5
太陽は丁度空の天辺にのぼっていて、室内は妙に薄暗かった。
秀麗が王と昼食をとっている間、ぶらぶらしている銀児は珠翠に捕まえられて机に向かっていた。
紙上へ単調に文字を並べながら、銀児は溜め息をつく。珠翠はそれを目ざとく見咎めた。
「いやなら、別に構いませんよ」
「……いやじゃない、です」
「よろしい。続けなさい」
銀児は黙々と書き取りを続けていく。秀麗の昼食は終わり、主上との課題研究会が始まっても珠翠は銀児を離さなかった。銀児の集中力は限界に近い。
「……分かりました。少し休憩にしましょう」
最終的に折れたのは珠翠の方だった。銀児の目が本格的に虚ろになったからだ。
銀児は筆を置き、重ねて書いたために真っ黒になった裏紙を眺めた。
「なんだか……洗脳されそうです。師に曰わく師に曰わくって」
「この名文を読んで他に何か感想は無いのですか?」
「同じ言葉を繰り返すのは洗脳の基本ですから、よく考えられた文章だと思います」
ああそうですか、と珠翠は額に手をやる。銀児はぼんやりとそれを見る。
「……珠翠様、質問良いですか?」
「ええ、どうぞ」
銀児は筆を持ち慣れぬために手を汚した墨を拭き取りながら尋ねた。
「後宮はいつまでもいられるわけではないのでしょう?」
「……ええ、まあ、そうですね」
「珠翠様は後宮を退いたらどこへ行くつもりですか?」
珠翠は目を伏せた。中には老いてなお後宮に固着し、新しい姫君の世話をしたがる女もいる。だが、珠翠にはそのつもりはなかった。
「……私はいずれ、蒼遙姫を祀る霊廟におつとめしたいと考えていますが」
それは縹家の目をくぐるためでもあり、自身の心の安寧のためでもあった。
銀児が重ねて問う。
「それは、たとえば私がなりたいと思えばなれるものですか?」
「え? ええ、施設さえ選ばなければ、誰でも受け入れられます」
そう言うと、銀児は珠翠を冷ややかな双眸で見上げた。
「人殺しでも?」
珠翠は銀児の真白い顔を見つめる。
珠翠は、縹家の巫女であることを差し引いても邵可に大切にされていた。危険な仕事はほとんど同行させてもらえなかった。その邵可の優しさを有難く思う反面、仲間外れのようで寂しくも思う。
「ええ、きっと」
珠翠とて暗殺傀儡であった過去を持つ。人を殺めたことだってある。
だが洗脳された己の記憶は曖昧である。断末魔や途切れ途切れな苦悶の表情を夢に見て飛び起きることはあっても、その時自分が何を思ったかまでは思い出せない。
自身と銀児の一番大きな違いは、おそらくそれだ。
自らの意志で人を殺すということ。だから、邵可と銀児の目はどこか似ている。邵可は銀児に己に向けるのとは違う感情を抱く。
邵可や銀児が何を考えて武器を研ぎ、どういう思いで首を落とすのか、珠翠には想像もつかなかった。
ふ、と珠翠の唇から問いが零れ落ちる。
「どのようなものでしょう」
「なにがです」
銀児は首を傾げる。珠翠は朱唇を湿した。
「ひとを、あやめるということは」
銀児は薄い唇をきゅうと横に引き、目を細める。珠翠の腹の底が冷えた。やはり、そんなことを聞くのは間違いであった。
己の問いを撤回しようとする珠翠の言葉を、銀児は低く感情を窺わせない声で遮る。
「さあ? きっと、珠翠様が獣肉を口にするのと変わらない」
珠翠はまじまじと銀児の顔を見る。銀児は憂鬱そうな顔で、自分の墨に汚れた手に目を落とした。それから、ふと笑う。笑ったのだと思う。珠翠はだんだん銀児の表情の読み方が分かってきた。
「そんな顔をするくらいならば、最初から聞かなければいいのに」
珠翠は気まずさに髪を耳にかける仕草をする。銀児は三日月のように目を細めた。
「珠翠様は分かりやすくて可愛い。とても、お嬢様と似ています」
でも、と銀児は続けた。でも、少しだけ寂しそうですね、と。
兇手としては虚仮にされたも同然の言葉だが、珠翠はそれに嫌悪感を抱かなかった。珠翠は答える。
「私はあなたが何を考えているのかさっぱり分かりません」
銀児はひどく曖昧に笑って見せた。
隣室から秀麗の声が聞こえる。明るい声だ。それに主上の声が答える微笑ましいやりとりが壁越しに響いた。
「――不躾なことを聞きました。申し訳ありません」
珠翠が詫びると銀児は首を横に振る。
「いえ、気にしないでください」
「余計なお世話かもしれませんが、あなたはもう少し自分のことに気を配った方が良いと思いますよ」
