女性が男性にチョコレートを贈り、日頃の感謝を伝える日。
もしくは、世話になった者が性別問わず贈り物をして感謝を伝える日。
等々、由来や歴史は様々ある。
今日はカルデアベースでも甘い匂いが漂っている。カルデア職員でオペレーターとして勤務しているみょうじなまえは、廊下を歩きながら鼻腔をくすぐる香りにふわりと微笑んだ。同じオペレーター勤務の職員に軽く事情を説明し、今は一時間だけ勤務を変わって貰っている。急いで"彼"を見つけなければ。
なまえは輪廻転生を繰り返していた元仙女だ。封神演義の派生作品では引き名で記されている太公望の後妻である。封神計画実行時より太公望と共に行動し、いつしか二人は惹かれ合い、物語の後半で正式に夫婦となった。だが、結末はどの作品も同じで封神寸前の妲己に致命傷を負わされ道連れにされる。本来であれば封神台へ収められるはずだったが、収める場所が無く、けれども身体から離れてしまった魂は戻れず、いつしか浄化される運命を待つしかなかった。しかし、なまえはそれを良しとせず、自身の力を使い輪廻を巡る旅へ立つ。
それはいつか、最愛の人との再会を願って。
獣の呪いを受けながら、何十、何百、何千と流転の度を続けるも、長い歴史の中で様々な苦痛を受け続け、いつしか心を閉ざしてしまった。
封印は太公望が来てから少しずつ解けており、記憶も戻ってきている。二人が夫婦であり、探し求めていた最愛の人は
呪いは、祝福へと転じたのだ。
なまえが特殊な魂の持ち主だというのは、カルデアベースに居る者は既に知っている。ちょっとした諸事情で太公望が召喚されたその日のうちに広まったのだ。その話は今は置いておこう。
今日がバレンタインデーだというのをもちろん知っていたから、太公望に内緒でなまえも贈り物を準備していた。両手に持っているラッピングされた赤い箱の中には、王道のハート型チョコレートが入っている。
輪廻転生を繰り返していたなまえだが、料理はそれなりに上達したもののお菓子作りに関してはまだまだ素人だ。自分でもお菓子作りが下手だと認めていた為、急遽頼み込んだ先が虞美人だった。
虞美人とは仙人時代の時に一度、輪廻を巡る旅で何度か出逢い、同郷であり秘めた心の願いが似ていたが故に、いつしか互いにどちらが言うまでも無く友人と認め合った。カルデアベース内でなまえよりも先に最愛の人と再会を果たした虞美人も、項羽の為に贈り物を作る予定だったから片手間と言いつつも初心者でも出来るチョコレート作りを一から十まで、手取り足取りしっかりと教えてくれた。
『虞っちゃん、型にチョコレートを流し込んだ後は冷蔵庫で冷やせば良いのよね?』
『虞っちゃんて呼ぶな。――ていうか何でそんなドロッドロのブヨッブヨなチョコレートになってるのよ!?』
『言われた通りにしたのに何でだろう……火力を間違えたかもしれない』
『どうしてたかがチョコ作りに仙術使うわけ? お菓子作りド下手くそにも程があるわよ』
『これからどうすれば良いかわからなくなりました、助けてくださいお願いします虞っちゃん先生』
『あんたいつか殺すわ』
物騒な物言いとは違いこちらは今は人間だと言うのに力加減なく額を小突かれるものだからしばらく赤みが引かなかったのは内緒だ。
何だかんだとあったが、準備は万全。
ちなみに虞美人は項羽様ビッグラブチョコレートを作り上げており、あまりの大きさと重量に愛って時に重いものなんだなと密かに感心したのはまた別の話である。
さて、本来なら聞きこんで何処に居るかを
シミュレーターの一画。高い山とたなびく雲の下にある穏やかな渓流。
懐かしい、と無意識に呟いた。生前、良く太公望と訪れた場所にそっくりだったから。
辺りを見回せば、居た。背中を丸めて川に向かって釣り糸を垂らしている、愛しい彼の姿。隣には四不相も居りのんびり昼寝している。
「――釣れていますか、
生前、夫婦となる前に呼んでいた名を唇にのせて紡ぐ。ぴくりと肩を動かし、けれども振り返りはせず、太公望は軽く深呼吸を一つ。
「たった今、大きな魚が釣れたところですよ。
ちょいと竿を上げれば、水面に真っ直ぐな釣り針が見えた。これでは魚は釣れない。だが、太公望はそれで良かった。狙っていた大物は、
太公望の隣に腰を下ろせば、ふと四不相が顔を上げる。なまえが来たのを確認すると、ゆっくりと起き上がりのそのそと歩き始めた。辿り着いた場所はなまえの隣で、膝の上に頭をのせるかたちをとり再び昼寝を始める。ずるいと唇を尖らせた太公望になまえは小さく笑った。
「僕に何か御用ですか? まだ仕事中でしょう?」
再び川の中に釣り糸を戻し、ちらちらとあるものを気にしつつ太公望は問う。あまりにも分かり易い仕草に、今日が何の日なのかもう知っているのでしょう? と肩を竦めた。
「いやいや、いやいやいやいや。知りませんよ、僕。今日は噂通りに甘い匂いが漂う日だななんて、これっぽっちも思っていませんので!」
「じゃあ甘い匂いでお腹はいっぱい? それなら仕方がない、此処に頑張って手作りしたチョコレートがあったのだけど……誰か別の――四不相に贈ろかなっ!」
「それはダメです!!」
