翌朝、目が覚めると同時になまえの鼻腔を芳ばしい匂いがくすぐった。上半身を起こし軽く背伸びをする。きょろきょろと辺りを見回し、なまえは昨日のことを思い出した。
昨日は轟と雷市が突然訪ねて来るなり、再び家族としての一歩を一緒に歩むことになった。ずっと待っていた言葉をかけられ、嬉しくて涙を流し続けていたのを憶えている。しかし、その後の記憶はない。
ふと視線を下げると、いつも眠っている布団に制服姿のままで寝かされていたことに気づいた。ブラウスは良いもののスカートには多少の皺が入っており、やってしまったと頭を抱えた。
ガシャン、という聞き捨てならない音が台所から響いた。その後に、このバカ! と轟の声が続く。なまえは急いで布団から出ると台所へ向かった。
「今の音な、」
「生卵をレンジにかけようとすンな! 爆発するだろうが!!」
「だからって皿ごと奪わなくたって良いだろ!? その所為(せい)で関係ねー皿が割れてるし! 姉ちゃんに怒られるのは親父だからな!!」
「この野郎……! テメェも同罪だ馬鹿野郎っ」
「てか、それよりなんか焦げ臭い気が……」
「やっべ、魚焼きすぎたか!? ――って、熱っ!?」
「開ける前に火、止めろよ。親父こそ馬鹿だろ」
「うるせぇ!」
料理と割れた皿をそっちのけに言い合う轟と雷市になまえは再び頭を抱える。見ているだけで頭の痛くなる光景と状況に肩を落とした。
「あ、姉ちゃん」
「うおっ、なまえ!? ちょっと待っててくれ、すぐなんとかすっから!」
ガスコンロのグリルの火を止め、雷市に換気扇をまわすついでに窓も開けるように轟は指示する。菜箸を一旦、出していた皿の上に置くと、割れた皿を片付けながら轟はハッとした表情をした。呆れた色をしているなまえに、そうだったそうだった、と呟き視線をやる。
「おはようさん」
なまえはきょとんとしたが、小さいがしっかりとした言葉を発した。
「……おはよう」
轟はニカッと笑顔する。次いで雷市もおはようと挨拶をした。
なまえはきゅっとブラウスの胸元を握る。ずっと望んでいたものが、まだ形になり始めたばかりだがやっと叶った。それは本当に温かく、たった一言でもこんなにも心地の良い響きをもたらし心を満たしてくれる。朝食作りに悪戦苦闘している二人を交互に見やると、なまえはふっと口元をゆるめた。
「どいて。二人がやったらいつ食べれるかわかったものじゃないわ!」
袖を捲くり傍へ行くと、わたわたとしていた二人は安堵の息を吐き、任せた! と声をそろえてなまえに台所を譲った。とりあえずどこまで出来ているのかと辺りを見回した。
炊飯器から蒸気が出ている為、ご飯は炊けているらしい。となれば問題はおかずだ。グリルの中には可哀想に焦げてしまった、特売のときに買って冷凍をしていた鮭の切り身が三つ。まな板の上には味噌汁か何かを作ろうとしていたのか、冷蔵庫に仕舞っていた野菜が何も施されずに包丁とともに置きっぱなしとなっている。頭の中で即興のレシピを組み立てると、さっそく朝食の準備に取り掛かった。
割れた皿を綺麗に掃除し終えた轟が何か手伝えることはないかと声をかけてくる。なまえは包丁を握ったままにこりと笑顔すると、座ってろ、と一言。轟はとぼとぼと居間に行き、テーブルの前に腰を下ろすとテレビをつけた。
次に雷市が同じことを尋ねてきた。それならと思い、なまえは郵便受けを確認してきてほしいと言った。雷市はわかったと返事をすると、駆け足で玄関へと向かった。やっぱり俺も何か手伝うぜ!? とテレビを観ていた轟が意気揚々に声をかけてくる。なまえはもう一度にこりと笑顔すると、座ってろ、と一言。それから轟は何も言わず再び黙ってテレビを観ていた。
