ゆっくりとした休みのある日。なまえは昼食を作っていたのだが、途中で醤油がなくなったと声を上げた。そこで、居間でテレビを観ていた雷市もしくは轟のどちらかが買いに行くこととなり、二人はジャンケンをした。そうして、醤油を買いに行くこととなったのは轟で財布を片手に玄関へと向かった。火元から離れられないなまえは声を張り、買ってきてほしいものは濃い口醤油だと告げる。わかっていると轟は返事をし、靴を履いた。
今日は朝から雨が降っている。傘立てに手を伸ばし、適当な傘の柄を掴んだ。出してみると白地に小さな花柄が一面に描かれており、一目で女性物の傘だとわかる。
ふと、轟の目は傘ではなくあるものを捉えた。それは、傘立てに隠すように差されてあった見覚えのある金属バット。手に取った傘を左手に持つと、金属バットを取り出した。古びたそれは色が落ち、所々へこみ錆付いている。数秒程見つめた後、あっ、と轟は小さい声を上げた。この金属バットは高校時代に自分が使っていた物だと思い出した。捨てるのが勿体無く、いつか誰かが使うだろうと持っていたのだ。なまえと雷市の母親と別れた際に、慌しかったものだからその存在自体を忘れていた。もう失くした物だと思ったいたものが、まさかこんなところにあるとは露とも思わなかった。
そういえば、と轟は昔のことを思い出す。あれはなまえと雷市がまだ幼く、この家に一家四人でちょくちょく顔を出していた時のことだ。今は雷市に譲った「金のなる木」と書かれたバットを庭で振っている時、持ってきたおもちゃで遊ぶのに飽きたのか、なまえが駆け寄って来た。いきなり駆け寄って来たものだから変な体勢でバットを止め、少し腰を痛めたのも覚えている。その後、参加した野球の試合で思い通りにバットを振れず負けてしまったのも今となっては良い思い出だ。
幼いなまえはじーっと轟を見上げると、次に縁側に立てかけてある金属バットに視線をやった。そして程なくして、キラキラとした瞳で轟に言った。

「なまえもバットふる!」

そう言って立てかけてあった金属バットの傍へ行くと、小さな手でぎゅっと柄を握った。轟は急いで駆け寄り、まだ早いと取り上げた。するとなまえはムッと顔を顰め、そんなことはないと駄々を捏ねる。

「なまえもぶんぶんできる!」
「いや無理だって。あー、ほら。前に父ちゃんが買ってやったやつあるだろう? それ振っとけ、な?」

以前、なまえと雷市の二人に色違いのプラスチックで出来た子ども用の野球道具セットを与えてやった。ボールはゴム製でよく弾み、当たっても痛くはないものだ。近くに公園もあるため、そこで二人が遊びで野球が出来るようにということで持ってきていたのだが、なまえは自分のバットではなく金属バットが良いとわがままを言う。いくら駄目だと言ってもなまえは聞かず、最後は愚図り泣き始めてしまった。
轟は持っていたものを全て縁側に立て掛けると、なまえをあやす為に抱き上げる。大粒の涙を流すなまえの声を聞き、家の中で遊んでいた雷市もきょとんとした色で庭へ出てきた。

「なまえのバットーっ」
「あーあーっ。わかった! わかったから! そんなにあのバットが気に入ったなら、大きくなった時にやるから! だから、もう泣くな。な?」

諭すようにそう伝えると、ほんとう? と目を真っ赤にしてなまえは聞き返す。本当だと頷くと、優しくなまえを抱きしめた。しゃくりを上げながら、わかった、と一呼吸遅れてから返事をした。

「おおきくなったら、あれ、なまえのね」
「おう。大きくなったら、あのバットはお前にやる。大事にしろよ?」
「うんっ」

大きくこくりと頷くと、なまえはぎゅうっと轟に抱きつき、鼻水を啜りながら満面の笑みを浮かべた。
その後、今度は雷市が自分にもバットが欲しいと駄々を捏ねだした。雷市には「金のなる木」と書かれたバットやると約束をしたのだが、そのことに機嫌を直したはずのなまえが再び我侭を言い出し、その日は一日中、誰に何のバットをやるかという話を延々としたことを思い出し、轟は懐かしさに耽りながらふっと口元をゆるめた。
あんなに小さかった二人が、今ではもう高校一年生となり、立派な少年少女となっている。轟から見れば小さなわが子なのだが、いつか自分の手から離れ一人巣立っていくのだなと思うと、少し寂しい気持ちにもなった。

「あ、そうだ。お父さん、まだ居るんでしょう? もう一つ買って来て欲しいものがあるんだけど」

と、なまえの声が聞こえるなり、轟はそっと金属バットをもとの場所に戻した。火の当番を雷市に任せたのか、割烹着を着たなまえが姿を見せた。

「砂糖も無くなったからついでに――って、なに気持ち悪い顔してるの?」

轟の表情を見てなまえは眉根を寄せる。親に向かって気持ち悪いとは何だと文句を言うと、本当のことだし、と軽くあしらわれた。

「醤油と砂糖を買って来れば良いんだろ? 任しとけって」
「醤油は醤油でも濃い口ね? 煮物するから。薄口じゃないからね? 濃い口だからね?」
「同じことを何度も言わなくてもわかってらぁ。そんじゃま、ひとっ走り行って来るわ」
「お願いね」

踵を返したなまえに、そうだ、と思い轟は声をかける。なまえはちょいと振り返ると、何? と目で問いかけた。

「昼飯食ったら、ちょっとスイング見てやっからよ。腹一杯食うンじゃねぇぞ」

きょとんとした色を浮かべるなまえとは反対に、轟は行ってきますと残すと外へ出た。傘を差し、早歩きにスーパーへと向かう。雨は弱く、何気なく空を仰ぐ。暗い雲の隙間からぽつぽつと光が漏れていた。もうすぐ雨は上がるな、と轟は呟いた。

君が笑顔を取り戻したなら
(何だかんだ言って、根っからの野球馬鹿なんだよな。アイツも)

愛子||160331