間髪入れずに言葉を荒げて遮った太公望に、こらえきれなくなり大きく笑ってしまった。釣り竿を上げて急いで置くと、僕という素敵な旦那が居ながら! と太公望はなまえに詰め寄る。
今日という日が何なのか、もちろん太公望はわかっていた。良く入り浸っている図書室で偶然、バレンタインデーの話を耳にしてしまったのだ。だから、彼女もこの特別な日に向けて準備しているのだろうというのも理解していたし、渡す相手が誰なのかも言葉にせずとも確信している。冷静沈着、それでいて余裕のある様を演出し、態度には出さないようにと一週間前から努めていたが、こうしてぼろぼろとなまえによりはがされてしまったのだから努力はある意味水の泡だ。
ひとしきり笑った後、大丈夫だよ、となまえは告げる。
「子牙以外に渡すつもりはないもの」
改めて、となまえは持っていた箱を持ち直すと太公望に差し出した。
「渡せて良かった。ハッピーバレンタイン、子牙!」
ほわっと表情は緩み両手でしっかりと受け取ると、ありがとうございます、と太公望は礼を言う。さっそく開けても良いかと聞けば、なまえはもちろんOKだと頷いた。リボンを解き箱を開ければ、中にはバレンタインデー王道のハート型チョコレート。これはこれは……、と太公望は心の中で喜びと驚きを噛みしめていた。あの料理下手のなまえが見た目も愛らしいチョコレートをちゃんと作れているのだからそこに感動も加わった。チョコレートを手に取り、ぱくりと一齧り。口の中に、甘いカカオの味と香りがふわりと広がる。ようやく味わえた本命の大物に、太公望は満足気に笑みを浮かべた。
「美味しい……?」
表情を見ればわかるが、それでも聞かずには居れない。ドキドキと胸を高鳴らせ上目で尋ねる。
「美味い!」
「そ、そう!? よかった……」
「なまえの手作りなら何でも美味しいのですが! バレンタインデーでチョコレートとなるとまた格別ですねェっ!!」
美味しいと言って貰えたのが本当に嬉しいのか、照れ隠しにわしゃわしゃと四不相を撫でまくる。これは来月にきたるホワイトデーは気合を入れなければと太公望は密かに決意した。ちなみに四不相はちょっと迷惑そうだが空気を読んで耐えている。
「なまえ、」
名前を呼ばれ慌てて太公望を見る。刹那、そっと彼の手のひらが頬に触れたかと思いきや瞳を開き優しい色で唇を開く。
「本当に、ありがとうございます。再び出逢えたことに感謝を。これからもよろしくお願いします、なまえ」
「そ、んな……お礼を言うのは私の方。私を、貴方の妻として迎えてくれてありがとう」
そっと、太公望の手に自身の手を添える。
「こちらこそ、これからもよろしくね。子牙」
互いに心を通わせ、普段なかなか言えない感謝を甘い香りにのせて伝え合った。ふと、自然と二人の距離が近くなる。なまえは瞼を閉じ、その瞬間を待った。唇同士が触れ合う――……寸前で、ピピッと何かが音を立てた。聞き覚えのある機械音になまえはハッと瞼を開き表情を変える。太公望の顔面に自身の手のひらをペチッと当ててその先を阻止した。
『みょうじー、一時間過ぎてるー』
なまえの左腕に着けていた腕時計――否、旧式の通信機からノイズ交じりに一時間勤務を代わってくれているオペレーターの声が響く。立香が持つ通信機のようにスクリーン越しに姿は映らないが、離れた場所から話しをするには十分だ。ごめんと謝り急いで戻ると告げれば、戻る前に食堂で管制室に居る職員分のチョコレート菓子を貰って届けてくれたら色々と無かったことにしてやるとオペレーター。周りからも、ギブミーチョコー! という声が聞こえた。わかった!! と声を大に返事をし通信を切る。一時間とは早すぎるものだとため息吐き、そういうわけで仕事に戻るとなまえは告げ太公望から離れた。四不相にもごめんねと告げ起きてもらう。突然の物理的阻止に痛かったところを手のひらで押さえながら、わかりました、と太公望は一呼吸開けて返事をする。
「――あっ。ほんの少し、ちょっとで良いので待ってください」
立ち上がろうとしたが呼び止められ、ちょいとなまえは首を傾ける。ぱちりと瞬きしたと同時に、唇に柔らかな感触。目の前には太公望の顔があり、二、三秒空けてから触れたものの正体を理解した。
「行ってらっしゃい、なまえ」
頬に熱がのぼっていくのがわかる。ふいと視線を逸らしたものの、なまえも自ら顔を近づけお返しとばかりに太公望の唇に自身の唇を押し当てた。まさかのことに太公望も驚いたように目を丸くする。
「行ってきます、子牙」
逃げるようにしてその場から立ち去った。先程の行為は、朝からずっと漂っているチョコレートの甘い香りの所為。頬以外にも全身に熱が巡っていくのを感じる。
今まで繰り返した輪廻の中で間違いなく一番幸せなバレンタインデーだった。
ふいに笑みがこぼれ、なまえは鼻歌交じりにシュミレーターを後にした。
バレンタインと恋する乙女
なまえが去った後、受け取ったチョコレートを箱に戻す。のちほどなまえと共に食べようと思い直したからだ。蓋を締め、軽く深呼吸を一つ。まさか不意打ちで
愛子||220214(title=Liebe)