「……そうでしょうか」
銀児が呟いた時、こつんと蔀が叩かれ、二人は同時に顔をそちらに向けた。
「すみません。多分、私です」
銀児が蔀に寄り、開け放つ。咲き初めの躑躅を世話する庭師に、銀児は見覚えがあった。
「立ち聞きですか?」
「悪く取るな。たまたま聞こえただけだ」
庭師に扮した紅家の影の男に銀児が鼻を鳴らして「それで、何用ですか」と問えば、男は影らしい無機質な表情を取り戻した。
「霄太師のお呼びだ。府庫の手前の廊下を突き当たり右手の資料庫」
行け、と言われても動かない銀児に影の男は怪訝な顔をした。
「なんだ」
「あなたは紅家の影なのに、どうして霄太師の使いっ走りをしているのですか?」
影の男は思い切り顔をしかめた。
「おい、あの爺は狸の化け物か? 」
「年経りし狸は狸仙人になるんですよ」
「ああ、あいつは仙人か。ならば得心がいくな」
銀児も昔を思い出して苦々しい顔をする。動向を窺う珠翠を振り向き「少し用を足してきます」と言うと、珠翠が頷いた。
銀児はざっと辺りを見回し、身軽に蔀を乗り越える。
「銀児、きちんと扉をお使いなさい」
ああ、すみません。と銀児はぞんざいに詫びると、影の男の脇をすり抜ける。
府庫の近くならば帰りに邵可様のところに行こう、と考えれば自然と銀児の足取りは軽くなる。
ふ、と珠翠の言葉を銀児は思い出した。自分のことを考える。銀児は首を傾げた。
銀児は兇手として、徹底的に物であるように教えられた。
おそらく雇い主にとって銀児達は自ら考えて標的を追う刃でしかなかった。飯を食い、言葉を話し、自ら動く凶器でしかなかった。銀児もそうあろうとした。 人らしい機微が己に宿っているのか、銀児はどうにも確証が持てない。
銀児は府庫へと続く廊下を注意深く渡りながら、あたりに目をやる。資料庫と言ったか。目当ての場所を視線で探す。誰に見られても構わないように、資料を取りに来た風を装う。
思えば、昔のことを思い出すことなどほとんど無かった。別に、思い出したくないわけではない。ただ、思い出さぬようにはしていた。
だが、最近は後宮の単調な毎日のせいか、慣れぬ生活での疲労のせいか、妙にその頃を思い出す。ふとした拍子に、生きた肉を裂く感触だとか、手に伝う血の熱さと生臭さだとか、死ぬ間際の引きつった表情だとか、そういうものが脳裏をよぎる。
ふと青年の顔を思い出す。信じられない、という表情を顔に貼り付けたまま事切れた青年。殺すために近付いて、首尾良く殺したけれど、銀児はその青年がそんなに嫌いではなかった。
少々世間知らずなお坊ちゃんではあったが、田舎から売られてきたばかりの小女、という役割の銀児をまるで妹のように可愛がってくれた。
「銀児」
しわがれた声が銀児を呼んだ。銀児は思わず飛び上がりそうになりながら、息を整え声の方へ足を向ける。
髭を撫でつけながら笑みを浮かべる霄太師が、銀児を舐めるように眺めた。
「銀児、顔を」
霄太師は、銀児の目蓋を捲り上げ、目を覗く。顔に触れる皺ばんだ手の感触に、銀児はぎょっとして身を引いた。
「体調が優れぬようじゃな」
「いいえ」
すかさず首を横に振る銀児に、霄太師はそれ以上何も言わなかった。銀児は痛む目の奥を庇うように、目元に手をやる。
「……なぜ、呼んだのです」
「紅貴妃を狙う者がおる。手を貸せ」
「お断りです」
もうこの男の兇手はやめた。命を聞く義理はない。
「紅貴妃の命がかかっておる」
「私を情で動かすのですか?」
ふむ。と霄太師は笑う。
「なれば褒美を用意しよう。果たせば、紅薔君のことを教えてやる」
どうじゃ? と霄太師が、片眉を上げた。その、断れないだろうことを見越したような表情が気に食わない。
だが、銀児は揺れた。
銀児の知らない、邵可の妻のこと。聞くのは、美しいとか気高いとか、銀児には関係のないことばかりだ。銀児が知りたいのは、そういうことではない。
銀児の喉が震える。ん? と霄太師が先を促す。
「……そんな事あなたに聞いたら、邵可様に嫌われちゃうじゃないですか」
銀児が低く唸ると、霄太師は驚いてわずかに表情を揺らがせた。気分が良い。
「あまり入れ込めば、身を滅ぼすぞ」
「もう死んだようなものです」
銀児は薄く笑う。霄太師はやれやれとばかりに溜め息をついた。
「強情なやつよのう。意地は時に両刃の剣じゃて」
銀児は鼻を鳴らしてそのあたりの書簡を手に取る。資料庫に入って手ぶらでは怪しまれるかもしれない。
