4
主上と府庫で勉強会を始めた秀麗は、綺麗な着物を着て刺繍をして日がな過ごしていた頃より余程いきいきとしていた。
珠翠にはあまりよく分からない政治についての書き物をしている秀麗の姿に、珠翠は目を細めた。
「紅貴妃様は本当に勉強熱心でいらっしゃる」
珠翠が言うと、秀麗は少女らしくくしゃりと笑みを浮かべて、照れたように頬をかく。
「結局、好きなだけよ」
秀麗はいつも使っているものよりずっと高級な筆を卓上に置いた。
墨にしろ黒々として、濃い筆致を描く。
「まだまだ始めたばかりだけど、主上に負けないように頑張るわ」
意気込む秀麗に珠翠はにこりと笑う。
「根を詰めすぎても効率は下がります。お茶と何か甘いものを用意させましょう」
「ありがとう、珠翠」
珠翠は人を呼んで、二、三、言い含めると自ら茶道具を出した。
本来であれば女官長たる珠翠が一介の女官のように茶を淹れることなど無いが、異物混入を避けるための策である。
珠翠は菓子と共に運ばれてきた湯で手ずから茶を淹れる。湯を確認したが色も匂いも味も異常は無かった。
十ほどの色とりどりな菓子が並ぶ菓子桶から無作為に一つの菓子を選んで皿に移す。
それを秀麗の前に出すと、秀麗は蓮を模した桃色の寒天菓子に目を輝かせた。
「まあ、なんて綺麗!食べるのが勿体ないわ!ねぇ、見て、銀児!」
秀麗が喜びいさんで銀児の方に皿を見せたは良いものの、銀児はぼんやりと宙を見ていた。珠翠がぎょっとしてしまうほどに銀児は放心していた。
いつも青白い顔は背景の漆喰と見分けがつかないほど血の気が失せている。死体のようだ、と珠翠は思った。
「銀児ー?銀児ー?」
秀麗は銀児の目の前でぱたぱたと手を振った。銀児はやっと少し視線を上げる。
「大丈夫?」
「……はい」
銀児は小さく息をつくとそう呟いた。
「銀児ったら、ただでさえ無口なのに――」
「すみません、人と話すのは、得意じゃなくて」
謝罪を口にしている割に、口調は冷たく硬い。珠翠の体は無意識に秀麗を庇うように動いていた。銀児は溜め息をついて両の手で顔を覆う。
顔から手を離し、秀麗の方を見る銀児の目はひどく虚ろだった。
「……すみません、何の話でしたか?」
******
――そういうことが、あったらしいのだ。
銀児が熱い茶を啜りながら「はぁ」と溜め息ともつかない返事をすると、珠翠は本物の溜め息をついた。
「少し休みなさい。……顔色も悪いですよ」
顔色も、ということは顔色も何もかも悪いのだろうか。銀児は己の頬に触れる。
そういえば先ほど道行く女官に思い切り道を譲られた。本当ならば銀児が道を譲り額付かなければならないのだが、その女官は何故かぎょっとした様子でそそくさと道を変えた。
銀児は決して無理をしているつもりは無い。時折目の奥がつきつきと痛むほかは、少しだるいくらいだ。
銀児は肩のあたりに落ちた髪の毛を指先に絡め取った。
「それから、これをお読みなさい」
どすん、と目の前に書物を山にされ、銀児は目を丸くする。
「なんです?」
「家人とはいえ紅家に仕える身であれば、それなりに教養を身に付けるべきです」
銀児はその本に目を落とした。ちらちらと中身を確認してみるが、流麗な女文字はとても読めそうに無かった。
はあ、と銀児はもう一度生返事をする。
昔――紅家の邸に来た頃だ――は、無教養な自分に劣等感を持ったが、今さらそんなことはどうでもいいことだ。
有名な詩や宮廷式の堅苦しい挨拶を知っていたところで、肉も野菜も安くはならない。洗濯や掃除の効率も上がらない。罠に兎がかかることもない。
人にはそれぞれ役割がある。秀麗はそれらを知っていれば存分に使いこなし役立てようものだが、銀児は使いこなせないし役立てる機会もない。
いらない、と一言銀児が言うと、珠翠は首を横に振った。
「いいえ!」
ずい、と珠翠は銀児に顔を寄せる。銀児は思わずのけぞった。
