『アー……。ネェ、なまえ』

それは所謂『恋人』という関係になってから暫くして。

  『ん?何』
  『コレ』

二つのものを渡された。

  『え、どうして』
  『いいから』

一つは、通常販売では有り得ないような細かいペイントがされた携帯電話。……プリペイド式のようで、それが金銭的に細かい自分の好みど真ん中だった。
もう一つは。

  『……アッシュって、なんか、こう………乙女だね』
  『何か文句でも?』

指輪。
飾り気の無い細身のシルバーリング。測らせた記憶もないのにサイズが薬指にぴったりだった。

  『虫除けだよ』
  『ごめん、仕事中指輪禁止』
  『人の好意を本当にキミはもう』

貰った時の気持ちは

  『――――ありがとう。大事にする』

小さな幸せ、なんて言うには大きすぎたものだった。





「―――嘘」

そんな幸せが『チャリン』なんて音をさせて地に落ちた。
気付いた時にはぺんぺん草も生えていない開けた土地と道を隔てる金網の向こう、側溝の泥の中。
思わず片膝をついてその場に蹲ってしまった。

「………どうしよう」

絞り出した声が自分でも解る程度には焦燥感に溢れていて、笑いたくても笑えない。
金網の向こう側に行けるか。それは刑務所かってくらいに右も左も延々と続いていて、出入口なんて見えない。ここを動いたらどこで指輪を落としたかも解らなくなるんじゃないか、とさえ思えた。
それでも諦めがつかない。金網の間から指を通してみる。案の定、手首まで通す前に掌で引っ掛かった。

指輪が落ちたのは、体重が減ったからだ。
食べている気はしてるのに、もとから質素な食事だったのに、指輪のサイズが落ちてしまった。窶れた、と言われた。
サイズが落ちたといっても、そんな指輪が抜け落ちるような劇的な変化はなかったはずだ。だから油断していたのだが―――

「………アッシュ……」

考え事を、していた。
世界で一番逢いたい人の事を。

どうすればいい。
どうすれば逢える?
一生逢えないなんて嫌だ。
指輪をくれた彼の気持ちに、未だ揺らぎなどないなら。
でも。

「消えた、って、……なんなのよ、ばか」

そんな一般には有り得ない言葉で、アッシュはいなくなった。
驚きなのが、自分の身の回りでは自分以外彼と、彼に関係するもの全てを覚えていないこと。
彼が渡してくれた指輪も、周りにとっては出所不明なのだ。
まぁ元々、自分が周りに恋人だ色恋だの話をしないからあまり変わらないのだが。

「わたしは」

ポケットの中から柄物ハンカチを取り出し、その金網―――丁度指輪を落とした地面に一番近い所―――にくくりつける。

「覚えてるから」

金網を掴んでガシャガシャ引っ張る。強度は充分。
回り込んだ方が安全かもしれないが、幸い今は人目が無い。周囲を見回しても誰もいない。目測5メートル、―――金網一番上の有刺鉄線が気掛かりだが、今は指輪の方が大事だ。

寧ろ、こんな危ないことしようとしてるんだから

「……助けに来てよ、アッシュ。ばか」

もし私が、貴方にとって何かしら大事な存在なら。

私にとって貴方は―――、一般人の身で有刺鉄線を厭わないくらいには大事。

「よ、っ………」

掴んだ金網に足を掛けた。ボルダリングの要領で金網を登る。しかしそうスルスルとはいかないもので、警察に見付かれば不法侵入甚だしく即刻御用だ。そもそもボルダリングなんてやった事ないし。