しばらくして、出来た朝食をテーブルの上に並べると二人から歓声がこぼれた。ご飯に味噌汁、出汁巻き卵に、可哀相に焦げてしまっていた鮭の切り身をなんとか食べれるようにアレンジした料理。来客用の箸をなまえから受け取るなり、いただきます! と二人は手を合わせ、食べ始めた。
「そんなに慌てなくてもお代わりあるか、」
「うまっ!」
「うっま!!」
なまえの言葉を遮るように轟と雷市は声を揃える。美味い美味いと箸を進める雷市と違い、轟は心底感心したようになまえを褒めた。
「これならいつでも嫁に行けるな。親として堂々と胸張って送り出せるぜ、マジで」
「そ、そんなに褒めなくても……何も出ないからねっ」
「あ。でも俺の目の黒いうちは嫁にはやれねぇな……」
勝手に言ってればっ、となまえは頬を赤く染めつつそっけなく返すと、いただきます、と遅れてご飯を食べ始めた。
「そういえば、ポストに何か入ってた?」
「何も入ってなかった」
「……そう」
それはそうか、となまえは思う。母親は今、義父親の海外出張に付き添っているのだから手紙が入っているはずはない。味噌汁を啜っていると、早く食えよ雷市、と轟。なまえはちょいと首をかしげた。
「十時から練習があンだ。その前に着替えを取りに行きてぇからな。だからちょっと早めに此処を出ようと思ってる」
壁掛け時計に視線をやると、七時半を少し過ぎていた。そうだ、と突然、轟は手を叩く。なまえは瞬きし、どうしたのと尋ねた。
「練習が終わったら此処に荷物を運び込むからよ。空いてる部屋、使わせてくれ」
「えっ、此処に住むの!?」
目を丸くするなまえに轟も驚いた色を浮かべる。いやだって、と轟が続けようとした時、お茶碗におかわりをついで戻ってきた雷市は言った。
「高架下の家からやっと普通の家になるって、俺、すげー嬉しいっ」
雷市の言葉になまえの表情はサッと変わる。高架下って? とギロリと睨み低い声音で轟に問う。轟は目を泳がせ、えーと、と答えあぐねていたが、無言の圧力に負け素直に答えた。
現在、家は高架下にあるプレハブ小屋で、風呂は銭湯もしくは学校の合宿用のシャワーを借りているという。洗濯はコインランドリーを使用しているそうだ。
話を続けようとした轟に、もういいとなまえは力なく制する。今は時間もあまり無く、とりあえず詳しい話等はまた夜に煮詰めれば良い。
「使っていない客間があるから、掃除しておくわ。それから、」
そっけなく返すも声音はやさしい。嬉しさで表情をゆるめている轟を他所になまえは次いで尋ねた。
「今日のお昼は、どうするの?」
昼飯なぁ、と轟は困ったように頭を掻いた。雷市はご飯のおかわり3杯目に入ったところだった。
「スーパーにでも買いに行くかな」
「……お昼の休憩って、十二時頃?」
「まあ、それくらいの時間だな」
ふうんと相槌を打つなまえにそれがどうかしたのかと轟は聞くも、別にとそっけなく返ってきた。
朝食を食べて人心地ついた後、二人はそろそろ出ると言った。支度を済ませたなまえはラフな格好で見送ることにした。とにかく今日はするべきことが山とあり、ます何から片付けようかと考えながら雷市と轟と一緒に玄関に向かう。家を出る時も二人は小さなことで軽く口喧嘩をした。そんな二人に早く行けと叱咤する。鍵を外し扉を開けるなり、いけねっ、と轟は振り返った。
「行ってきます」
なまえは目を丸くしパチパチと瞬く。振り返ると雷市もニッと笑顔した。
「行ってきます!」
一瞬言葉に詰まったものの、なまえは結んでいた唇をゆっくりと開いた。
「……行ってらっしゃい」
まるで太陽のように眩しい二人の姿に、なまえの口元も自然と綻んだ。
愛子||160112