珠翠は柳眉を吊り上げ、翡翠の瞳で銀児の目を覗き込む。銀児は目を逸らした。銀児は初めて知ったのだが、美女が怒ると迫力が半端なものではない。
「いいですか? あなたが不必要に自己卑下に走るのは自分に自信が無いからです! そうでしょう?」
そうなのだろうか。銀児は首を傾げる。
「そうなのです!」
答えを出されてしまった。はあ、と銀児は三度生返事をする。きっ、と珠翠は表情を厳しくした。
「返事ははい!」
「……はい」
鬼教官体制に入った珠翠に銀児は肩をすくめる。
銀児は詰め寄る珠翠の白い肌を眺める。白粉を叩いた肌理の細かい肌。銀児も色は白いがそれとは次元が違う。
手入れの行き届いた上品な白。きゅ、と引き結ばれた朱唇が艶めかしい。ふとそれに触れたい衝動に駆られる。
そんな邪な思いを銀児が抱いているとはつゆ知らず、珠翠はてきぱきと銀児に書物を手渡して行く。
あの、と声をかけようとすると、珠翠は銀児を睨み付けた。
「なんです、めそめそと鬱陶しい! 自分が邵可様に釣り合わないと思うなら釣り合うように努力すればいいでしょう!」
ぽかんとする銀児に珠翠は、ああもう!と声を荒げた。
「こんな、敵に塩を贈るような真似をしたいわけがないでしょう! でも、無教養で粗忽でそれをうじうじと気に病むばかりのあなたに邵可様のお傍にいてほしくないの! 私の我が儘です!」
珠翠の迫力に押されて、銀児は椅子に座ったまま目を瞬かせた。
「……気に病む? 私がですか?」
「はあ?」
銀児の呆けたような顔に珠翠は楚々とした貴婦人らしからぬ声をあげる。
銀児はただただ珠翠を見つめていた。気に病む? 誰が? 私が?
「……考えたこと、無かったです」
珠翠も目を丸くして、先ほどまでの気炎はどこへやら、へなへなと椅子に座った。珠翠は額を押さえる。
「そこから、ですか……」
げっそりと呟く珠翠はいきなり老けて見えた。銀児は何か申し訳ない気持ちで眉尻を下げる。仕方がないだろう。銀児はそういうものに全て蓋をして、見ないふりをして、諦めて、そうして生き延びてきた。
「では、私も敵に弱みを晒しますが」
敵、という言葉に珠翠は一瞬いやそうな顔をした。銀児は構わず卓上の書物を手に取り、頁を繰る。
「字が読めないのです」
「なんですって?」
驚きの声をあげてしまった口を珠翠ははっとして押さえた。
縹家の傀儡として、風の狼として数々の修羅場をくぐった珠翠であるが、元を正せば高位の人間の間で暮らしてきた純粋培養のお嬢様である。
文盲の人間がいるということを認識はしていても、実感したのは初めてだ。
銀児は薄暗く口の端に笑みを浮かべた。
「基本的な読み書きは出来ますが、これは何を書いてあるかさっぱりです」
これ、と銀児は珠翠に手渡された書物の表紙を叩いた。
「だから、私に字を教えてください」
邵可が何を読んでいるのか知りたいのだ。欠片でいいから、邵可と世界を共有したい。
住む世界が違いすぎると諦めていた。お互いの厭わしい過去を共有していればそれでいいと自分に言い聞かせて、己の世界は邵可で完結しているものだと思い込んでいた。だが、案外そうでもないようだ。
気付いてしまえば簡単なことだった。
「珠翠様は、兇手に向いていなかったでしょう?」
銀児が言うと、珠翠は複雑そうな顔をした。銀児は肩をすくめる。
「……褒めたのです」
「もっと分かりやすく褒めて頂けると助かるのですけれど」
珠翠は軽く銀児を睨む。銀児は今度は本心から、薄く笑った。と、自分では思ったのだが、珠翠には気付いてもらえなかった。
「躾のし甲斐があるでしょう?」
「教育と言いなさい。今日からみっちりあなたに文字と正しい言葉遣いを叩き込みますから覚悟なさいな」
珠翠はわざわざ銀児に茶を淹れるために並べられた茶道具を片付けながら、言い放つ。
熱くて濃い茶のおかげか最近ぼんやりしっぱなしであった頭がすっきりとした。ずきん、とこめかみの辺りが痛む。銀児はそこに手をやる。つきん、つきん、と脈打つように痛んだ。