  『―――アハハッ!ホントにキミ、バカだよネェ』

アッシュの声が聞こえた、気がして動きが止まる。居るわけないのに。

  『食べたいモノ?蟹――と、言いたい所だケド、いいよ何でも。キミが作ってくれるなら』

  『あの男なんなの、ムカつく。……灰にしてきてイイ?』

  『キミ、自分を何だと思ってるの。……ボクのモノだよ。だからボクだけ見てればイイ』

地面から僅か10cm、それだけ足が離れて動きが止まる。反して、頬に伝う涙が止まらない。

  『ホント、何あの男。気安くボクのに触らないで欲しいヨ。なまえ、早くシャワー浴びて着替えてきて』

  『ハイ、アーン。……照れてるの?じゃあ、口移しがイイ?』

  『オハヨ、なまえ。……風邪ひくよ、もっとコッチおいで』

力が入らなくなり、足が地面に戻っていく。両足が力を無くした所で、再びその場にしゃがみこんだ。
息を殺して涙を拭う。大好きで大切で、大事に思い出したい声が、こんな状況で思い出されて記憶から風化していくようで悔しくて堪らない。
心の拠り所は最早、指輪と携帯に残った彼の痕跡だけなのに、片方は掌から零れ落ちていった。
この記憶をどうしたら取っておけるだろう。形ない電気信号を、形ある媒体にでも押し込めたら良いのか。
がしゃん。殴った金網は女の力じゃどうにもならず、音だけ鳴った。

「アッシュ……」

逢いたい。
口にするのは許されない気がしていた。
別れを選んだのは、自分だった。

「………逢いたいよ」

許されない言葉を、今呟く。
逢いたい。本当に。本当は。

「愛してる……」

聞いてほしいのは、本人なのに。
どうにもならない状態に歯噛みし、諦めて立ち上がりもう一度金網を登って――――

―――ガシャンっ!!

「!!」

その時、目の前の金網が大きく揺れた。一回だけ派手な音がした、と思ったら直ぐに静かになる。
何だ?突風か?そう思って周囲を見渡していると

  ――――ト、っ

軽い音がして、金網を隔てた向こう側に人の形をした赤いものが落ちた。―――金網を飛び越えた。

「――――」

それは、何度も何度も夢に見た。
何度も何度も恋しさに泣いた。
名を呼んで、返す声は無くて、それでも諦められなかった人。

「……落とすなんて、ホントにどうしてキミって人は」

記憶の中の褪せた声が、鮮やかに蘇っていく。

「しっかり持っててよネ、――――なまえ」

振り返ったその顔は、記憶の中のそのままで。

「よっ、と」

黒いマニキュアをした指が泥の中で埋もれた指輪を拾う。指先を汚したまま、彼が金網に結んでいたハンカチで指輪を拭いた。

「次落としても、拾ってやんないから」

まだ微妙に汚れた指輪。
汚れたそのままの指。
なんで、今。

「―――だから、泣くの止めなよ。不細工」

こんなに涙で歪んだ顔を見られてしまうタイミングで。

「………っ、ア、っ……」

口を開いても声が出ない。息を吐いても声にならない。
失いかけて、こんなに愛してると改めて知った。
掴んだままの金網を握り込む。額を痛いくらいに金網に押し付けると、金網の向こうで鼻先に指輪を差し出された。

「人が聞いてナイって思って悪口、ってのは酷いと思うヨ?」
「………っさい、ば、かぁ」
「キミね………」

懸命に指を伸ばした。指先に当たった指輪は回収できなかったけれど、代わりに彼の指に捕まった。
アッシュの指は暖かくて、離したくなくて握り返す。

「も、……っこ、も、どこにも……いかないでぇ………」

押し殺していた想い。

「そばに、いたいよぉ……!!」

アッシュが、長くは自分の傍にいないことが常だった。それはまだ友人関係だった頃から。
恋慕に気付き、想いが通じ、それでも叶わぬと知っていたから押し隠していた本音。
『離れたくない』。

「………人を馬鹿馬鹿言っておいて」

泣きすぎて吐き気がする。それでも絶対に目の前の男を逃がしたくなくて指を絡める。
結んだ指は金網越しに重なりあった。もっと近くに行きたいのに、自分ではこの金網をすぐに越えることができない。

「アッシュ………、アッシュ……!!」
「聞こえてるヨ」
「だい、すき……!愛してる!!」
「知ってる」

額が重なる。吐息も混じるほどに近くまで来て、慣れた距離に安堵する。
この温度は本物か。もしまた夢だったら、比喩は無しに本当に自分は死ぬくらい絶望するのではないか。

「知ってるから」

神様。

「泣くの、止めなよ」

私が祈った貴方が例え悪魔でも、きっと後悔はしない。

「可愛い顔が台無しだよ」

重なった唇が触れ合う時間の長さだけ、一心に感謝を捧げた。
この先待っているのが地獄でも、アッシュのいない楽園より何倍もマシだった。

金網越しに誓う愛に全てを賭ける。

対価は、これまでの全てとこれからの全て。



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