「ああ、霄太師。もし、ただで教えてくれる気になったらいつでも声をかけてください」
銀児がそう言うと霄太師は茶化すように眉を八の字にして肩をすくめた。銀児はなんでもない顔をして資料庫を出る。
勝手に持ち出した資料は後で返さねばならない。
銀児は廊下をぼんやり眺めながら、とぼとぼと府庫へ向かう。
やはり、紅薔君のことを聞けば良かったか。と銀児は今さら後悔する。だが、聞いてどうなる。銀児はぐるぐると考える。
紅薔君のことを知って、自分に何が出来る。邵可が求めるのは、何も知らない自分なのだ。
邵可が何より望むのは、立場も身分も肩書きも関係なく、ただ一人の男として求められることだ。だから、銀児は今知っていることだけ知っていればそれで良い。
銀児は邵可に会いたくなった。会って、触れて、存在を確かめたかった。邵可の、ではない。自分の、だ。
銀児は黙々と府庫に向かう。竹林がさわさわと揺れる。
「銀児」
呼び止められ、銀児は足を止めた。絳攸の傍らでひらひらと手を振る楸瑛にこのときばかりは言いようのない感情が湧く。
銀児を見て、絳攸は顔をしかめた。
「常春頭が。邵可様の家人にまで手を出すとはどういう了見だ」
「別に構わないだろう? 彼女が紅家の人間というわけじゃないんだし」
「下女に手を出すなど、おまえらしくないな」
「なあに、たしかに私は美しく整えられた大輪の花が好きだけど、野に咲く花が美しくないわけではないよ、絳攸」
ねえ、銀児。と楸瑛は銀児に目配せする。しかし、銀児は楸瑛の腰に視線を落としていた。楸瑛の腰の、剣に目をやっていた。
黒塗りの鞘に丁寧に金鍍金を施した装飾、上品な藍玉が鈍く光っている。美しい剣だ。
銀児はそれを見つめた。
銀児は刃になりたかった。ただ一つの目的のために鍛えられたそれは、何にもまして美しい。ひんやりと濡れたような鋼の刀身になれたなら、きっとこんな風に、昔を思い出すことはない。 ただ物として邵可の傍にあれば、思い悩むこともなかった。
楸瑛は、笑う。記憶の中の青年の笑顔と被った。
「剣に興味があるのかい?」
楸瑛は少しだけ剣を鞘から抜く。覗き見える白銀の刀身は、およそ凶器らしくなかった。
磨き上げられた鋼にちらと桜が映る様が美しい。
「うつくしい?」
誰かが銀児の耳元で囁く。
「人殺しの道具だ、おまえと同じだよ」
ぱ、ぱ、ぱ、と目の前がちかちかした。銀児はこめかみをおさえる。
楸瑛が遠慮がちに銀児に近寄った。
「どうしたんだい? 泣いている」
楸瑛の手が、銀児の背中に触れる。銀児は楸英の言葉で、おそるおそる己の目元に触れる。指先が濡れた。
なんでもない、と銀児は首を横に振る。その間も、涙がぽたぽたと顎を伝って着物の胸に染みを作った。
「どこか痛むのかい?」
再び首を横に振る。痛いのではない。悲しくも、辛くもない。よく分からない。
ただ、人を殺め続けてきたことを思い出して泣いているのならば、己にそういった情操がまだ備わっていることに少しだけ驚いた。
銀児は、冷たく硬質でいたかった。幼子のように泣きながら、いやに冷静なままであったが、涙は止められなかった。結局人は物にはなれぬのだろうか、と思った。
「銀児」
びくん、と銀児の体が跳ねる。決して大きな声ではない。
「銀児、おいで」
銀児は声の方向に向き直る。楸英と絳攸がほっとしたように声の主ーー邵可を見た。
銀児はふらふらと邵可のもとに向かう。涙で滲んだ視界に、邵可の相貌が映る。邵可は銀児の目蓋に触れると、粘膜をぞろりと撫でて眉をひそめた。
「邵可様、これは、その……」
外朝にさえ浮名を轟かせる楸瑛は、誤解を受けかねない状況に慌てた。これではまるで楸英が銀児を泣かせているようである。青くなる楸英を尻目に、邵可は常のごとく穏やかに笑んだ。
「私の家人がご迷惑をおかけしました。体調が悪いようだから休めと言ってはあったのですが」
邵可はそう言うと、泣く銀児の背をとんとんと叩く。
「落ち着いた?」
泣いたまま、銀児はこくりと頷いた。
「歩けるね?」
銀児はもう一度頷く。邵可は再び二人の方を見た。
「もう一つ、秀麗や静蘭にはこのことを伝えないでください。無用な心配をかけてしまいますから」
それだけ言い残し、邵可は銀児を連れて府庫へ帰って行く。その後ろ姿を二人は呆然と見送った。
「……私、何かしたかな?」
「知るか」