「では、私は一仕事終えて来ます。……ごちそうさまでした」
銀児が立ち上がると珠翠は慌ててそれを止める。
「休むように言ったでしょう」
「平気です。多分、少し寝不足で寝ぼけただけですから」
銀児は上着を手に取る。今から秀麗は府庫で勉強会の時間だ。
外朝と内朝の行き来というのは気を遣うのだ。どうしても一瞬、警備が完全に途切れてしまう。だから、いつも銀児がついて歩く。女官でも警備兵でもない銀児には外朝と内朝の出入りに煩雑な儀式も手続きも必要としない。
何より、府庫に胸を張って行ける機会は少ない。これを活用しない手はない。
しかし、珠翠は少し考える様子で眉をひそめる。
銀児は頭を仕事に切り替えて、机上の見取り図を指差した。
この室は紅貴妃の側近の控え室のようなもので、つまり珠翠と銀児以外に入るものはいない。さらに、後宮を取り仕切る珠翠の室に後宮の見取り図があっても何ら不自然ではないので、わざわざそれを隠すような真似はしない。
「おそらく、今はまだ紅貴妃を狙う者はいないと考えていいと思います」
それは珠翠も同意見であろう。珠翠は軽く頷く。
「というより、私ならしません。狙うなら、紅貴妃自身が後宮に慣れ、警戒にむらが出来た頃です」
「外朝にもどうやら一部以外にはまだ紅貴妃様のことは知られていないようです。知っていても、同衾も無い今なら紅貴妃様に取り入る方が賢明です」
そもそも紅貴妃を狙う輩がいるのかどうかも怪しい今は、どうにも動きようがない。
銀児は見取り図上に指を滑らせる。指先に料紙の滑らかな感触が触れた。
「たとえば私が紅貴妃を殺そうとした時……」
珠翠が銀児を睨む。
「たとえ話です。そんな顔をしないでください」
どうにも銀児は珠翠の信用が無いのだ。
「私なら、いつも傍にいる人間は目障りです。もし、それが懐柔出来そうなら手懐ける。なるべく相手に、私をいつでも紅貴妃の傍に控えていると印象づけたい」
だから、私は行きます。と銀児が言えば、珠翠は首を横に振った。
「正直に言いなさい」
「退屈なんで邵可様に会いに府庫に行ってきます」
「……正直すぎやしませんか?」
珠翠は呆れたように言って、椅子に座ると見取り図に触れた。桃色の綺麗な爪が並ぶ細く滑らかな指と、骨張って節高い傷だらけの指を見比べ、銀児は手を引く。
珠翠はふと目を伏せた。
「あなたほど素直でいられたら、私は――」
ふう、と銀児は息を吐く。
「いや、それは多分無いですし、私は素直なのではなくて我慢がきかないだけです」
無い、と言われて珠翠は多少不快だったらしい。きゅっと眉間に皺を寄せて銀児を見つめた。銀児は視線を床に落とす。
「多分、私と珠翠様は全然違うんです。私は邵可様と幸せになりたいわけじゃない。夫婦になりたいわけでもない」
銀児は顔を上げた。感情を映さない淡い色の瞳が、珠翠を捉える。今度は珠翠が視線を外す番だった。
気まずい沈黙が室におりる。一人の女官が秀麗の支度が整ったことを伝えに来たので、銀児は室の端に寄った。
「ええ、では、……銀児は紅貴妃様のお側にお控えなさい」
銀児は会釈して、珠翠の横をすり抜ける。一瞬、珠翠と目があって、すぐに離れた。
******
「……ということがあったらしく」
銀児が珠翠に聞いた自身の失態を多少哀れっぽく脚色して伝えると、邵可はあまり興味が無さそうにふぅんと言った。
静かな府庫には隣室の絳攸の講義の声も、それに質問する秀麗と劉輝の声も響いている。だから、銀児はあまり大きな声が出せない。
面倒くさい嘘をついてしまったものだなぁと思う一方、声をひそめて邵可の耳元に囁くのは、ひどく楽しかった。
「……それだけですか? 心配してくれないんですか?」
「心配しているよ。君、少し休みなさい」
銀児は憮然として目を細める。
「休む間、ここにいてもいいですか?」
「銀児、我が儘を言うんじゃない」
