任された仕事を終えてようやく帰宅しようとしたが、あらら……、とひとりごちた。外は雨が降っており厚い雲がかかっている。これはしばらくの間、止みそうにない。今朝の天気予報では降水確率はゼロパーセントと言っていたのにと思う。生憎、置き傘もなければ折りたたみ傘も持ってきてはいない。困ったなぁと呟いたと同時に、おや、と背後から覚えのある声が聞こえた。
「なまえ?」
「アーサー……?」
声の主を瞳に映すなりなまえは軽く手を上げる。こんなところで何をしているのかと問われ、なまえは空を指差した。隣に並び指差した先を見つめ、なるほどとアーサーは理解する。
「傘は持ってきているのかい?」
両手を軽く広げ、ふるふると頭を左右に振る。すると、君に一つ提案があるのだが、とアーサー。
「互いに家は近い。一緒に入って行くかい?」
学生鞄から念のために入れていた折りたたみ傘を取り出して見せると、なまえの瞳はきらきらと光を帯びた。数秒と経たずに、是非! となまえはアーサーの提案を快く受け入れる。二人は一本の小さな傘に身を寄せ合うと帰路を歩み出した。
アーサーはつい先日、日本へ帰ってきた。所謂、帰国子女だ。生まれは日本だが両親の仕事の兼ね合いで幼い頃よりイギリスに住んでいたのだが、一通り落ち着いて戻ってきたそうだ。日本での生活や学校に慣れるまで、クラス委員長であるなまえが面倒を見るようにと転校初日に担任教師の藤村大河から役目を任命され、そのお陰とも言うべきか、アーサーとは名前で呼び合い気兼ねく話をする仲にまでなった。更に驚くべきことはなまえとアーサーは家が近く、登下校は転校翌日から二人一緒に行っている。
今日はなまえがクラス委員として仕事をこなす為に放課後は一人で教室に残り、アーサーは仲良くなった隣のクラスの藤丸立香とその後輩のマシュ・キリエライトの誘いにより部活見学を行っていた。帰りは別々になると高を括っていたが、まさか一緒になるとは露とも思わなかった。
道中、二人は放課後での出来事を話し合う。手伝えなくてごめんよ、と謝るアーサーに、立香達との約束の方が大切だもの、と微笑む。なまえの優しさにアーサーは安堵の色を浮かべ、ありがとうと礼を言った。
「入りたい部活は決まった?」
「まだ決定したわけではないけれど、剣道部が気になっているかな」
「剣道……!」
道着を纏い竹刀を振るうアーサーの姿を脳裏で想像し、良い……、となまえは口の中で呟く。もう少し考えてみるけどね、と続けるアーサーに、わたしも剣道に一票入れとく! と力強く告げた。小さく笑うアーサーを見て、どうして笑うのかと問うものの、ふとなまえはあることに気づいた。アーサーの肩が随分と濡れていた。何気なく自身の肩に視線を向けると、傘はなまえの方に傾けられており濡れている面積は少ない。笑い続けるアーサーに目線を戻す。なまえは腕を伸ばし、傘の柄を握るアーサーの手に触れた。笑うのを止め、えっ、と驚くアーサーになまえは唇を開いた。
「アーサー、濡れてる。もっと自分の方に傘を寄せて」
「あ、ああ。すまない……気をつけるよ」
うんっ、と頷くと再び二人は歩き始める。傘は真っ直ぐに差されていたものの、程なくしてやはりなまえの方に傾く。もう一度、なまえがアーサーの手に触れ、傘を真っ直ぐに戻した時だった。
「なまえ、その……もう少し傍に来てくれないかい?」
なまえはぱちりと目を瞬く。それはつまり――と思い上目で見ると、アーサーの頬はほんのりと赤く染まっていた。
「傍に寄ってくれた方が僕としても有難い。……あっ。いや、別にやましい意味とかで言ってるわけではないんだっ」
だからその、と言葉に詰まるアーサーの表情が面白くてなまえは思わず笑ってしまったがすぐに体を寄せ、これで良いかな? と問う。一息空けてからアーサーはぎこちなく頷いた。
「それに、こうしていればアーサーも濡れないね」
にこりと微笑むなまえに、そうだね、とアーサーも相槌を打った。
歩くたびに制服がこすれ合い、知らずと胸は高鳴り、互いに顔を上げるのも恥ずかしく感じた。
まるで時間が止まっていたように思えた帰路だったが、いつの間にかなまえの家の前に着いた。送ってくれたことに礼を言い、小走りで家の中まで走ろうとしたが、何かを思い出したのか、ぽんっと手を打った。スカートのポケットから可愛らしいゆるキャラ系のライオンが描かれたハンカチを取り出すとアーサーに差し出した。
「良かったら使って」
「いや、大丈夫だ」
「駄目。使って!」
濡れているアーサーの肩をハンカチで軽く拭くと、なまえはもう一度ハンカチを差し出す。二度目は流石に断れず、一呼吸置いてからアーサーは受け取った。
「送ってくれて本当にありがとう、アーサー!」
「気にしないで。それじゃあなまえ、また明日」
バイバイと手を振り家へ走るなまえの背中を無事見送ると、アーサーは傘を持ち直し再び歩みを進めた。手の中にあるなまえのハンカチを見るなり自然と表情は緩む。受け取ったハンカチは使わずに、器用に折りたたむとズボンのポケットへと仕舞った。
濡れた肩を一瞥し、アーサーはふっと笑みを浮かべる。家へ帰ったなまえの肩はあまり濡れてはいなかった。だからこれは勲章でもある。密かに想いを寄せている彼女を雨から守れたという誇るべき証。
傘をずらし空を仰ぐ。雨は止み雲間の間からオレンジ色の太陽が覗いていた。真っ直ぐに前を見据え、明日またなまえと会えることに心を躍らせる。暖かな橙色が、アーサーの帰り道を照らしていた――。
この止まらない気持ちを教えて
(クラスメイトとしてではなく、友人としてではなく、君が愛しいということ)
愛子||180125(title=空想アリア)