(title=星屑Splash!)