邵可は銀児の髪を撫でた。が、銀児はそんなことでは誤魔化されない。
邵可はこのところ自邸に帰っていない。邵可のいない邸に一人で帰るのも、人だらけの後宮で休むのも銀児は御免だった。どんなに静かな離宮でも、ひっきりなしに人の気配がする。
銀児は邵可の耳に噛みつく。
「銀児、やめなさい」
「……やめません」
どうしてここまで強情になっているのか、銀児は自分でもよく分からなかった。銀児は頭の悪い猫のようにしつこく邵可に絡みつく。
「銀児……」
「邵可様が、ちゃんと私を心配してくれたらやめます」
邵可の耳朶を吸うと、邵可はわずかに肩を強張らせた。銀児はそれに気を良くして、邵可の方に体を傾ける。
「銀児」
どさっ、と邵可は銀児に数冊の書物を押し付けた。銀児はつい反射的にそれを受け取ってしまった。銀児と邵可の間に書物の分の隙間が開く。
「元気そうじゃないか。これ、書架に片付けてきてくれるかい?」
邵可はそう言って自分の書簡に視線を落とした。銀児はぼんやりと邵可の背中を見つめる。
「……はい」
銀児の中に輪郭を持たない疑念が浮かんだ。
これでいいのか。私はこれで満足か。胸がちくりと痛む。目の奥がどくどくと脈打った。
紅邸を出れば目もくらむような絢爛豪華な後宮もある。逆に日の糧に困窮するような地域もある。世界は広くて複雑だ。
自分の世界は決して邵可だけで構築されているわけではなかった。銀児は今回初めてそれを実感した。
知りたくなかった。知らなければ、欲する必要もなかった。この広い世界のどこかに本当に自分だけを求めてくれる人間がいるのではないか、と夢見てしまった。
銀児は本を抱えて邵可の仕事部屋を出た。書物にふられた番号を確認しながら書架の間を巡る。
かさかさと紙のこすれる音と、古い紙と墨の匂い。それから籠もって聞こえる講義の声は、銀児を深い思考の海に沈めた。
邵可のこと。自分のこと。秀麗のこと。静蘭のこと。後宮のこと。昔のこと。今のこと。先のこと。
ただ銀児の脳裏には邵可ばかりが浮かぶ。邵可は銀児の全てでは無かったが、大部分ではあった。
あまりに考え込みすぎて、銀児は背後の人の気配に気付けなかった。
「やあ、銀児。また会ったね」
銀児は突然の声にびくりと跳ね、慌てて振り向いた。楸瑛がにこにこと穏やかに笑いながら銀児の前に立つ。
武官の楸瑛は講義中は暇らしく、静蘭と警護を交代しながらよく府庫をうろついていた。
銀児は立場上、王との相席を許されていないために秀麗を送り届けてしまえば暇で仕方ない。邵可はいつもあの調子だ。
「蔵書整理かい? 手伝おう」
銀児は首を傾げる。
「そう遠慮しないで。私も暇なんだよ」
楸瑛は銀児の腕から本をひょいと持ち上げると、銀児に一冊を示して見せた。
「これはどこにしまえばいいのかな?」
銀児は本の番号を確認して、書架を指差す。
楸瑛は何かと親切にしてくれるが、それを勘違いして浮かれるほど銀児は初でも馬鹿でもない。こういう男に本気になると痛い目を見るのは世の習いだ。
そういうわけで、口のきけない設定は何かと重宝していた。話しかけられても適当にあしらえるし、いざとなったら「ちょっと何を言っているか分かりません」という顔をすればいい。
喋らなくていい、というのは銀児にとって幾分気が楽だった。なので、銀児は楸瑛にからかわらていようと、彼がそう嫌いではない。別に好きでもないが。
「これは、ここ?」
銀児は頷く。楸瑛は踏み台も使わず書架の最上段に本をしまった。
昼下がりの府庫には柔らかな春の陽光が差し込んで、温かみのある情景に見せている。
裏の蔀からは後宮の庭園に咲き誇る花の香りが吹き込んでくる。桜に取って代わられ散っていくばかりの梅が、最後の足掻きとばかりに強い香りを撒き散らしていた。
銀児はふと寂しくなる。
桜に比べれば華やかさに欠け地味な梅は、魅惑的な香りで人目をひこうとする。なんだかそれはひどく、自分に似ていると思った。